第19話 雨に濡れて

 グローたちはしばらく舗装された道を歩くと、ボノニアの街に着いた。

 このボノニアの街には塔があちこちに建てられていて、彼らは監視されている気分になる。だが、この地域の人は塔を全然気にせず、楽しそうに暮らしている。この塔は監視役ではなく、ただのこの街の権威の表れかもしれない。

 彼らは住宅街を通っていると、多くの人が同じ建物に入っていった。その建物には時計塔があり、中央を囲うような構造がされている。

 「これは何の建物なんだ。」

 グローはヴォルティモに尋ねると、

 「これは大学かな。ボノニアにはボノニア大学があるんだよ。」

 ヴォルティモから聞いた話だが、ボノニアにはボノニア大学があり、この大学を中心として研究機関が集まり、発達した大学都市がボノニアだ。このボノニア大学は法学が有名で、多くの偉大な法学者を輩出している。だが、法学だけでなく、一般教養から医学、神学などの専門科目も持つ総合的な教育機関であり、学生のギルド(ウニベuniversitasタス)から発展した。

 元々ウニベルシタスは学生の集まりから、国家の官吏や法律の専門家の養成の必要性も相まって、主要な政治都市に大学universityが建設されることになった。

 実は、エンジェル帝国にも大学はある。ロングフォード大学とガッディーニア大学の二つがある。だが、大学に通える条件は、自由市民であることと学費を払えることであるため、奴隷当時のグローには無縁であったので、全く興味が湧かなかった。でも、今となっては、ボノニア大学に通っている学生を見ていると、羨ましく思う。もし通えていたら、どんだけ可能性の幅が広がるだろうかと。だが、考えても意味のない仮定の話は止めた。彼はそのことについて考えるのを止め、そのボノニア大学のもとを去った。

 彼らは市場に向かい、少し食材を買うことにした。セロリや人参、玉ねぎを買った。それと、保存が利くパンが欲しかったので、グローはパン工房に行った。

 「すみません、パン三つください。」

 グローがパンを頼むと、

 「はい。ただ今焼くので、ちょっと待っててください。」

と女性のパン職人が窯にパンを入れ、焼いていた。

 女性の職人というのは珍しく、グローは物珍しさからジロジロと見てしまう。女性のパン職人が、ジロジロと見られていることに気づき、グローを睨みつける。

 「なんですか、ジロジロと。」

 女性のパン職人に強めの声で聞かれ、グローはたじろいでしまう。

 「す、すみません。女性の職人が珍しくて。」

 女性のパン職人が、何かを理解したのか鋭い目を緩める。

 「ああ、あなた、よその人ね。」

 「はい。」

 「ここら辺じゃ珍しくないですよ。この街は女性でも実力があれば、専門職に就けますので。」

 そのことを聞き、グローは驚きと同時に、納得がいった。この街では学生の姿をした女性もいれば、画家職人、鍛冶職人などの女性の姿を見かける。他の街ではあまり見かけないため、街に来た当初違和感があった。ここは女性にとって自由の楽園なのだろう。女性の顔がとても生き生きしている。

 「ほら、焼けましたよ。」

 「ありがとうございます。」

 グローが焼けたパンを受け取り、お金を渡す。彼は買い物を終えると、ヴォルティモの許に戻る。

 「買い物はこれくらいでいいかな。もうそろそろ街を出るか。」

 グローがヴォルティモにそう伝えると、ヴォルティモが、そういえばと何か思い出したように、

 「明日、ちょっと寄りたいところがあるから、明日は別行動でもいいか。」

 「ああ、まあ、いいけど。」

 グローはヴォルティモと行動を共にしていたので、少し慣れない感じがするが、滅多にここに行きたいと言わないヴォルティモが行きたいところがあると言うのなら、そこは尊重したいと思った。翌日、グローとヴォルティモはそれぞれ別行動をした。

 グローは時間を潰すかのように、ボノニアの街並みを眺めながら歩いていると、何かすすり泣く声が聞こえる。その声は路地裏に近づけば近づくほど、鮮明に聞こえてくる。路地裏に入ると、そこでうずくまって泣いている女性を見かける。

 咄嗟にグローはその女性に声をかける。

 「どうしましたか。」

 女性は彼の声に驚き、彼の顔をバッと見上げる。

 「い、いえ、なんでもないわ。」

 女性は涙で溢れている目を服の裾で拭い、笑顔を作る。そして、女性はその場をすぐに離れようとしたが、グローは先ほどの泣いていた姿を見逃せず、女性の腕を掴んだ。

 「何かあれば、話してください。楽になるかもしれませんよ。」

 女性は最初ためらいがあったものの、ゆっくりと話してくれた。

 「元々私には婚約していた男性がいたの。でも、その人がちょっと裕福な家の娘に見初められて、その子と婚約することになったの。でも、私と彼は反対したわ。それで、裕福な家の娘が怒って、私の家業を追い詰めたの。その結果、私は娼婦として体を売らなきゃいけなくなり、彼との婚約も諦めなきゃいけなくなったの。」

 女性はその話をすると、また目が涙ぐみ、声も震えていく。

 「そうなんだ。そんな辛い過去が。」

 女性はそんな辛い過去があるのに、必死に話してくれた。彼は少しでもその女性の力になりたいと思い、必死に少ない知識と経験を振り絞って考えた。

 「思ったんですけど、ボノニアは女性が活躍しやすい街ですよね。だったら、何か他に活躍できそうな職業を見つけて、ある程度裕福になれば、その人との婚約もまた考えられるんじゃないかなと思うんです。こんな職業辞めてさ。」

 女性はそのことを聞き、

 「ええ、確かにそうね。」

と微笑む。

 彼はその女性の返事を聞いて、良かったと安心した。

 「また、明日以降も話を聞くので、またお会いしましょう。」

 その日は、とりあえずそれぐらいで話をするのを中断して、また次の日に持ち越すことにした。

 「また明日。」

 「ええ、また明日に。」

 彼と女性は互いに手を振り、一旦別れた。そして、ヴォルティモとの待ち合わせの場所に向かった。

 彼はヴォルティモと会うなり、ここにもう少し滞在したいという思いを告げた。

 「ごめん、もう少しだけこのボノニアに滞在することはできるかな。」

 「まあ、俺は別にいいけど。なんか用事があるのか?」

 「ああ、ちょっとな。」

 ヴォルティモは一瞬驚くが、滞在を許可してくれた。

 そうして、彼らは2、3日ボノニアに滞在した。

 グローはその翌日も、その翌々日も女性に会い、近況を聞いた。そして、その彼女の悩みに寄り添い、考えられる策を提案してみた。

 「今日は気持ち的にどうですか。」

 「今日は…、まあまあかしら。お客さんの中に一人優しい人がいたから。」

 女性はニコリとぎこちない笑顔を作り、グローはその笑顔を見て安心してしまった。

 「そうなんですね。それは良かったですね。そういえば、お名前は何て言うんですか。」

 「私はソフィアよ。あなたは?」

 「俺はグローです。ソフィアさんは何か得意なこととかあるんですか。」

 グローがそう質問をすると、ソフィアは困ったような表情をしてしまう。

 「…何かあったかしら。私に…。」

 彼女は徐々に声が小さくなり、顔も段々と下へと向いていく。

 「無いなら、作っていきましょう。そして、その特技を仕事にしましょう。自分を変えていきましょう。」

 「…そうね。」

 ソフィアはグローの話を聞いては、いつも微笑み、彼の提案を聞いてくれた。

 彼は、今日も彼女に会いに行こうといつもの場所へ向かう。

 太陽が少し黒い雲で隠され、空がいつもより暗い。今日は雲行きが怪しい。だが、グローはそんなことなど気にも留めず、ソフィアの許へと向かった。

 いつもの場所に着くと、別の気の強そうな女性が二人いる。

 その女性らと彼の目が合うと、その女性らは彼に近づき、いきなり彼の胸倉を掴んできた。

 「あんたか、この子につまんねえ話するやつは。」

 ―え、つまんない話?

 彼は、一瞬何を言っているのか分からなかった。

 「え、何がですか。俺は彼女の悩みを聞いていただけですが。」

 彼はいきなり胸倉を掴まれ、つまらないなどと言われたため、その女性らに向かってムッとした表情で言う。

 そのことを聞き、女性らは深いため息をついた。

 「悩みを聞いていただけ?お前のただの自己満足な主張の間違いじゃないのか?」

 彼の胸がざわつく。

 「いや、俺は彼女のためを思って…。」

 その返答も女性らには気に食わなかったのだろう。胸倉を掴んだ女性は声を荒げる。

 「あんたの話が本当にあの子のためになると思ってんの?」

 女性らは彼を鋭い眼光で睨んでくる。まるで神話に出てくるメデューサのようだ。彼はその鋭い眼光で睨まれ、体が石になったかのように動かない。

 そうすると、その女性二人に対して、彼女が止めに入る。

 「もういいから…。私は大丈夫だから…。」

 しかし、女性二人は彼への説教を止めない。

 「確かに、あんたの言うことは正しいよ。娼婦は決して褒められる職業じゃないし。このボノニアは女性に優しいから、才能があれば活躍できるよ。…才能があればな。私たちみたいな学もなければ、技術もない。金もコネもない。そんな私たちはこうやって生きていくしかないんだよ。それで、夢や正義を振りかざされてもただ辛いだけなんだよ。」

 さらに、女性二人は当事者の彼女をチラッと見て、付け加えるように言った。

 「あたしたちはいいよ。ただお金欲しいだけだし、金持っている男性に見初められればいいなって思っているやつだからよ。ただ、あの子は繊細なんだ。あんたのわけわからん正義を振りかざすな。」

 彼はその女性二人に説教されて、ようやく気付いた。自分は何もわかっていなかった。いや、忘れていた。この世界は弱い者には厳しいのだと。この世界は残酷なのだと。

 きっとソフィアはグローの話を聞くときは、笑顔を作り、話を聞いてくれていたのだろう。だが、彼女の心はより傷付き、行き所の無い彼女の悲しみが、この女性たちに愚痴として零れ出てしまったのだろう。

 グローはようやく今、自分の身勝手さに気づいた。

 女性は彼の胸倉を離し、彼はその現実に打ちひしがれるように、その場に膝から崩れ落ちた。女性たちはその場を去り、彼はしばらくその場に座り込んでいた。

 その時、雨がポツポツと降り始めた。

 ―こんな小雨じゃなくて、もっと強く大量に雨が降ればいいのに。そして、この自分の不甲斐なさに対する悔しさと悲しさを洗い流せばいいのに。

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