32話 先輩、熱がありますよ
それにしても、慎重派で臆病な印象のことり先生……じゃなかった、ことりさんから『一作入魂』なんて言葉が出たのには正直言って驚いた。
猪突猛進型らしい、と最近自覚することの多い私から出た言葉じゃなくて、ことりさんから出たっていうのが、なぜか嬉しかったりもする。もちろん、私とことりさんが、別の人間だっていうのは、忘れないようにしているけれど。
満員のエレベーターになんとか乗り込んだ私と高野先輩は、一つずつ上がっていく階数表示をそろって見上げている。
ときおり、先輩がVネックカーディガンの前を首元まで無理に引き上げたり、腕をさすったりしている。先輩を挟んで私と逆側にいるおじさんが、腕で押し返したりして迷惑げにしているのが見えた。
フロアに着くたびに停止するエレベーターに、機内の全員が苛立っているようで、空気は最悪だ。
「一応、電車遅延の証明を取ってきたんですけど、ギリ間に合いそうですね」
しぃんとした空気に耐えきれず、小声で先輩にそう話しかけようとしたときだ。
先輩の顔が血の気を失っていることに気がついた。
反対に目は熱っぽく潤んで、半開きになっている。まぶたを持ち上げる力もありません、って感じだ。
私たちのオフィスの入っている八階にやっと到着する。重い鉄の扉が開くのを待つのももどかしく、人をかき分けて機外に出る。それからすぐに、私は先輩にたずねた。
「先輩、もしかして体調悪いです? 寒気します?」
エレベーターを降りてからたずねたのは、先輩が、エレベーターの他の乗客に迷惑な目で見られるのを避けたかったからだ。
先輩は、肩を回しながら私の前を歩いている。振り返らないまま「全然」と答えるその声は、しかし、いつもの覇気を欠いていた。
「今日は節々がだるいから、疲れが溜まってるかもしれないけど」
そう言って今度は手首をぐるぐるとほぐし始める。
どう見ても発熱の兆候なのだけれど、健康マニアなのに気づかないのだろうか。まさか自分が、なんて思っているのかもしれない。
オフィスまでの廊下を歩く間に、どうするべきか頭を巡らせる。
結局、オフィスに着いてすぐに、葉山編集長に高野さんの様子を伝えたのだった。
チェック中のゲラから一瞬目を上げた編集長は、頬にかかっていた髪を書き上げると、切れ長の瞳で私をにらみながら言った。
「奔馬さん、打刻まだじゃないの? 自分のことを先にやりなさい」
冷たく返されてしまったけれど、私が、「はい」と答えるときにはもう編集長は立ち上がっていて、高野さんのデスクに向かってくれていた。
いえ、とか、大丈夫、とか、でも、とか、高野さんの力のない声が漏れ聞こえてくるけれど、編集長のするどい眼光で黙らされて、荷物をまとめ始めた。
高野先輩が風邪で早退することになったという連絡は、編集長によってすぐに部内全体に送られた。
*
高野先輩が早退した日の夜のこと。
いつもよりも帰りの遅くなった私は、ソファに倒れ込んでそのまま眠ってしまっていた。
私が代われることは多くないけれど、それでも忙しくはなる。イヤな疲れではなくて、私にもやれることがあったというここちよい満足感のある疲れ方だ。
深夜三時を回っていただろうか。
ソファの上で、ふと目を覚ました。バリキャリっぽさを意識したセンタープレスパンツに皺がついているし、ベルトのバックルが肋骨に食い込んでいて不快だ。ブラウスも変な風に体に巻き付いて、首が締まっている。
通販で買った安物の布張りソファに、汗や汚れがついてしまった気がする。カバーをかけようかけようと思いつつかけていないあたり、ズボラがしみついている。
「やっちゃった~、うう、体がぎしぎし。シャワー……浴びる……かあ……」
めんどくさ、という気持ちを抑え込み、立ち上がろうとしたときだ。
視界の端で社用スマホのメール受信通知が光っていた。
何時であっても、メールは確認する。TO.ではなくてCC.だけど。
未読メールをざっと開き、新着メールには私と高野先輩の担当業務には直接関わりのあるメールは無さそうなことを確認する。よし、じゃあシャワーでも浴びますか。と、社用スマホをソファに放ろうとした。
そのとき、なにか違和感がよぎった。
再度スマホを手に取ると、先ほど確認した進捗分ではなくて、業務時間中にすでに確認済のメールの方を開いていく。
違和感の元はすぐに見つかった。
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