ヒビ
「聖女様、今日は冷えます」
祈りの場の中央で膝をついて祈っていたアリアの肩にふわりとマントが掛けられた。
「…ありがとうございます、コンラッド様」
「どうかコンラッドと。…もう何度目かわかりませんね、このやり取りは」
柔らかい声で、体温で手を差し伸べてくれる人と、その手を取る自分をアリアは遠くから見ていた。
(…また、この夢…)
幸せだと思えていた頃の記憶がこうして夢に現れるのは一体何度目だろうか。
祈りの場には聖女だったアリアとその護衛騎士であるコンラッドの二人しかおらず、あまりにも
「…聖女様、また眠られていないのですか?」
コンラッドの骨張った指がアリアの目元を撫でて眉尻が気遣わしげに下がる。
そんな親密な距離も、心地良かった。
「少しだけ夜更かしをしてしまいました。読んでいた本が面白くて」
「……シーニャから聖女様はお部屋に戻られても祈り続けていると聞いておりますが」
「あ、知っていて聞いてきたのですね。意地悪」
「…アリア様」
はぐらかすように笑うとコンラッドはまた困ったように表情を陰らせて、何か言いたげな顔でアリアを見る。その顔にアリアは滅法弱かった。
「……眠れないのです。私が眠っている間にも世界で誰かが傷ついていると思うと、とても寝ていられない。……ただでさえ守れていないのに」
この頃すでにアリアの聖女としての力は弱まっており、毎日被害報告を神官長から聞かされていた。この日も祈りが終わった後神官長に呼ばれて懇々と機械的に、どれだけの人がアリアのせいで犠牲になったかを聞かされた。
だからアリアは祈らなくてはいけない。
少しでも多くの人を守るために。
「…それであなたが倒れてしまっては本末転倒です」
コンラッドの手が今度はアリアの肩に触れた。
「あなたは世界の希望なのです。どうか、ご無理はなさらないでください」
「…はい、ありがとうございます」
世界の希望。なんて大きくて現実味のない言葉だろう。けれどそれが真実だった。
嘘偽りなく、聖女の力がこの世界を守っているのだ。
目線を下げてしまったアリアにコンラッドは安心させるような柔らかな微笑みを浮かべて未だに祈る形のままとなっている手を両手で包んだ。
とても優しい温度だった。
「…大丈夫、きっとお力は戻って来ます。世界がまた平和になったら街へ行きましょう。アリア様が好みそうな菓子を扱っている店を見つけたので、二人で行きましょう」
「…そんなこと」
できるはずがないと眉を下げるアリアにコンラッドは微笑む。
「出来ますよ。約束しましょう、アリア様」
そうして二人は小指を絡めて、いつか平和になったらと約束をした。
世界に平和はやってきた。けれどそれはアリアの力では無い。約束もきっと果たされることはないのだろう。
△▼△
「おや、元聖女様ではありませんか」
教会の隅で床に膝をついて掃除をしているアリアの視界に上等な靴が入り込んだ。ハッとして顔を上げると、そこには神官長のトリアトが立っていた。薄い茶色の真っ直ぐな髪を背中ほどまで伸ばしていて、いつも一つにまとめている。いつも笑っているが、アリアはこの人が苦手だった。
「…神官長様…」
「おやおや無様な格好ですねえ。ですが今のあなたにはお似合いだ。どうですか?下々のお仕事は。あなたならきっとこの仕事も尊いものですなんて思っているんでしょうねえ。ああそうだ、もうお気づきになられていると思いますが、聖女様のお力は素晴らしいでしょう?一日のうち三十分も祈りの場にいないのにこんなにも世界は潤っている。やはり、真実の聖女様のお力は素晴らしい」
聞いてもいないのに神官長は一度喋り出すと止まらないのだ。
そして何より、この人はアリアのことをよく思っていない。生まれながらにして黒を宿していない上に八年も見つからず、挙げ句の果てには力が弱まって教会の権力を衰退させたアリアのことがこの神官長は嫌いで仕方がないようだった。
だからわざとアリアが傷つく言葉を選んで話し掛けてくる。
アリアが言い返さないことも見越して、まるで鬼の首を取ったかのように捲し立てるのだ。
「シーニャさんも真の聖女様にお仕えできて幸せでしょう。今まであなたの側にいたから謂れのない誹謗中傷を受けて傷ついていたのですから」
頬の内側の肉を噛んだ。バレないように雑巾をぎゅっと強く握り込んで、表情を変えないことに必死になる。
この男は少しでもアリアの表情が崩れると勝ち誇ったように笑う。
聖職者であるはずなのに悪魔のように見えるその笑顔が苦手でしょうがなかった。
「ああそうだ。あなたには説明していませんでしたね、どうして異世界から聖女様を召喚したのか、その経緯を」
僅かに顎が上がった。
しまったと思った時にはトリアトは心から愉快そうに口角を吊り上げていた。
「ある方から進言があったのですよ。あなたの力が日に日に弱まっていてとてもではないがこれ以上は国民が耐えらないと。だからその方なりに必死に調べたのでしょうねえ、どうにかする術を。そして見つけ出したのが遥か昔の文献に記されてあった異界人の召喚方法。いや私も最初は全く信じていなかったのですよ?あなたの力が弱く毎日尊い命が失われているのに私も心を痛めていましたが、それでもあなたが聖女なのだからと信じていたのです」
心にもないことをトリアトが言っているのをただ聞いていた。
いつも通りの筈なのに、嫌な予感でアリアの胸は張り裂けそうだった。
「その文献にはね、驚くべき内容が書かれていたのですよ。時に元聖女様、始祖の聖女様がどちらの出身かご存知ですか?」
知るはずがなかった。始祖の聖女に関する資料はどこにも残されていないのだ。
「私も知りませんでした、その文献を見るまでは。なんと始祖の聖女様は異世界から召喚されたそうなのです」
「!」
アリアの目が驚愕に見開かれる。
「驚きですよねえ!その方がどうやってその文献を手に入れたかは知りませんが、私はすぐに召喚の儀を了承し陛下にも提案させていただきました。それからのことはあなたもご存知ですよね?」
トリアトが上機嫌に、歌うように言葉を連ねていく。聞きたくないのにしっかりと脳に刻まれていくようだった。
「そうして召喚された真の聖女様のなんと素晴らしいことか!聞けば生まれながらにしてあの色彩を持ち、そして優秀。私がほんの少し作法をお伝えしただけでその日にはもう祈りを習得された。あの溢れんばかりの魔力、そして清浄な祈り。あれこそ聖女様の真のお力なのです…!」
トリアトが興奮したように頬を染めて、その勢いのまま床に膝を着いてアリアに顔をぐっと寄せた。驚く暇もなくまるで逃さないというように後頭部に手が回り、少し乱れたアリアの髪を掴んだ。
「…っ」
痛みに表情を歪めたアリアをトリアトは冷徹な目で見る。
「…悲鳴の一つでもあげればあなたでも可愛げがあるのに。その気位の高さが鼻につく。……ああ、あともう一つ教えて差し上げましょう」
トリアトの唇がアリアの耳元に寄せられる。
「あなたを用済みだと判断し、召喚を提言したのは」
──コンラッド様ですよ。
耳の奥でガラスにヒビが入るような音がした。
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