黒猫のクロ

わたしは、めぐまれている。


カップを持ってコーヒーショップを出た遠峯とおみねキミカは、思う。


ホイップクリームとチョコレートソースがトッピングされたチャイラテ。


耳が聞こえないことに気づくと、店員さんはすぐにメニューとは違う分かりやすい注文票を持ってきてくれた。


顔見知りでもない店員さんは注文を復唱ふくしょうする時にわたしの目を見て指差しで確認してくれた。


様々な人へ向けてのルール作りやデザイン。


きっとデザイナーの設計やアルバイトの教育だったり、多くの大人が努力して社会をより良くした結果だと思う。


おかげでわたしは、気分によって色々なフレーバーや組み合わせを楽しめる。


伝えることが億劫おっくうになって"消極的ないつもの"を頼まなくてすむ。


それに声を文字に変換してくれる音声認識アプリとスマホのような持ち運べる高性能なデバイスがなければ、わたしはさっきの女性に道を教えることもできなかった。


彼女は包装を開けて、紙製のストローを差しこみ、中身を口に含む。


冷たくて甘い。シナモンの香りと紅茶の風味をキミカは楽しむ。


もしも、わたしが生まれてくるのが今より二十年前だとしたら、今よりもっと不自由だったと思う。

もしも、二百年前だとしたら、わたしは生きていけなかったのかもしれない。


キミカは自分の取り巻く世界へ静かに感謝しながら、歩いていく。


――だからわたしは魔法少女になる決意をしたんだ。


住宅街の静かな十字路までさしかかると、向かいのへいの影から猫が顔を出す。


ひたいに傷がついた不機嫌そうな黒猫。


猫は進路を変えてキミカの隣についてくる。


「暑くないの? クロ」とキミカは

「暑い。黒猫に生まれたことを後悔しそうだ」とクロと呼ばれた猫は


使い魔のクロと魔法少女のキミカは思えば、会話を、意思疎通をすることができる。


「パトロール、お疲れ様。魔獣の気配は?」キミカは日傘をクロへそっとかたむける

「ない。少なくとも、今は」クロはキミカの気遣いへうっとうしそうに鳴く。


魔獣。

世界に仇をなす存在。

人々を恨み、暴力を駆動くどうさせる装置。


一週間前にそれは確かに遠峯とおみねキミカの目の前にいた。


巨大な紫のコヨーテに似た何か。深く裂けた口。むき出しの牙からは垂れるよだれ


ショッピングモールに現れた化物は災害のように、商品をなぎ倒し人を傷つけた。


キミカが逃げ遅れたのは、店内の非常放送が聞えなかったからだ。


同じく逃げ遅れた幼い少年とともに、出口を探すため崩れたショッピングモールを彷徨さまよう彼女は不運にも魔獣と鉢合はちあわせてしまったのだ。


もう終わりかもしれない。


充血しにごった目はキミカと少年に狙いを定めている。


巨大な魔獣が雄たけびを上げ、彼女たちに襲いかかる。


その時、世界が止まった。


抱きしめた少年の頬に流れる涙も、せまりくる魔獣の邪悪なあぎとも静止していた。


そして視界の端から唯一動くもの――黒猫がこちらに歩いてくるのが、キミカの瞳に写る。


「お前は幸運だ」猫は喋る。

「適正もあるし、俺には丁度ちょうど、パートナーがいないんだ」


「魔法少女にならないか?」


猫はキミカの前に腰を下して、魔獣のちらりと見る。


「悪いが、選択の余地はない」


びくりと驚いたキミカは猫を注視した。


「あなたが喋っているの?」

「そうだ」


思った言葉が伝わる。彼女は瞳を見開いて、再度驚く。


「どうしたんだ? 時間はないぞ」不審そうに猫は視線を向ける。

「分かった」キミカはうなずく。


「いい返事だ」

黒猫は少女に向かって前脚まえあしを差し出す。それに触れることによって契約が完了することをしめすように。


キミカはかがみ、恐る恐るその手に触れる。


強烈きょうれつな光が瞬時に広がり、世界が動き始める。


フリルのついたミニスカート。茶色がかった髪はビビットな黄色へ。


肩口がふらんだパステルカラーのブラウス。えりは首元まで包まみ、その先はユリの花弁かべんのようなゆるやかにひろがるレースにいろどられている。


それが魔法少女になったキミカの姿だった。


そして、少女の手の中には光り輝く黄色い結晶があった。


「それはお前の武器だ。戦う姿をイメージしろ」


戦うイメージ。


思えば、正義のヒロインはみんな、普通だった。

目が見えない訳でも、足が動かない訳でも、もちろん耳が聞えない訳でもなかった。


普通の人が正義の味方になって人々を助ける。

なにか問題がある訳ではない。ただその事実はキミカの胸をしめつけ、不安にさせた。


キミカは記憶をたぐり寄せる。


盲目の侍が抜刀術ばっとうじゅつで悪人を退治する時代劇。

いつか見た古い映画を思い浮かべた少女の手にはリボンでラッピングされた日本刀が握られていた。


「大分物騒だが、行けるか?」

「うん」


返事とともにキミカは閃光で目が眩んだ魔獣に向かって大きく踏みこむ。


そして、ふところもぐりこんだ少女はさやから抜いたやいばを下から喉元に差しいれる。


えうっ。

魔獣の口から叫びにならない嗚咽おえつのような空気がれる。


それでも、残虐ざんぎゃくな反抗の意志をいまだ残し、強靭きょうじんな爪でキミカの体を袈裟けさ斬りのごとく引き裂こうとする。


しかし、少女は素早く刃先を横に向ける。


そして両手に力を込め、上から下に振り切った。


頭と胴は断ち切られ、血液のような黒い飛沫しぶきが舞う。


そのまま仰向あおむけに倒れた魔獣は黒い霧となり、発散して、消えていった。


「初めてにしちゃ、上出来だ。俺は黒猫のクロ。お前は?」

遠峯とおみねキミカ」


誰かを傷つけることができる暴力の確かな証。その鋭く尖った刃を静かに眺めてから、キミカは答えた。


「もうすぐ仲間が来る。細かいことはそれから――」


クロは少年がキミカの元にけ寄り、感謝の言葉を述べていることに気づいた。


「おい、ガキがなんか言ってるぞ。答えたらどうだ」


振り返った彼女は言葉も無く、少年を抱きしめ頭を優しくでるだけだった。

まさかな、とクロは思いキミカに問う。


「お前は耳が聞えないのか」

それがどうしたの? そんな風に少女は笑い、うなずいた。


遠峯とおみねキミカはその時、魔法少女になったのだ。


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