第8羽 侵襲
ワイングラスの中のワインに波紋が立った。祈り終わった信徒たちは僕に続いて、その白衣の
あちらこちらで阿鼻叫喚の地獄と化す。ワイングラスがパリンと割れる音が響いた。
司会進行を務める杏奈は代表して一言漏らした。
「オーマイガッ」
礼拝堂内の床は屠殺場のような赤ワインまみれになり大混乱に包まれる。
「みなさん、落ち着いてください! 非常口は西口と東口にありますので慌てないで! こういうときこそ助け合いです!」
いち早く杏奈がアナウンスして避難を促そうとするがパニックに陥っている信者たちは聞く耳を持たない。すると突如、ギンナンが教卓を両手で叩くというよりは叩き潰した。とんでもない怪力に一見映るが、おそらくあらかじめ壊れるような細工が施されていたのだろう。
「鎮まれ!」
そのギンナンの一声で礼拝堂は水を打ったように静まりかえった。
それからギンナンは胡散臭い笑顔で言う。
「皆様、この礼拝堂は神の守護の聖域。なんぴとも侵せません。わしは県知事にかけあってくるのでしばし待たれよ。皆様に神のご加護があらんことを」
無責任なことを言い放ったのち万雷の拍手が巻き起こった。そのなかをギンナンは肩で風を切り退場した。そのあとを夫人と銀杏ノ宮姉妹たちが続く。
しかし僕は拍手する気にもなれずに白衣の骸骨天使を天蓋から見上げていた。
いったい何者で何が目的なのか。
まさにそんなとき、白衣の骸骨天使は動き出した。肉の一切付いていない細い指で巨大眼鏡のブリッジをスチャッと押し上げた。
その次の瞬間――眼鏡の左のレンズに光が集中して地上に発射された。その光線は天蓋から降り注ぎ、礼拝堂内の祈りを捧げる二人の若い男女が浴びることとなった。
しかし特に目に見えた変化はない。
僕が拍子抜けしていると、その光線を浴びた人々は組んでいた両手を解いてから、しきりに首を左右に振っている。
そして言う。
「なんでおれはこんなところにいるんだ?」
「なによ、あのガシャドクロは……はやく逃げないと」
光線を浴びたふたりの信者は一目散に礼拝堂の出口へと向かおうとした。そこへ他の信者たちが立ち塞がった。
「きみたちどこに行くんだ?」
「どこって決まってんだろ! あのバケモノ見ただろ! 一刻も早く逃げるんだよ!」
「何を言ってるんだ? ひとまず落ち着いて。この教会にいれば安心だ」
「何でそう言い切れるんですか?」
光線を浴びた信者が尋ねると一般の信者は空っぽの瞳で常套句を放った。
「だって私たちには神様がついてる」
「…………」
その光線を浴びた信者はなんとも言えない顔をした。
信者同士にもかかわらず、その会話は面白いほどに噛み合っていなかった。埒が空かないと判断した男性の信者は制止する一般信者を振り切って逃げようとするが、多勢に無勢で取り押さえられてしまった。
「離せ!」
「駄目だこの人。気が動転してる」
「きっとあの光線を浴びたせいでまともな判断ができなくなっているんだわ」
そんな声を受けて開け放たれていた天蓋はゆっくりと閉まった。その間も取り押さえられた男性信者は抵抗していた。
すると次の瞬間、同じく骸骨天使の光線を浴びた女性の信者が大きな花の供えられていた花瓶代わりの壺を手に取る。のちに拘束していた信者の頭めがけて殴りつけた。
パリーンと頭蓋骨が割れて脳漿が飛び出したように壺の中の水がこぼれて花が散った。押さえつけていた信者は泡を吹いて頭から血を流して倒れると、あたりは騒然となった。
そこで僕は確信した。
先ほどの光線を浴びた信者の洗脳が解けている。
元信者女性は拘束されていた元信者の男性を抱き起こして肩を貸した。
「逃げましょう」
「ああ」
固く結束した二人だったが、他の信者たちが指をくわえてそれを見てるはずもない。その男女はあっさり信者たちに取り囲まれてしまった。じりじりと追い詰められて壇上まで上がる。すると背景に飾られていた日本刀に元信者の男性は気づき、それを手に取った。するすると鞘から抜くとその日本刀は鋭い輝きを放っており、模造刀ではなく真剣そのものだった。
ものすごい剣幕で元信者男性は日本刀を構える横で、元信者の女性は至る所に置かれている天の川教会用の蝋燭をひったくると威嚇するように炎を振り回した。他の教会員たちにどよめきが広がる。
「馬鹿なことはよしなさい」
そのうちひとりの男性の教会員が近付いた――その次の瞬間、元信者の男性が一歩踏み込み刀を振り下ろした。すると男性教会員の腕時計をした腕ごと切断されてボトリと床に落ちた。腕時計は割れて血が染みこむと現在時刻で秒針は止まっていた。
「キャー!」
数秒遅れて誰かの悲鳴が上がると阿鼻叫喚に包まれた。
そして腕を切断された男性教会員はうずくまりながら呻く。元信者の男性は日本刀をレッドカーペッドに引きずりながらゆっくりと近付く。教会員は五芒星の先が十字になっている天の川教会のシンボルマークである星十字を掲げた。
「この異教徒からかならずや神が救ってくださる」
何度も何度も何度もその教会員は口の中で繰り返していたが、元信者の男性はもう聞き飽きたように日本刀を振り上げた。気づけば僕は駆けだしていた。人垣をかき分けて間に合わないとわかっていながら両親の制止の声も振り切って。
人間も羊も変わらない。
走り続けるものの後ろを追うのだ。
たとえば教祖は羊飼い。
たとえば杏奈は牧羊犬。
ならば僕は黒い羊だ。
そして狼は……。
それから元信者の男性が日本刀を振り下ろそうとした――まさにそのとき、元信者男性の背後に動きがあった。突如、笹の葉と天の川をモチーフにしたステンドグラスがバリーンと割れたのだ。
そこから現れたのはカラスのように黒いフルカウルのバイクだった。250㏄バイクの高速回転するタイヤが振り返った元信者の男性の顔面にクリティカルヒットした。元信者の男性はタイヤ痕を顔面に貼り付けたのち気絶すると日本刀をカランカランと落とした。黒いバイクは教会内に華麗に着地した。
そのライダーは上下黒いジャージを着用している。黒いフルフェイスのヘルメットを被っていた。それからおもむろにヘルメットのシールドを上げると、その顔に僕はいやというほど見覚えがあった。
「……ダイア?」
「やっぱここにいたか、トウタ」
数ヶ月ぶりに僕は親友と再会した。
「というか、そのバイクどうしたの?」
「クロクロウのことか?」
おそらくバイクの車種の名前だろう。
「そのへんで拾った」
そんなあっけらかんとした様子は健在のようだ。
するとダイアは男性をアクロバティックに轢いたことにも気づいていないふうに唐突に言う。
「トウタ、逃げるぞ」
「逃げるってどこに?」
「さあな。とにかく逃げるんだよ。こんな終わった場所にいてもしょうがねえだろ」
たしかに。
あの白衣の骸骨天使はまだおとなしくしてるようだけど、またいつ牙を剥くかわからない。
「トウくん、行っちゃ駄目よ」
するといつの間にか母が僕の背後に立っていた。
「ここにいるの。ギンナン様もおっしゃられていたでしょう? 神のご加護のある教会にいれば安心なのよ?」
「トウタ、いいから俺と来い!」
ダイアは僕に向かって手を伸ばした。
すると母は負けじと僕の耳元で囁く。
「やっぱり神の子の皮を被ったサタンの子だったわね。これだから血統の悪い二世は……」
「トウタ! 俺と来い!」
僕はどこにいればいい?
どこに行けば……僕は僕でいられる?
というかダイアは学校に来ないで今までで何やってたんだよ。
今さら僕の前にノコノコ現れて付いてこいって勝手すぎやしないか?
ハアトだって寂しがってたし。
「トウタ……」
顔を伏せる僕を見てダイアの手がみるみるうちにしおれたひまわりのように下がった。
とそこで、落ち着いた低い声が投げかけられた。
「行かせなさい」
「……あなた」
「ぼくたちだって両親の反対を押し切って駆け落ちしたんじゃないか」
それは初めて聞く両親の馴れそめだった。
あまり両親が信者になる前の話は聞かないことが、家庭内での暗黙の了解だった。
それはきっと天の川教会でいうところの堕落に該当することがあったからなのだろうし、信者になるにあたり切れた縁も多いから語りたくないのだろうと僕は思っていた。
親というのは自分と同じ轍を子供に踏ませたくないと思う生き物だ。
でも、それは子供の可能性を狭めることになるんじゃないだろうか。
だから、僕は初めて両親に反抗した。
これで親子の縁も切れてしまうのかもしれない。
「父さん。孝行息子じゃなくてごめん」
「そんなことはない。その言葉だけで充分親孝行だ」
僕はダイアの元へ向かおうと自分の足で歩く。
「ちょっと待ちなさい、トウくん」
父に呼び止められて僕は振り向くと父は僕の前で膝をついていた。
何をするのかと思えば、僕の学校指定の運動靴の靴紐をきれいな蝶々結びで結んでくれた。
「これでいい」
「ありがとう、父さん」
悲しげな顔で僕を憐れむ母に僕は一言だけ言う。
「母さん、ダイアはサタンじゃないよ。僕の大切な友達なんだ」
「……トウくん」
僕はダイアのバイクの後ろに跨がった。
ドッドッドッドッド、とまるで獰猛な獣の心臓のような鼓動音が僕の体内に木霊する。
「たすけて。私たちも連れいって」
「置いていかないでくれ」
目を醒ました元信者の男性と女性がバイクに追いすがるも、ダイアは容赦なく顔面を蹴飛ばした。
「知るか!」
「おいおい……」
やっぱり悪魔だ、この子。
僕がかぶりを振ると、ダイアは自身の被っているフルフェイスを僕の頭にバスケットボールのダンクのように被せた。それから勢いよくアクセルを全開にしてエンジンを吹かした。バイクの後輪が空回りして煙を立ててから急発進する。振動によってフルフェイスのシールドがガシャンと自動的に下がる。
ダイアは冷徹に捨て台詞を吐く。
「手前で選んだ道で死ね」
そのままダイアと僕の乗ったバイクは礼拝堂の赤い階段を昇る。出入り口の扉を突き抜けた。バイクの流線形のテールランプの背後では元信者の男女が蝋燭を持った現役信者たちに取り囲まれていた。
元信者のふたりの助けを請うようなその目を僕は一生忘れることはないだろう。
しかし、元信者の男女の視線を遮るように礼拝堂の扉は無慈悲に閉まった。
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