半吸血鬼少女は倫敦を駆ける

やなか

第一章 イーストエンドの魔物

第1話 ダンピール

 アデラ・アーデリアンは、少年の手をとって路地裏を走っていた。

  

 大英帝国の都、倫敦ロンドン。東部のイーストエンドと呼ばれる貧民街。テムズ川沿いの化学工場の煙に、下水の匂いが混ざり合う一帯だ。


 アデラたちは網目のような路地を右に左に駆け回るが、追っ手をなかなか振り切れない。

  

「あっ」

 角を曲がったところで、アデラが石畳の出っ張りにつまずく。はずみで手籠からジャガイモが転がった。

  

 あわててジャガイモを拾うアデラに、少年が叫ぶ。

「そんなもの捨てておけよ!」

「捨てられないよ。だって大切なジャガイモだよ」

  

 孤児院の子供たちが腹をすかせてアデラの帰りを待っている。なけなしの金で買った貴重な食料をなくすわけにはいかない。

  

 突然、灰色の猟犬が三匹、路地に駆け込んできた。

 追いつかれてしまった。猟犬はしなやかな胴体を踊らせるようにして二人をすばやく取り囲む。

  

 少年がアデラの前に出て猟犬と向き合う。

 アデラはあわてて少年の肩にすがった。

「ラウル、やめて」

「肩をつかむな。動きにくい」

  

 アデラは十六歳のうら若き乙女だ。しかしその姿は乙女とは程遠い。鳥打帽キャスケットを目深に被り、まとめた黒髪を隠している。痩身に薄汚れたシャツとズボンを身につけているので、傍目には労働者の男にしか見えない。

  

 アデラが「ラウル」と呼んだ少年は、十歳くらいの体格だ。袖を切ったオーバーサイズのシャツを素肌の上から羽織っている。肌の色は濃く、裸足だった。

  

「ヒュッ」っという口笛が路地に響く。

 女がひとり現れた。猟犬のあるじらしい。貴族めいた乗馬服姿で赤毛をなびかせた、薄汚い路地には場違いな装いだ。

  

 ラウルがペッとつばをはいてつぶやいた。

「ちっ。監視者ウォーデンか」 


 アデラのシャツが汗ばむ。走ったせいだけではない。目の前の女は、ぞっとする雰囲気をまとっている。

  

 女が薄笑いを浮かべて言う。

「ようやく見つけたぞ、ラウル・リー。お前には管理局から出頭命令が出ている」

「おれは何も悪いことはしていない。出頭の必要はない」

「釈明は取調室で聴こう。抵抗しようなんて考えるなよ」

 女が鞭を手にし、音を立てて打ち鳴らした。

  

 ラウルがアデラをかばうように、じりじりと下がる。

 女がふとアデラを見た。

「おい、後ろのやつ。おまえは何者だ?」

「わ、わたし、わたし、わたし……」

 アデラがあわあわと取り乱す。

  

 ラウルがアデラをひじで小突いた。

「答えなくていい。さっさと孤児院に戻るんだ」

  

 女は鼻をひくつかせながら、射るような視線を注ぐ。

「ほう。後ろのやつも、人間じゃないな」

  

 アデラがぶるぶると震えながら首を振った。

「わたし、わたし、ただの人間です、よ」

「いや。おまえからも魔物のにおいがする。登録番号を言え。未登録なら連行する」

  

 魔物とは、魔力を持つ人ならざるものの総称だ。古来より、人間社会の裏側で、魔物は生き続けてきた。


 それが約三十年前、ヴィクトリア女王が魔物に市民権を与えたことで、公然の存在となった。知能の高い魔物のなかには、爵位を授与されて貴族となった者すらいる。

  

 西暦一八八八年六月現在、倫敦に住む魔物は、人口の一割を占めていた。

  

 アデラも魔物の区分に入る。

 吸血鬼と人間の間に生まれた半吸血鬼、ダンピールだ。

  

 吸血鬼は、魔物の中でも特別な存在だ。


 魔物の王にして、夜の支配者。吸血鬼と人間は、古来から抗争を繰り広げてきた。


 ヴィクトリア女王も吸血鬼を特別視している。市民権を与える際、吸血鬼との休戦協定を個別に結んだほどだ。魔物を管轄する王宮の管理局も、吸血鬼には細心の注意を払う。


 ラウルが女に向けて両手を挙げた。

「わかった。おれが出頭する。代わりに、こいつは見逃してくれ」

  

 アデラがラウルの服を引っ張る。

「ラウル、何を言ってるの」

「黙っていろ。孤児院の子供たちの世話があるんだろ」

「で、でも」

  

 女が首を振った。

「いいや、だめだ。二人とも一緒に来い」


 アデラは未登録だ。

 ダンピールだとばれたら、ややこしいことになる。おそらく拘束されるだろう。ダンピールは希少で危険な存在だからだ。


 ダンピールの多くは、生まれてすぐに死んでしまう。アデラのように成長することはまれだ。吸血鬼に比べて能力は劣るが、陽光の下で活動できることが最大の特徴だ。


 女がにじり寄る。

 その顔がゆがんで鼻先が尖り、犬の顔に変化へんげした。

  

「きゃっ」

 アデラが驚いて悲鳴を上げる。

 ラウルが言う。

「あいつの正体は、魔犬ムアサドだな。犬の魔物が人間に化けているんだ」

  

 魔物の多くは人間の姿で社会に溶け込んでいる。


 女が言う。

「おまえも同じだろう。人狼ワーウルフの王、ラウル・リー。抵抗するなら痛い目をみるぞ」

  

「上等だ。犬野郎、やれるもんならやってみろ」

 ラウルの魔力が急速に高まる。獣に変化しようとしたその瞬間、アデラがラウルの首にしがみついて揺さぶった。

  

「ラウル、落ち着いて」

「わわっ、アデラやめろ」

「きっと話せばわかるから」

「話してわかる相手じゃない。こいつら監視者は魔物のくせに人間の手先なんだ。まさに王宮の『犬』だ」

「でも、暴れたらだめだよ。ラウルがまたケガしちゃう」

  

 ラウルはアデラを見つめると、真顔になって言った。

「アデラ。じゃあ、どうすればいいんだ。言いなりになれって言うのか」

「それでいいよ。争いなんて、嫌だよ」

「どんな無茶を言われてもか。ただ我慢するのか」

 アデラはこくこくとうなずいた。

「我慢する。傷つくのも痛いのも嫌だ」


「アデラ、おまえは間違っている」

「……?」

「我慢する必要はない。おまえは、本当はすごい力を持っているんだ」

「わたし、何の力もないよ」

「いや、アデラには力がある。その自覚と覚悟がないだけだ」

  

 次の瞬間。ラウルの身体が大きくなった。手足が伸び、大人の体軀になる。顔は人間のままだが、栗色だった髪は銀色に変わり、獣の耳が突き出た。

「ラウル!」

「アデラ。いいか、おれは傷ついても、痛くても、こんなやつに尻尾を振るつもりはない」

  

 アデラはラウルが変化した姿を初めて目にし、息を飲む。

(これが、人狼なの? なんて美しいんだろう! いや見とれている場合じゃないんだけど……)


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎

  

 アデラは、街頭で読み捨てられた新聞を拾って読むことがある。そこには魔物をめぐる情勢がおどろおどろしく書かれていた。

  

 いわく。休戦協定が白紙になり、人間と吸血鬼は一触即発の状態。間隙をぬって第三勢力の人狼が暗躍し、いまや倫敦のかりそめの平和が破られようとしている——。

  

 本当か嘘かは分からないが、そんな噂がまことしやかにささやかれていた。

  

 人間と魔物の共生が終わり、再び抗争の時代に入るのだろうか。

  

(もう普通に暮らせないのかな。そんなことになったら、わたし、どうしたらいいんだろう)


 アデラはそんな不安にさいなまれながら、じっと息をひそめていたのだ。


 ラウルに出逢うまでは。

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