夕焼けの人魚

よつば 綴

夕焼けの人魚


 ──ゆうやーけこやけえのーあかとーんーぼー──



 この曲が空に鳴り響くと時折、私の脳裏に忌々しい記憶が目覚める。鮮明に蘇ってゆく記憶を、虚ろになりゆく意識の中で追懐してしまう。



 私はかつて人魚だった。

 海底から浜辺に偵察に来ると、いつも日が沈む頃に聞こえる不思議な音色。

 人魚という種族は人間に怯えながら隠れて生きていたが、私は人間が好きだった。短い時を懸命に生きる、人間のはなかさや心を翻弄ほんろうされ荒ぶる稚拙ちせつさを、堪らなく愛おしいと思った。

 永い時を生き感情こころというものを忘れつつあった人魚の私は、それはそれは艶羨えんせんとした。


 どうにかして、私も人間のようになりたい。いっそ人間になりたい。そう思うやいなや、海底の古文書庫にこもり手段を模索もさくした。

 来る日も来る日も、調べる事のみに費やした。どれ程の月日が経ったのかは分からない。たが、ついに方法を見つけた。随分と古い文献に挟まった、1枚の手記に記されていた。



──全鱗ぜんりん人御魂ひとみたまもりたれば御脚みあしそろいたる──



 全ての鱗に人の魂をこめれば脚が生え人間になれる、と解釈した私は直ちに実行した。

 これまた永い月日をかけ全ての鱗に人の魂を移した。最後の1枚に魂が吸い込まれた時、心臓が何かに掴まれたように圧迫された。腹から下を引き千切られたかのような痛みと熱さを感じ、どれほどか分からないが気を失った。

 波に頬を打たれ目を覚ました時には、両脚が生え揃った人間の形をしていた。どうにも気分が優れないが、ふらつきながらも人間を探した。


 歩行の要領を得るまで半日かかり、人の居る集落まではそれから1日かかった。

 着衣や履物といった概念が無いので、生まれたままの姿だった。初めて会った人間は、畑仕事から帰るところの夫婦だった。目を丸くして、非常に驚いた様子で私を見た。

 飲水と古草臥くたびれた着物を貰い、親切にしてもらったので感謝を伝えたかったが、どうにも言葉が通じない。人間と人魚では言語が違うようだ。毛髪の色や瞳の色も違うことから、化け物とでも思ったのかそれとなく集落を追い出された。

 次の集落まで、一体どのくらいか。何もわからぬまま歩き続けた。山を超え、大きな川を渡り、前よりも大きな集落に辿り着いた。


 いくつかの船が停泊する港を見つけ、人目につかぬようコソッと海に入った。気晴らしに少し泳ぐだけのつもりだったのだ。

 だが、人魚の頃のように水中での呼吸ができず、もちろん脚を使った泳ぎ方もわからない。危うく溺れ死ぬところだった。

 着物のまま海に飛び込んだので、体が重くなり沈む一方。そこへ若い男が通り掛り引き上げてくれた。例のごとく礼も言えず、『あ····う····』と声を漏らす。すると、男は『自分の家に来なさい』という事を言ったのだろう。私は抱き抱えられ、男の住まいに連れてゆかれた。


 男は身振り手振りで意思の疎通を図り、食事をさせてくれた。初めて口にする人間の食べ物。興味津々でまじまじと見ていると、男は『食べろ』と言って、食べ方の手本を見せてくれた。

 随分と手慣れた様子だが、人間の世界では、私の様にものを知らない者がいるのは当たり前なのだろうか。人魚だった頃には考えられないことだ。皆が家族の様に暮らし、はぐれ者などいなかった。 

 男は、言葉や生活に必要な知識など、様々なことを教えてくれた。人間の世界では“裕福な家”と言うらしく、女の“使用人”という者が何から何まで世話をしてくれた。

 

 男の名は雄壱郎ゆういちろう。私は、“クラル”と真名まなを教えた。人魚の間では、両親以外に真名を教えるという事には深い意味がある。真名は、伴侶になる相手にのみ教えるのが掟だ。

 私は雄壱郎に心を寄せていた。雄壱郎もまた、私を想ってくれた。2人が結ばれるのに、さほど時間はかからなかった。


 雄壱郎と夫婦めおとになって2年が経ち、待望の赤ん坊ができた。しかし、生まれた子には脚が無かった。

 そういう病気なのだと雄壱郎は言った。だが、私には心当たりがあった。私の正体が人魚だからであろう。

 私は意を決して、雄壱郎に全てを話した。おのが正体は人魚であること、人間になりたくて禁忌を犯したこと。雄壱郎の元を離れる覚悟はできていた。

 しかし、雄壱郎は私をゆるした。


 過去など捨て、今を生きようと言った。その瞬間、私の脚は旋風つむじかぜに巻かれ切り刻まれるかのような痛みを伴い、本来の人魚の姿に戻った。

 それと同時に、赤ん坊には脚が生えた。短く小さな可愛らしい足だ。これまでの何よりも愛おしく感じた。

 

 雄壱郎は、人魚に戻った私を屋敷に囲い、その生涯を終えるまで愛し抜いてくれた。私は、私の血肉を与えれば永遠の命を与えることができたが、そんな野暮やぼな事はしなかった。そして、愛する者を追い、私も自ら生涯をじた。



 なぜ私は人魚に戻り、赤ん坊に脚が生えたのか。全ては奇跡などではなく、そういう呪いだったのだろう。

 私たちはそれを受け入れ、抗うどころか調べる事もしなかった。だから、何もわからずじまいだったわけだ。

 だが、確かだったのは、私の心は人間として生涯を終えることができたという事。おのれの罪を悔やみ、子への贖罪しょくざいを感じ、死をいたむ心を持った人間として逝けたのだ。何より、雄壱郎を愛した女として幕引きできたことが幸せだった。



 人魚でありながら、人間として死んだ私の記憶はここまで。

 そろそろ、主人が仕事から帰る頃だ。意識がはっきり“今”に戻てくる。


 あ、帰ってきた。息子が出迎えに走る。私も、それに続いて出迎える。



「おかえりなさい、ゆうちゃん」





fin

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