君がくれないあの日の言葉へ

さなこばと

君がくれないあの日の言葉へ

 微笑む佐那が橋の向こうから、俺に小さく手を振っている。

 俺は、棒立ちで見ていることしかできない。

 もうずっと、続いていることだった。

 あの日。

 フラストレーションという言葉が俺の脳裏をよぎっていた。


 俺の中では、俺と佐那は、共に並んで道を歩くような間柄だった。



 就いたばかりで慣れない仕事に明け暮れ、俺が帰るのはいつも夜遅くだった。

 半月前から婚前同棲している佐那は、日付の変わる時間が迫るまで布団に入らず、俺の帰宅を待つのが日常となっていた。

 日常だと俺は思っていて、だからその日も俺の帰りを待っていたのだと思った。

「ただいま」

「おかえりー」

 リビングのテーブルにコンビニ袋を置き、俺はいつものように風呂に向かった。面倒ごとを真っ先に終わらせて、あとは食べて寝るだけにするのが日課だった。

 シャワーをさっと浴びてから早々に出て、タオルで体を拭いていると、

「ね、友斗は明日の土曜日、休みだよね?」

 と、リビングからドア越しに、こもった声が聞こえてきた。

「あー、明日も仕事、入ったんだ。休日出勤」

「……そう」

「まあ翌週の月曜に振り替えをもらったから大丈夫」

「……うん。でも私、月曜は仕事だけど……」

「そっか。それはそうだよな」

 部屋着を身につけて、リビングで食事をした。向かいの椅子に佐那がうつむいて座り、スマホを見ていた。それを横目にコンビニ弁当を食べつつ、俺は片手間にスマホをいじった。ほど近くにレストランが新装オープンしたのを知り、お互い休みの日曜日に佐那と行けたらと思った。

 俺が顔を上げるのと同時に、佐那は席を立った。

「私、そろそろ寝るね」

「あ、うん。いつも遅くまで起こしてて悪いな」

「いいよ!」

 俺のほうに顔を向けて佐那は微笑みを送ると、床を静かに踏んで寝室へと歩いて行った。


 翌朝早く、布団の中で眠る佐那を確認すると、俺は一人で出社準備を済ませて家を出た。

 夜更けに帰ると、佐那の姿はなかった。衣類も小物も生活用品も、跡形もまるでなく、佐那は俺の元から消えた。


 それが今になって、一通の手紙を受け取った。

 知らない街の写真。

 緑の鮮やかな山々の写真。

 岩の間を速く流れる川の写真。

 ランドマークのような鉄塔の写真。

 一枚の便せんに、一言だけ、

『世界は広いね!』

 と、慣れ親しんだ佐那の字で書かれていた。



 俺は棒立ちのまま、橋の向こう側を見ている。

 澄んだ微笑みを浮かべた佐那は、後ろ手にくるりと回ると、こちらに背を見せて、なだらかな道の先へとゆっくり歩き始める。ひるがえるスカートの裾、空気を受けたふんわりとした膨らみ。微かに響く軽い足音。

 視界から遠ざかる佐那は、どこか荷を下ろしたかのような様子で、今にもスキップしそうに軽快で、耳をすませば鼻歌でも聞こえてきそうだ。

 俺を離れて、なだらかな道を進み続ける佐那。どんどん小さくなる佐那。

 そして、佐那は、永遠の点になる。

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君がくれないあの日の言葉へ さなこばと @kobato37

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