第7話「そういえば」

 


 


「あぁ……そっか、ソファーで寝たのか俺」


 ここに越してくるときに買った座る相手もいないだろう三人用のソファーで目を覚ました。


 体を起こすと、少々重い。

 心なしか足も痛い。

 

「いっ」


 気分もどこか晴れない。

 そんな中、ソファーから立ち上がりスクリーンの上にかかった時計を見るとその針は二つとも”XIを指していた。


「十一時……あ、そっか。確か犬を拾って病院に行って」


 仕事帰りに栗花落を見て、そしたら満身創痍の犬を抱きかかえていて、二人で動物病院に駆けこんで。


 俺たち、どうしたんだっけ。



 

 —―家来ます?




「あ」





 本調子ではない頭でぼーっと考えてみると、熟考する必要もなくすぐに言葉が出てきた。


 そうだ。言っていた。俺は誘っていた。

 年下の、数年ぶりに再会した元カノに。

 時間に間に合わないし、それなら家に来ないかと。

 一日くらい大丈夫だよって言うと追加料金がかかるから、させるわけにはいかないって律儀にも言ってくれて。


 いっそのこと泊まればすぐにできるんじゃないかと。

 今考えれば、ホテル代でも渡して家から近いホテルに泊まってもらえば良かったじゃないか。


「……っん」


 喉を鳴らし、彼女がいるであろう寝室を見つめる。

 そう、彼女は俺の寝室で寝ている。

 無防備にも、寝ているのだ。


「いやいやっ」


 よくなかった。

 俺も栗花落も歳取ったとはいえ、ただの男女だ。それに加えて元恋人だ。

 

 勿論、そんなことする気はないし、彼女だってされる気はないと思うし、誰もが期待するようなまるでドラマのワンシーンみたいな熱烈な一ページは絶対に来ないとは思う。


 だがしかし、こういうことは簡単にしちゃいけなかった。

 

「つゆっ――」


 ノックをしようと拳を上げたがそこで立ち止まる。

 耳を澄ませてみるも栗花落の声はしない。

 あんなことがあってからの今日だ。

 まだ寝てるだろう。

 さすがに無理やり入るわけにもいかないし、今更俺が寝顔を見るだなんてご法度なことをしでかしたくもない。


「起きてから、でいいか」


 呟くとぼっと湧き上がってくる欠伸と眠気。

 さすがのオールに、体もついていかないのが考えなくても分かる。

 年を取ったななんて思いつつ俺は風呂へ向かい、シャワーを浴びることにした。


 



 ザーザー。

 シャワーの音を聞きながら、俺はふと思い出した。


 思えば、昔にもこんなことがあった様な気がする。

 あれはまだ、俺と彼女が付き合い始めて一か月の頃の話だ。


 いつも通りの高校、来年からの受験勉強に向けて着実に進んでいく二年生最後の総復習。

 来年の長い長い道のりへ向けての準備期間である一日が予鈴で終わる。

 友達と話しながら適当に掃除をして、女子たちに男子もしっかりやってよと注意される。男諸君ならよく分かるであろう変わらない日々。

 ゴミ出しじゃんけんに負けて、ゴミ捨て場にクラスのゴミを捨てに行き、一人教室へ舞い戻る。

 最後に窓を閉めて、薄暗くなった蜜柑色の空を眺めながら俺は最後に教室を後にする。


 廊下の窓からはサッカー部や野球部の掛け声が、

 通り過ぎる教室からは吹奏楽部のパート別練習の音が、

 そして、大広間からはダンス部の音楽と地面を踏む音が。


 すべてが混ざり合って飽和して、学校と言う一体感を醸しだしている。


 当時はうるさいな、静かにしてほしいな——なんて考えていたが、今思えばその音は青春を飾る立派な一ページだったと思う。


 もう少し聞いていればよかったなと耽る今の俺を置いて、この時の俺は若干小走りで玄関へ向かっていた。


 理由はもちろん、彼女と帰るため。

 人生で初めての彼女で、人生で最後の彼女。

 初恋――というわけではないが、俺のことを慕ってくれる地味だけど可愛い女の子だった。


「あ、先輩っ!」


 俺の姿を見るなり、嬉しそうに笑みを溢し、手を振りながら上下にぴょんぴょんと跳ねる姿。

 まるで動物園の小動物コーナーのケージを見ているような気分だった。

 そんな彼女のもとへやってくると、俺の靴がすでに玄関に置かれてあった。


「待ってましたよ、先輩。靴用意しておきました!」

「お、おう。栗花落は用意周到だな」

「備えあれば患いなしって言いますからね!」

「それはなんか意味が違うと思うが、まぁいいか」


 小動物、いやどっちかと言うより犬に近い。

 ご主人様の帰りを待つ犬、どちらかと言うとゴールデンレトリバーの子犬的な感じに見える。

 俺の目には犬の耳と左右に振った尻尾が見えている。


 うん、案外いいな。

 こういうのもとてもそそられるというか……って何考えてんだ、俺は。

 年端も行かない後輩の姿で破廉恥な。

 危ない、最近彼女ができた高揚感からか。

 俺もああいうことやそういうことが出来てしまうんじゃないかと言う期待が拍車をかけている。

 もちろん、してみたいのは事実だ。俺も男、そうでも思わなければ男が廃る。

 ただ、彼氏彼女の前に俺は先輩だ。

 もっと大人らしく、優しく誠実にふるまわなくてはいけない。


「あの、先輩。大丈夫ですか?」


 深く考え込んでいると目の前に後輩の顔が現れた。


「っお⁉」

「ひゃっ」


 お互いに驚いて一歩下がる。

 慌てて顔を振り、余計な考えを振り払う。

 反対に、正面に立っていた栗花落は驚きの表情からほっと肩をなで下ろし、それからもう一度不思議そうに見つめてきた。


「あ、いや……ごめんごめん。少し、な」

「大丈夫、です?」

「な、なんでもないよ。本当に」

「ならいいんですけど……なんか、顔赤いですよ? 熱とかなら私—―」

「あぁ~~違う違う! ほんとに違う!! さっきほら、階段走っておりてきたからさ! よし、そんなのはいいから早く帰るぞ~~!」

「え、ちょっ――先輩!」


 焦って、思わず彼女の背中を押した。

 鞄が揺れ、靴のかかとを踏みつける。

 

 言えるわけがない。

 付き合って一か月の後輩の体でエッチな想像をしていたから赤くなったんだって。


 そう、言えるわけがないのだ。




 そこからはくだらない話に花を咲かせて、俺たち二人は並んでいつもの道を帰っていた。

 夕陽があたり一面を煌びやかに照らし、川の水面が揺れて反射する。


 距離は近くも遠くもなく、並んで歩く。


 車の音、水の音、そして人が話す声。

 町の喧騒をBGMに帰り道を楽しんでいた。


 手なんか繋ぐのが夢だったりもしたが、勿論俺は彼女の手に触れもしていなかった。

 

 恥ずかしい、とかではない。

 勇気が出なかっただけだ。

 後輩と言うステータスで付き合った俺が、後輩の手を握るというのはいかがなものなのかと躊躇さえしていた。背中触れて、握手までして何を迷っているんだかと冷静な大人になった今なら思えるがこの時はそう思えていなかった。


 初めての彼女に冷静でいられるわけもない童貞男の全くみっともない話だ。

 

 挙句、最初に手に触れたのは彼女からだというのがナヨナヨ男らしい。

 こういうものの積み重ねで俺は呆れられたのかもしれないというのに、そんなことはつゆ知れず適度な距離感を歩いていく。


 早く帰るのはもったいない気がして、彼女の提案で渡るはずの橋の下に降りて河川敷をぐるっと回っていく。


 徐々に陽も沈んでいくも、時間を忘れて話に耽る。


 ちょうど、一蹴回って河川敷の公園の横を歩いていた時だった。

 

「にゃ、にゃぁぉ!!!」


 俺らは聞こえてきた何かの音に足を止めた。


「先輩、これって」

「あ、あぁ。猫か?」


 何の鳴き声かはすぐに分かった。

 あたりを見回すと何もない。


「何にもいませんね……」

「だな。気のせい――」

「にゃぁおっ、きぃ!」

「—―じゃなさそうだな」


 何か訴えているような鳴き声で、見渡すも見つからない。

 しかし、横にいた彼女はいつの間にか走り出していた。


「先輩、あそこ!」


 指さす先にいたのは遊具の一番上で降りれなくなり身動きが取れなくなっている猫がいた。


 気が付けば栗花落がその遊具を上っていて、俺も急いで彼女の真下に駆けつける。

 

「せ、先輩っ……」


 登っていくも徐々にペースが遅くなる彼女。

 上を向くとスカートの中から危うくパンツが見えそうになり、目をそむけたが「うぅ」と唸る栗花落の声が聞こえてくる。


 思い出したが彼女は運動神経がない。 

 運動音痴だった。

 木登りはおろか、腕立ても腹筋も一回もできないほどだ。


 しかし、目の前の猫を助けるために顧みず上っていく姿を俺はただただ見ていることしかできない。


「ひゃ⁉」

「あ、おい!」


 一生懸命に登っていき、ついに猫に手を伸ばすもその瞬間だった。


 —―鉄棒を掴みかけ、滑り台のようになっている遊具の天井を止まれずに落っこちってきたのだ。


 慌てて手を広げると、何とか間に合い、俺の胸に飛び込んでくる形で落ちてきて、そのまま猫を抱えて落ちてきたところをキャッチした。


「—―あ、っぶ」


 その衝撃で抱えていた猫は驚いて飛び出していき、草陰の中に消えていく。


「あ、猫!」

「あぁ……言っちゃったな」

「うぅ。せっかく助けたのに……」


 と、嘆く彼女に俺はそうじゃないと頭を振って脳天にチョップを入れた。


「っておい」

「あいてっ……せ、先輩、いたいです……」

「いや、危ないから。ああいうのは俺に任せていいから。勝手に行くなよ」

「だ、だって……猫が」

「いいから」

「は、はい」


 しょんぼりした彼女と共に、家まで帰る。




 そんなことがあった。


 そして、今—―大人になった俺の隣を歩くのは大人になった犬を抱きかかえながら歩く栗花落元カノだった。


 


 ◇


「……知らない、天井だわ」


 とあるアニメのように呟いた私は数秒後。

 岩をも砕く流水の如く押し寄せてきた事実に、頭を抱えることをまだ知らないのだ。




あとがき

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