徳川本家、白刃をくぐり (時代小説新人賞最終選考落選歴あり)

牛馬走

第1話

   第一章


   一


 徳川吉宗の治世へと世が移り変わって間もない頃のこと。いどこからか木犀(もくせい)の香りがただよってくる、ありふれた茶屋の店先にふたりの武士の姿があった。

 ひとりは白皙の顔にすずしげな目もとと高貴を感じさせる若者だ。

 ただ、いかにも一仕事終えた風情で団子を豪快に頬張っている様が貴き雰囲気をぶち壊しにしているが。

 そんな彼を縁台の隣に座る同じ年頃の武士は不満げににらみつけている。

 こちらは身分ありげな雰囲気はないが、その面立ちは女性と見紛うほど中性的で小作りの鼻やそれとは対照的に大きな目が印象的だ。形ばかり湯呑を手にしているが先ほどから口をつけていなかった。

「若、みずからの御血筋の尊さをすこしは自覚なされませ。若のごとき御仁がかような店で飲み食いいたすなど慮外なおこないでございます」

 後者、戸田兼次郎がいい加減我慢しかねるという表情で諫言する。ただし、このせりふは茶店の縁台に腰をおろし茶と団子が出てきてすぐのものだ。我慢した時間などほんのわずかなあいだに過ぎない。

 それをすこし奥にたたずむ小女をつとめる娘が聞いているが、ふたりに見惚れるのに夢中で耳に入っていないようすだった。彼女どころか、店の主らしい老婆までもが顔をのぞかせて「眼福眼福」とふたりを見やってつぶやく始末だ。戦国乱世に終止符が打たれて幾星霜、庶民にとっては平和な時が流れている。

「されど、仙人でもあるまいに貴かろうが腹は空くぞ、兼(けん)次(じ)」

 立場上は朋輩の兼次郎(けんじろう)に、野与源三郎は相手の剣幕など一切意に介していない顔つきで応じた。

「武士は食わねば高楊枝という言葉を御存知ないのですか、若」

「あれか、惚けが来て食事をしてもいないというのに、つい食べた気になって楊枝を加える憐れな老爺の話か?」

「誰がかような流れでさような話をするというのです」

 知ってて発した源三郎の発言に見事に兼次郎は乗っかってくる。

「では、あれか。楊枝の先を尖らしておいて、得物としていざというときに備えている」

「だから、なぜさような話を若にそれがしがせねばならんのです」

「それは俺が聞きたいなあ」

 しゃべりながらも団子を食べ終えた源三郎は茶を美味そうに喫しながらにやにやと兼次郎を見やった。それでいい加減、手のひらの上で踊らされていたことを自覚した兼次郎は苦い顔になって口を閉ざす。

「所詮は脇腹、それも百姓の養子に出された身だ。気負ったところでしかたがないだろう」

 すこし間を空けて源三郎がかさねた言葉に、兼次郎はなにかをいいかけてだが眉間にしわを寄せてそれを止めた。

 それから、ふたりは茶店をあとにして岩松家“家中”のもとをおとずれた。

 といっても、岩松家は一升たりとも禄を与えていない相手だ。それどころか冥加金をもらっている。

 実はこれには岩松家、という一族の特殊性に起因している。

 岩松家は上州新田郡下田島に所領を持つ旗本なのだが、その石高はたったの百二十石でしかない。ただ、大名並の扱いを受け参勤交代もする交代寄合に列せられている。

 その原因は岩松家が新田流源氏の庶流のなかでは最も血筋がいいためだ。徳川家康の祖父である松平清康が新田流源氏を称したため、直系の血筋の絶えた状況では岩松家は徳川家の本家筋において最高の権威を誇ることになる。

 そこで豊臣秀吉の命で東海から関東に移封された家康は関東に入るや岩松家の当時の当主を引見した。

 先祖が立場を弁えておれば――というのは、岩松一族に脈々と受け継がれている思いだろう。引見の折、岩松家の当主は名門意識に凝り固まっていたせいで、威勢はあっても下賤な家康にそっけない態度で応じたのだ。これで天下人の機嫌をおおいに損ね、岩松家は取立てられても百二十石にとどまってしまったのだ。

 しかも、格式はあるために交代寄合に加えられたのだ、さあ大変だ、のしかかる負担は百二十石の家にはとほうもないものだ。

 そのために岩松一族がしている苦労の一端が、

「今日も御隠居の書を譲り渡す場を設けてくれたこと感謝する、新田屋」

 と、いま源三郎は大店の主と相対して発した言葉にあらわれていた。

 徳川家の本家筋、もっとも新田氏本筋に近い高貴な人の書ということで、岩松家の当主や隠居の書をありがたがる者は多かったのだ。本来は大名や旗本に売りつけていたのだが、目の前にいる男、新田屋徳次郎が家臣に加わってからは商人にも販路が広がった。

 先ほどもいったが徳次郎は冥加金を収めている。書が売れるのと同じ理由で、金を払ってでも家臣となりたい富農、富商、郷士は多かったのだ。

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