最終話 時を刻まない時計

「おばあちゃん。お見舞いに来たよ」

 そう言って、病院のとある一室の横開きの扉を開いたのは、私の孫だった。

「ありがとねぇ」

 ベッドに横になりながら、今ある力を振り絞っては、優しい孫に礼を言うと、

「おばあちゃん。もし、天国に行ったら、おじいちゃんのところにいくの?」

 と言ってきた。

 最近、数え15程になった孫は私の余命が残り僅かだということを知っている。知っているからこそ、今、とても辛そうに唇を噛みながら、私に聞いてきた。

 きっと、気遣ってくれているのだろう。

 死ぬのは怖くないよ。死んでも、向こうでおじいちゃんが居るから寂しくないよ、と。

 でも、私の答えは違う。

「おじいちゃんねぇ…。私は、別のとても大切な人に会いにいくわ。たとえ、それが地獄でも」

「……うん、そっか。その大切な人に会えると良いね」

 孫は、おじいちゃんじゃないの? とは聞かない。きっと、悟ってくれたのだろう。聞いてはいけないということを。


「あ、もうこんな時間だ。じゃあね、おばあちゃん」

「あぁ、もうお帰り。お母さんが心配しますよ」

 あれから少しの間、世間話をしていたはずなのに随分と時間が経っていたようだ。別れの言葉をお互いに告げ、その場はお開きとなった。



▽▼▽▼

 あぁ。もう少しで、この現し世とはお別れなのね。年老いて皺だらけの手を眺め、改めて思った。

 貴方と最期顔を合わせたあの時からもう数十年。 私は、もう年老いて枯れ果ててしまった。

 たとえ貴方が迎えにいらしても、私だということが分からないでしょう。


でも、貴方もこの地の続く場所には居ないのですよね。


 あれから、私は結婚しました。

 戦争から帰ってきた、私の従兄弟に当たる方とです。

 その方も、私に優しかった。でも、優しいだけ。勿論、幸せでした。幸せでしたが、何かが欠けているのです。胸の中の、どこか大切な、とても大切な部分にぽっかり穴が空いているのです。



 何故でしょう。とても寂しい。家族に囲まれているはずなのに………。


 何故でしょう。とても虚しい。結婚して幸せになったはずなのに………。



 あれからずっと。貴方の帰りは無いと知った、あの時からずっと、どこか物足りない生活を送っていました。

 そして毎日、『私には貴方が必要だ』と思い知らされるのです。


 貴方に会いたい。貴方に会って、あの時伝えられなかったことを伝えたい。拒まれても良い。ただ伝いたいのです。


 あぁ。死ねば貴方に会えるのでしょうか。



 そう思い、私は目蓋を閉じて、

今までに無い、深い深い眠りについた。


 ベッド脇には、貴方が残した金縁の万年筆と今もなお、時を刻み続ける金の懐中時計が置かれている。


 カチカチ、カチカチ、と鳴る懐中時計の音は、私が行く逝くのを見守っているようであった。



▷▶▷▶



 ここはどこなのだろうか。

 先程、私は眠ったはずなのに……意識が以上的に鮮明だった。

 辺り一面に、ススキ畑が広がっている。

 何故だろう。とても懐かしく感じる。


 雲海に浮かぶ望月は、暖かくもあり異様な光を放っていた。そのためか、現実味が感じられない。


 とても不思議で、夢のような場所。そう、まるで天国のよう。

 

 そういえば、体が軽い。まるで若かりし頃の……。? 


 そうか、私は若返ったのか。

 もう、心は年老いてしまった私にとって、あまり驚きが大きくない出来事であった。

 皺だらけであった手は艶すら伺える若者の手になっている。

 衣は当時、気に入りだった青いリンドウの花の着物だ。波打ちながら後ろに流れているのを見ると、少し風が吹いていることがわかる。



 これは……これは夢だろう。

そうでなければ、おかしい。まず、あり得ないだろう。

 しかし、まぁ。夢ならば、いずれ覚めるだろう。


 せっかくの機会なのだから、この美しい景色を目に焼き付けなければ。

 そう思い、雲海に浮かぶ不思議な望月を眺めた。



















「月が綺麗ですね」

 すると、誰もいないと思っていた左手側から聞き慣れた声が聞こえた。


「っえ……?」

 そんな声が口から零れたのは、いつぶりだろうか。

 その声は、もう永遠に聞けないであろう人の声だった。


 着物を着流しにした姿は、別れ、会えなくなる前のままで、私が時を遡ってしまったのかと思わせるほどであった。


 貴方に会えるだなんて。


 そんな驚きが、喜びよりも先に胸の奥から湧き出てきた。

 そして、それに続いて喜びも。幸せも。

 今まで、ぽっかりと空いた穴がどんどん塞がっていくように、胸が満たされていく。

 年老いた心が昔のように潤っていく。




「「やっと会えた」」

 

 2人の声が重なり、再会がより一層確かなものとなる。


 互いに、指を絡め、抱きしめあう。


 もう二度と離さぬようにと。


そんな2人をただ優しく見守っていたのは、雲海に浮かぶ望月のみであった。








 青年の時計は、静かなあの一室の文机の上で開かれていて、障子と障子の隙間から零れ月の輝きを部屋に散らしていた。

 何故、開いてあるのかは分からない。

 何故、光を散らしているかは分からない。



 

 ただ、その時計はもう

『時を刻んではいなかった』。




 〖終〗

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