鳥と雨

七色最中

第1話

 人間を見る眼ではなかった。彼女の眼差しは、雨の日に道でつぶれた蛙を遠巻きに見ているようだった。


「月田、完全になにかを誤解していると思う」


「誤解ではないでしょう、事実、あなたは私の制服に手をかけた」


 伏して謝るからやめてくれ。おれは絞り出すような声で彼女に懇願した。周りに誰もいないだけ救われているが、もしも、この一コマから始まる物語があるのであれば——自らが弁護人となることも、無論、やぶさかではない。



— ☂ —



 月田凛という高校三年生の女子は、雨の降る日の放課後、いつも一人で机に向かっていた。


 当初は何をしているか分からなかった。勉学に励んでいるのか、絵の才能を開花させているのか、とにかく机に広げたノートへ一心に鉛筆を走らせていた。


 月田はどちらかと言えば、派手さはなく、クラスでも大人しい人間だった。


 肩まで伸びた髪の毛は少し癖があり内側に丸まっていた。細身な顔立ちに、切れ長の目尻とほとんど直線な眉はややアンバランスで、自ら孤高をアピールするかのような高い鼻は特徴的だった。


 なぜ、そこまで月田について語れるのか。


 自らの弁護もかねて申しあげておくと、彼女は同じクラスで、雨の日はいつも一緒だからだ。「いつも一緒」という点は往々にして誤解と偏見を生みがちだが、おれと月田にまだ特別な関係性はない。


 月田からのファーストコンタクトは高校三年生の一学期六月、今しがた迎えたばかりの放課後のことである。


 今朝は沖縄県が梅雨入りをしたニュースが流れ、じきに関東も雨が続く日が多くなると、女子アナウンサーが申し訳なさそうに言った。「別に天気はあなたのせいじゃないのに」と我ながら穏やかな心中で曇り空を眺めながら登校したことを覚えている。


 おれの家は街で密やかにクリーニング屋を営んでいた。クリーニング屋は雨の日が忙しい。雨だから乾かせない、という理由だけで衣類を大量に持ち込む客が二割ほど増加する。そうなれば必然的に家業を手伝わされるのが、息子の役目であり美徳なのだった。


 ただおれは、それが面倒くさい。


 彼女も友人もいない高校生だが、仕事となれば立場も年齢も関係なく面倒になるものである。おれはそれに則って、雨の日の放課後は教室で過ごした。


 進学を考える受験生からすれば教室で勉強するより、教材が揃う自習室に向かう。進学を考えない否受験生であれば、そもそも教室にいる意味がない、校外の課外活動にいそしむ。そういうあり得なくもない理由から、教室はおれと月田だけだった。


 校庭の木々に跳ねる雨音が鳴っている。月田は窓際の最後列に座り、そこからおれは二席離れた机で何をするでもなく、ただ黒板を眺めていた。明日の日直は岡庭か、とぼんやり考える。


「お仕事は、いいの?」


 断続的に降り続く雨をかわすように、ふと声がした。無論、月田である。


「え?」


「お母様、今頃生んだ息子を恨んでいるに違いないわ」


「は」事実確認は置いておくとして、いつの間にかおれの生きる尊厳をけなされていた。「何のことだよ?」ふっかけられた中傷に苛立つことより、疑問が先立った。


「あなたのお家はクリーニング屋でしょう。雨の日は忙しい、あなたはそう言ってた」


 おれはまたしても間の抜けた「え?」を発していた。 おれから発する言葉はほとんど疑問符ばかりで、頭の悪い人間のようじゃないか。


「狭山さんのクリーニングはすごく丁寧だ、といつも母が褒めているわ」


「知ってたのか? うちのしけた商いを」


「知ってるもなにも、うちは常連」


 どういう経緯があったか月田から問いただしてみれば、なるほど、月田は実家のお得意様であり雨の日を忙しくする一因だったのだ。彼女自ら洗濯物を持ち込んだこともあるようだった。


「そ、そうか……そのなんだ、毎度ありがとうございます」


 俺は自然と月田へこうべを垂れていたのだった。なぜ学校でまで接客をしないといけないのか、悲しくも染みついたそのスキルはクリーニングでも落とせそうにない。


「じゃあ、あなたは私の脱ぎたての制服に手をかけていたことになるのよね。あなたが懇切丁寧にクリーニングしてくれたのね。この」


 そこまで言うと彼女はぴたりと口を閉ざす。


 途切れた言葉に続く単語は……推測するまでもない。漢字二文字のあれだと思う。


 


 さて、孤軍奮闘する自らの弁護も佳境である。


 もしかすると月田は、おれのことをつぶれた蛙だと本気で思っている可能性があるぐらい、その眼つきを変えなかったので早々に反論した。


「おい。おれは幼い頃から家業をやってきて、別に衣類に性欲も興奮も抱かない。なんなら高校生になってからは、手伝いなんてまったくだ」


「そうなの。もうやってないのね」訝しんでいた眼を若干、丸くしたように見えたが、またすぐに顔を机に戻した。


「何してんの?」


「勉強よ」


 大して興味もなかったが、それでも何を勉強しているかぐらい問うのが礼儀に思えた。聞いてみれば、月田から返ってきたのは「鳥」と一言だった。


 鳥? それはスズメとかカラスとか? と聞いてみれば「ハシビロコウとかキレンジャクとか」と、彼女はまったくその姿形を想像できない名前を口にした。

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