35話 はちまきの魔法

 ことりさんが地図アプリを見ながら向かっていたのは、普通のチェーンのカフェだった。

 もちろんチェーン店であることに文句は無いし、座って会話さえ出来ればどこでも良いのだ。

 でも地図アプリを見ながらわざわざ向かうものなのだろうか、という疑問はあった。


 疑問は、注文したコーヒーをそれぞれに持って着席してすぐに解決した。


「僕、ちょっと」


 と席を立ったことりさんが、店の奥の方へと歩いていく。腰を浮かせて、行く先を目で追うと、曇りガラスに囲まれた小さな部屋に入っていった。喫煙室だ。

 今まで吸うところを見たことがなかったし、そんな話もちらとも出なかった。

 

「吸うんですね。もしかして、今まで我慢させてました?」


「どうしても五分はお待たせすることになりますからね。でもこれからはきっと、こういう機会も増えるでしょうし、許して頂けたらなと」


 淡々とした言い方だけれど、心を開きはじめてくれている気がして嬉しい。

 そんなことを態度に出すつもりはないので、私も淡々と「どうぞ、お気になさらず」と返すに留めた。

 

「吸うと落ち着くんです、緊張が緩和されるというか。……共有していただいた作品、読みました」


「はい」


 背の高い丸いテーブルは小さくて、私とことりさんのアイスコーヒーが入ったグラスと無料のお水を入れたグラス、それにことりさんのメモ帳を置いたらスペースはほとんど残らない。

 テーブルに合わせて高さのある丸椅子は、申し訳程度の背もたれがついている。私の脚は床どころか、足置きの丸いスチールの骨組みにも届かず、ぶらぶらと落ち着かない。

 落ち着かないのは気持ちもそうだ。

 ことりさんは水を一口飲んでから、話を切り出した。

 自分は他の人の作品について語れるほどの知識も、技術もない、と前置きの上で、こう言った。

 

「鹿ノ子さんの素直さを感じました、でも書きたいことを探っている途中だとも思いました」


 探っている、とは優しい言葉だろう。正しくはこう言いたいはずだ。「迷っている」。

 ことりさんの言葉にうなずきで返すと、彼は私の表情をうかがいながら先を続けた。


「でも、僕が鹿ノ子さんを知っているから、素直さとか、そういう感想になるんだと思います。そこを除いての感想は僕には出せないですよ」


 なるほど、つまり面白くなかったということを言いたいわけだ。

 分かっていたはずが、どうしてもポーカーフェイスではいられない。いじけてしまう。

 アイスコーヒーを飲むふりをして、うつむいて顔を隠すが、ことりさんは、私から視線をずらしてくれない。いつまでも冷たいコーヒーをすすり続けていることも出来ない。

 仕方なく、グラスをテーブルに戻した私は、奥歯に力を入れて笑顔を作ってみせた。

 そんな私のぎこちないであろう笑顔を見つめながら、ことりさんは言葉を続けた。


「……僕の父親は作家でした。官能小説をずっと書いていて、それなりに売れていたと思います。父が亡くなって、そのときから僕はひとりになったんですけど、消えた父を、自分の中に取り入れたくなった。書き始めたきっかけなんてそんなものです」


 今度は私が言葉を選びながら返す番だった。

 

「そう、なんですね。ことりさんの背景をうかがって、なんていうか、ことりさんが上手い理由のひとつを知った気がします。ことりさん自身と、お父様の存在、二つの柱があるんですね。だから折れないのかな……」

 

「上手くは無いです。それに僕が言いたかったのは、少女小説に関しては少女小説オタク渾身のおすすめ作品しか読んでいないということです。それらの名作と比較してどう、という見方しか出来ない。それは僕が僕の父の作品と比べられることと同じじゃないですか。おすすめ頂いた作品たちは、鹿ノ子さんを育てた作品なんでしょうから。それって、僕の口からわざわざ聞いて意味のある感想じゃないですよ」


 言葉を一旦区切ったことりさんは、話が通じているか確かめるように私の顔を上目遣いで見る。

 彼はコーヒーに手をつけようとして、やめた。

 私はストローでなんとなく氷をかき混ぜながら、彼の言葉の続きを待った。

 ことりさんの言いたいことは分かる。でも私は私を育てた作品に並ぶつもりで、自信満々に書いていた。比較したって負けていないくらいの気持ちだった。だからこそ折れたのだけれど。

 

「僕は諦めるだけの気持ちが無かっただけだと思ってます。なんとなく、父を思い出しながら、キーボードを叩きつづけていただけです。鹿ノ子さんほどの気持ちがないってだけです。偉くもすごくもないんですよ。だからこそ、一作入魂なんてぶち上げたのは、背水の陣ですよ」


「背水の陣、ですか。なんだか緊張してきました」


 素直に、といえば聞こえがいいが、思わず、という方が近いような感覚で言葉が出た。ぽろっと。勝手に。唇から。

 

「そこを含めての覚悟を決めたっていう話を、伝えておきたかったんです」


 やっとことりさんが、アイスコーヒーに手をつける。自分で取ってきたはずのストローの存在が頭から抜け落ちているらしく、そのまま口をつけている。

 グラスを持つことりさんの、深爪気味のささくれた指先を見ていると、彼の覚悟に今すぐ、行動をもって答えたいと思う。

 引き続き二人三脚体制でやっていくし、それに全力であたる。でもその前に。

 

「ちょ、ちょっとだけ待って下さいね! これから打ち合わせですよね! その前にちょっと、一瞬、お店を出ますから!」


 そう告げて、急いで財布だけを持って店外に走り出る。

 この時間なら、まだ、あの店が開いているはずだ。




 小さなビニール袋をさげた私がカフェに戻るまでに、十分もかからなかった。しかし往路も復路も走ったために、猫っ毛の前髪が額にぺったり張り付くくらいには汗だくになっていた。

 どこへの往復かというと、百円ショップだ。

 そしてビニールのなかには……。


「なんですかこれ?」


「はちまきと、マジックです。黒と赤、どっちのインクがいいか分からないので両方買ってきました」


「それは見たら分かるんですけど、なんではちまき?」


「二本あるんですよ。これで店頭在庫ラストでした。はい、ことりさんの分」


 そう言って、白いはちまきを渡すと、彼はますますわけがわからないという顔をする。


「良いですか、見ていて下さいね」


 グラスを端によせ、隙間にはちまきを敷き、赤いペンを取る。

『一作入魂』と太いマジックで書き込むと、ことりさんが「なるほど」と呟いた。


「ことりさんの覚悟、受け止めます! 背水の陣って強いんです。だから、勝てます。勝ちましょう」


 マジックをことりさんの側に寄せながら言う。彼は黒のインクの方を選ぶと、カクカクとした字で『一作入魂』と書いた。

 

「こんな感じですかね、って何してるんですか! 外では巻かないでください」


 さっそくはちまきを巻こうとするところを、焦った様子で止められる。

 

「外では巻かないでください」


 大事なことなので、ということか、私の手首をつかんだままことりさんがもう一度言った。


「はあい。……家のなかなら、いいんですよね? つけてもくれますよね?」


「まあ、家ならなんとか、でも、いや、うーん」


 ことりさんの返事は歯切れが悪い。

 

「ことりさん、筆が止まったり、嫌なことを思い出しそうになったら、これを巻いて下さい。それで、覚悟を思い出してみて下さい。はちまきの魔法っていうんですけど、子供の頃に母から聞いて、大事な試験の勉強のときなんかにずっと巻いていました」


「プラシーボを疑いますけど」


 そう言いながらも、ことりさんは、自分のはちまきの余白に、『とにかく書く』と書き込んだ。こんどは、赤いマジックで。

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