第一章
世界が壊れた日
日常が終わるのはいつだって突然だった。
白磁の肌に黒髪黒目の乙女、聖女アリアは今自分の目の前で広がっている光景を呆然と見ていた。
普段聖職者しか立ち入ることを許されていない神聖な祈りの場に王城や軍から幾人もの男達が集まり、その中央にある魔法陣の上にはアリアと同じ黒髪を持った少女が怯えた目をして周りを見ていた。
「な、なに…、あなた達誰ですか…!?」
象牙色の肌に、つぶらな黒い瞳。意志の強そうなその瞳は今は不安と混乱で揺れて薄く水の膜が張っていた。
「嗚呼、まさか本当にいらしていただけるなんて」
「奇跡だ」
「神の御加護に違いない」
「なんと美しい色彩だ」
「魔力が溢れているなんて、そんなまさか」
「間違いない」
「彼女そこが、聖女様だ」
ガツン、と重たいもので頭を殴られたかのような衝撃だった。
違う、違う。彼女は聖女ではないはずだ。
聖女は自分の筈だ。
アリアは混乱で呼吸が乱れそうになるのを必死に堪えた。祈るように組んだ指に力が入って、微かに震える。背中に嫌な汗が伝った。
「突然このような場所に連れて来られ、混乱されるのも無理はないかと思います。あなた様を異世界よりお呼びしたのには理由があります」
流麗に紡がれる言葉にアリアは声のした方に顔を向けた。そこにいたのは柔らかな金色の髪を緩く一つにまとめ、丸い眼鏡を掛けている男性でアリアはその人が魔法使いであることを知っていた。
「この世界に蔓延る魔を、魔王を討ち滅ぼすのに、そのお力を貸して頂きたいのです」
「まおう…?なに、なんなんですか…!ドラマの撮影?意味わかんない!ねえもうドッキリとかいいからっ」
全方位を見知らぬ人間に囲まれた少女の息は上がり、自分を守るように抱き締めて理解出来ないと言わんばかりに首を横に振ってその度に肩までで綺麗に切り揃えられた黒髪が揺れる。
アリアも呼吸が乱れるのを止められなかった。
なんだ、何が起きているというのだ。これは一体なんなんだ。
彼女が聖女だというのであれば、自分は。
石畳を歩く音がする。そしてそれと一緒に甲冑が擦れる音と、よく知る気配にアリアははっと顔を上げて音の方を振り返った。その姿を見て安堵から全身の力が抜けていくのを感じる。
真っ直ぐにアリアに向かって歩いて来たその人は、すぐ横を過ぎ去った。
まるでアリアが最初からそこにいないように。
「……一度深く呼吸をなさって下さい」
通り過ぎたその先で、白銀の甲冑を身に纏った銀髪の騎士が怯えた少女の側で膝を着いた。
「……ぇ…?」
アリアの口から情けない程の小さな声が漏れる。
冷水を浴びせられたように指の先から温度が消えて、寒くもないのに奥歯が鳴り、心臓が嫌な音を立てて軋む。目の奥がジリジリと焼けつくように痛いのに、その光景から目が離せなかった。
「私はコンラッド、騎士です。混乱されるのも無理はないと思いますが、まずは呼吸を整えましょう。触れてもよろしいですか?」
少女が頷いたのを見て、コンラッドは手を伸ばし背中に触れた。
焼けつくような痛みがどんどん全身に広がっていく。それなのに唇は震えるだけで声も出せず、ただその光景を見るここしか出来ない。
「…そう、上手です。そのまま続けて下さい」
低く穏やかな声が祈りの場に響き、幾度もアリアを守ってくれた手が今は別の少女の背を撫でている。
これは夢なのだろうか。
だとすればなんて嫌な夢だろう。
自分の存在意義も、唯一心を通わせた人も一度に失うなんて、そんなもの悪夢以外に何があるというのだろうか。
アリアは瞬きも忘れてその光景を見る。
異世界から召喚された少女は呼吸を落ち着かせて、まるで小動物のような所作でコンラッドを見上げた。そしてコンラッドはそれに微笑みで応えて、少女の体から力が抜けるのがわかった。
「…殿下、一度人払いをしましょう。これでは見世物だ」
コンラッドの視線を受けた薄茶色の髪の男性が頷いて口を開いた。
「ライル、コンラッド、そしてリスト以外の者はこの場から出ろ。そして今ここで起きたことは他言無用だ。陛下から正式な知らせが出るまで誰一人して口外することを禁じる。わかったな」
は、と男たちの声にアリアと少女の肩が震えた。
無意識なのだろう、少女の体がコンラッドへ寄り添って彼はその細い体を慰めるようにまた背を撫でた。
アリアを慰める腕はどこにもない。
人の流れに押されるようにアリアの体が祈りの場から引き離されていく。何か、何か言わなくてはと唇が震え、か細い声をあげようとした時。
「…大丈夫ですか、聖女様」
コンラッドがそう少女に語り掛けている姿を見て、アリアの呼吸は止まった。
バタン、と無慈悲に扉は閉められてアリアは呆然とその場に立ち尽くす。
それはアリアの世界が壊れた日だった。
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