読み書き拳万

そうざ

Extreme Reading and Writing

 志木地しきじさんの決心は固いようだ。

 我が〔素読会すどくかい〕としては、彼女の門出を華々しく祝福すべきなのだが、なのにこのもやもやは何だろうと思う。

「送別会……と言って良いのかな」

 志木地さんの顔色を窺う。勿論という笑みを返される。反射的に、快気祝いという言葉が浮かんだ。間違ってはいない、かも知れない。

「それじゃ、乾杯」

 会場には〔素読会〕の打ち上げを日常的に行っている馴染みの飲み屋を選んだが、積もる話もあるだろうと今回ばかりは個室を予約した。

「在学中に、って憧れるフレーズですよねぇ」

 春に入会したばかりの新人君が素直さを発露する。その素直さを高純度のままいつまで保持出来るのか、と先輩会員の誰もが感じているに違いない。

「兎に角、前代未聞なのは間違いないよ。僕の知る限り〔素読会〕の出身者で初だ」

 忽ち忸怩たる思いが幽鬼の如く立ち昇り、個室の閉鎖空間に澱み始める。



 今から丁度三十年前、〔素読会〕は学内の読書好き同好会として発足した。『素読』とは『素直に読む』の意味が込められている。


〔素読会〕会員心得3項目

 1.丁寧に読み合おう

 2.仲良く読み合おう

 3.貶さず読み合おう


 僕が十代目の会長に就いたのは昨年の春、三回生になった直後の事だった。

 会長就任は決して名誉な事ではない。それは会員の誰もが理解している。うだつの上がらない奴、と同義であり、そんな奴は会員の為に雑事でもこなしているのがお似合い、というニュアンスを含意しているからだった。

「だけど、志木地さんだったらプロのにも成れたんじゃないですかぁ?」

 またしても新人君の素直な、そして余計な問い掛けに、滞留していた場の空気が仄かに揺れた。

 流石に会長としてたしなめても良い不規則発言だろう。

「書き手と読み手との間にはね、深くて暗い河が流れているものなのだよ」



 今から十三年前、内乱が勃発した。

 それは後に〔下溜したための乱〕と名付けられ、今でも会員の間で語り継がれている一大事件だった。

『貴様等はどいつもこいつも糞に群がる銀蝿がり出した下痢便だっ! のんべんだらりと読み手の役回りに安住し、天日干しにした洗濯物を取り込むかの如く自らの表現欲求を後生大事に折り畳んで箪笥の肥やしにしてやがるっ』

 下溜氏は煩い比喩表現を多用する人物だったらしい。

 当然、当時の会長(五代目)日元木ひもとき氏は真っ向からいさめた。

『まぁ、落ち着き給え、下溜君。貴君ともあろう者が我が〔素読会〕発足の本義を知らぬ筈がなかろう。〔素読会〕会員心得――』

『じゃかましぃやいっ!! 烏賊飯の餅米も詰め込めねぇ好かん蛸がぁっ!!』

 こんなような談論が止め処なく交わされたとか何とか、複数の歴代OBから聞かされている。



 想定せざる突然変異体たる下溜の出現に依り、〔素読会〕の存続までもが危ぶまれる事態となった。

 会員から幾つもの意見書が提出され、喧々囂々けんけんごうごう侃々諤々かんかんがくがくの議論が巻き起こったが、落とし所を見い出せないまま時間だけがいたずらに浪費された。

 一件が泥沼化の様相を呈し始めると、いよいよ学生自治会からの介入も現実味を帯び、取り得るべき選択肢として強制解散処分は避けられないとの見方が大勢を占めるに至った。

 くして、ようよううに妥協点がさぐられた。それは、平和的且つ生産的な解決案だった。


〔素読会〕は会長続投の上、その本義は勿論、活動形態も従来のまま踏襲される事になった。

 一方の下溜は、その賛同者と共に新たな同好会を発足させた。その名も〔果敢かかんde会〕。『書かんでかい』に掛けたその理念は〔素読会〕のそれに真っ向から対立するものだった。


〔果敢de会〕鉄ノ掟三ヶ条

 一、会員ト成リシ者ハ如何ナル時モ純然タル書キ手タレ

 一、読ミ手ヘノ訣別コソ書キ手ノ本懐ト忘ルルベカラズ

 一、書キ手ニアラズハ人ニ非ズトノ真理ヲ努メテ心得ヨ


「俺、時々感じるんですけど」

 アルコールを受け付けない新人君が口を開く。

「読んでると書きたくなりません?」

 場が凍り付く。食べ散らかした料理皿の端で、ジョッキの角氷がからんと音を立てる。

 唯一、箸が止まらないのは志木地さんだけだった。その彼女が出汁巻き玉子をぺろりと平らげて言った。

「そうだ、記念に名刺を作ったんです。ほんのお遊びなんですけどね」

 志木地さんが営業職を気取って一人一人に名刺を手渡して行く。新人君の質問はなかった事にされている。


『文盲家・志木地りつ』


 飾り気のないその紙片は、自らに『読む』事だけを課した〔素読会〕とも、『書く』事だけを課した〔果敢de会〕とも、袂を分かつという決意表明に他ならない。金輪際、物語を読む事も書く事もしないと宣言したのだ。その高潔さ、その頑なさには平伏ひれふすしかない。

 私だけではない筈だ。〔素読会〕の面々も、〔果敢de会〕の面々も、己の厚顔を映す鏡を真っ向から直視出来るとでも言うのか。

 発足から十三年、〔果敢de会〕の誰かが小説家や随筆家として大成したという話は風の噂ですらついぞ聞かない。更に歴史ある〔素読会〕も書評家や評論家を輩出した事実はない。


『愚にも付かぬ落書きがプロの名の下に作品と称して幅広く流通し、一定の評価を得ている今日の文学の衰退振りに、私は沸々たる嫌悪を禁じ得ない』


 例えばこの扇動的惹句を如何いかな者に依るものと感じ取るか。読み手に依るものか、書き手に依るものか、文盲の手に依るものか。そもそもこの問いを当然の如く三者択一と解するか否かが回答者の見識を計る分水嶺となろう。 

 誰もが手ずからしつらえた見えない鳥籠の中で、揚力を生まない翼をいつまでも後生大事に羽繕はづくろいしているだけなのだ。

 遠回しの修辞に酔い痴れ、ひけらかしの引用に満悦し、無理解は理解出来ない側の問題であると唾棄する、そういった人種に決別を約束した『文盲家・志木地りつ』に誰が何を言えようか。

「ところで、このブンモウって何すか?」

 新人君が何杯目かのホットミルクをすすっている。

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