第17話 闇へ沈む


 それほど事件性は高くないと判断したのか、それとも真夜中という時間だったからか、マンションに到着する少し前にパトカーは赤色灯を消した。私は正直ほっとした。


 交番を目指して走っている時は、けたたましいサイレンが鳴り響く中、手錠をかけられ項垂うなだれて連行される彼の姿を想像していた。だが今となっては、警察沙汰になったことをマンション住人に知られたくないという思いの方が強かった。



 エレベーターを降り、私は二人の巡査の後ろを歩く。目的の部屋番号の前で立ち止まると巡査の一人が無言でドア指を差し、私はそれに頷いて応えた。巡査がチャイムを鳴らすとドアはあっさりと開いた。驚いたような表情を浮かべる彼に、私は少しわざとらしさを感じた。


「怜奈……突然飛び出して行ったからびっくりしちゃって。あの、どうして警察の方が?」


「ちょっと! 何言ってるのよ! あなたが――」


 私は極力声を抑えながらも、ありったけの怒りを込めて彼を睨みつけた。すると目の前に立っていた巡査の一人が私を制した。


「まあまあ、時間も時間ですので。椋木天助さんですね? ちょっとだけお話をお伺いしたいので、下のパトカーの方までよろしいですか? あっ荷物はお持ちください」


 彼は一度荷物を取りに中へ戻り、眼鏡を掛けた巡査とエレベーターへと向かう。すれ違う際、ちらりと私を見ながらわずかに白い歯を見せた。動揺するどころか余裕さえ見せる彼に、私は背筋がぞくっとした。



 当時の状況を説明するため、私はもう一人の巡査と家の中へと入った。塩をばら撒いたはずの廊下はきれいに掃除されており、争った形跡はどこにも残っていない。それでも私は懸命にその時の様子を話した。


「ここでこう抱きつかれて倒されたんです! そして下着の中に手を入れられて――」


 傍から見ればさぞ滑稽だっただろう。一人で廊下に寝転がり、必死の形相で説明を繰り返す女。それに不幸中の幸いと言うべきか幸い中の不幸と言うべきか、私の体にはどこにも傷や痣は残っていなかった。私の説明を聞いていた巡査の顔も、徐々に冷ややかな目つきへと変わっていく。


「もう結構です。だいたいの状況はわかりました。少し座って休みましょうか」



 促されるようにソファーへ体を預けると、疲れがどっと押し寄せてきた。時計を見るとすでに午前2時。今更ながらアスファルトを裸足で走った足が痛くなってきた。疲労で体は重くなり、痛みと悲しみで気持ちはどんどん沈んでいく。酷い現実から逃げ出したくて、私は両手で顔を覆い尽くした。



 


「だーれだっ?」


 店の外の掃除をしていると後ろから突然目隠しをされた。


「うわっちょっと!」


 びっくりして払いのけようとすると、すべすべとした柔らかな感触。そして背中には 弾力性のある物体がむにゅっと押し付けられている。完全に抱きつかれているような体勢だ。手を外して後ろを振り向くと、むふふと笑いながらメアリーが立っていた。


「こんなことするのメアリーしかいないでしょ? 帰ったんじゃなかったの?」


「さっき買うの忘れちゃって~歯磨き粉買いにきたの」


 店内の時計を見るとすでに3時を回っている。こんなに夜更かしして、この子はちゃんと大学に行ってるのだろうか?


「だから危ないよって。こんな時間に女性が一人で」


「平気平気~なんかあったらコウヤっちに、助けてーって念を送るから」


「そんな能力あったら、いよいよヒーローにでもなるよ……」


「いいねヒーロー! テレパシーが使えて過去が見れる。アメコミとかに出てきそう。後は空とか飛べると最強なんだけど」


「高いの苦手だから飛びたくないです」


「飛ぶと言えばスコットランドで目撃されたフライングヒューマノイドがいてね――」


「はいはいはい。歯磨きしてさっさと寝るよ」



 僕はまた変なゾーンへ入りそうになるメアリーの背中を押して、店の中へとねじ込んだ。


 




 聞き取りを終えると、その警察官は書類を運転席へと乱雑に置いた。渡していた免許証をおれに返しながらくたびれたような声で言った。


「まあ今日の所はお帰りください。我々ももう一度彼女から話を聞いてみますので」


「わかりました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」



 パトカーを降り、おれは自分の車に乗り込んだ。ちらりと怜奈の部屋の窓を見上げおれは車を走らせた。彼女と言い争った時のことを思い出し、思わずグっとハンドルを握りしめる。


「くそがっ! くそがっ! 警察なんかに行きやがって! とんだ醜態だ!」


 バンバンとハンドルを叩きアクセルを踏み込む。なにもかも順調だったのにどうしてこうなった? 怜奈はなぜ急に変わった? 


 あの日レストランで会ったのは偶然だった。二人がいるのを見かけ、憐れな兄貴をちょっとばかりからかってやろうと思った。だが怜奈はおれを見た瞬間、顔が青ざめていた。


 少しやり過ぎたと反省し、すぐにご機嫌取りをしようと思ったが連絡がつかない。返事が来たと思ったら別れようなどどぬかしやがる。一体何があったというのか。


「兄貴に直接聞いてみるか……確かあそこのコンビニだったな」


 

 おれはカーナビに目的地を入力し、再びハンドルを強く握りしめた。





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