高貴なる食事場の住人

彼方のカナタ

高貴なる食事場の住人

名古屋。そう、私は名古屋に来ていた。

普段なら、こんなところには来ないだろう。私はラメ刺繍されたピンクベージュのレースドレスを身に纏い、いつもは単純にポニーテールにしている長い黒髪も淡いピンクのリボンで螺旋状にまとめている。私個人としてはこのような格好で出歩きたいとは全く思わない。ただ、今から向かうところがそんなところなのだから仕方がない。私はそう思い豪華に装飾されたエレベーターに乗りこむ。高校時代に学習した慣性力なのかわからないが、グンッと体が床に押し付けられるようなプレッシャーを感じる。

先程までいた地下駐車場とは雰囲気が一転したことで、私は直ぐにでもここから出たいと思ってしまう。

私を見つめる背後の絵画の女性も、絵に描かれている眠った梟も、この場に相応しく無い者を拒絶するかのように自然に居座っている。

「スリーピングアウル……」

意味もなくそう呟くが、私を見つめる視線がよりいっそう厳しくなった様に感じて少し怖くなる。


エントランスホールのある三階に到着し、外に出る。その瞬間、スッとした香りが私を覆った。目の前には大きな装花が鎮座していて、それは綺麗な黄色の菊(花言葉「高貴」「高尚」「高潔」)で彩られていた。

その姿に圧倒されるも、ここに来た目的を思い出し、時間を確認する。十一時十二分、意外と時間が無いことに驚き、急いでエスカレーターへと向かう。

今年で勤務継続五年となり、会社から食事券が渡されたのだ。それを利用する為に今日は、高級ホテルにあるレストランへと向かっている。

三階から六階を貫く巨大な壁は、中世ヨーロッパの城の外壁のような装飾がされており、そこには水が流れている。その横に設置されたエスカレーターに乗り、上昇してゆく。

五階へと到着し、店へと向かう。

店へと到着したが、開店時間には開いているであろう門が在り、高級レストランの入り口はこんなにも立派なのか、と気圧される。


十一時十八分。あと二分で招待された時刻となる。少しずつ正装をした人が集まって来ている。この人達はこんなにも窮屈な場所に普段から来るような人たちなのだろうか…。高級フレンチ…、普段から来ていれば緊張なんてしなかっただろうに…。


開店の時刻となった。店員に声をかけられる。

「菊嶌様ですか?」

はい、と私は答える。門をくぐり、店員に案内された先で、一人席のテーブルに座る。ここでは接客する者は全員タキシードを着用するようだ。あまりこういうところの礼儀作法を知らない私に丁寧に接客し、導いてくれるのでとても助かる。


テーブルに並べられていたものは、中心が白く、周りが緑色の皿で、白い部分には店のロゴが刻まれており、また縁は金で飾られている。その両隣に二対のナイフとフォーク、そしてそのさらに左側には別の皿と塩&バター、そしてナプキンが用意されていた。

私は今からこの物を使って食事をするのか…。


はじめに出てきた料理は…フォアグラ。

え…私、フォアグラなんて食べたことないんだけど、こんな形で経験するとは予想していなかったな。店員さんの声は優しい感じであるが、静かな店内でさえ消え入ってしまうような程にか細いので正確な料理名まではわからないけれど、フォアグラの上に菫(花言葉「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」)のゼリー、横には恐らくミニトマト(若しくはプチトマト)を象ったスイカのソースがある。皿は先程私の目の前に居た豪華な物とはまた変わり、透明で綺麗な、しかも技巧が凝らされた様に見えるものであった。

私が出来る中で最も丁寧に、ソレを食べすすめていく。先刻までの酷い緊張は緩和され、少し冷静さを取り戻したつもりであったが、口に運んだ食物たちの味がなかなかしない。やはり、経験値の少なさから私は高貴な食事を楽しむということが出来ないのである。

フォアグラを完食した私は周囲を恐る恐る見渡す。隣のテーブルでは二人の女性が談笑をしながら食事をしている。店員たちは忙しいはずなのに、それでもゆったりと余裕を持ったように見える。それを見ていると、今この店内で緊張し、オドオドしているのが私だけみたいで怖くなった。

「菊嶌様、パンは御入用ですか?」

突然、そう声をかけられた為、私は驚いてバッっと顔を上げた。そこにはふんわりとした雰囲気を持ったまだ若い女性がいた。疎外感を感じていた私がいきなり声をかけられて出来る事は頷く事のみであった。

次の食事が出てくるまでに、彼女は私にパンを持ってきた。次までの繋の為のパンなのか、それとも次の料理と共に食べるものなのか。わからないが、私はパン単体として食べることにした。

そのパンの原型は分からないが、恐らくフランスパンのようなものを切って提供しているのだろう。断面は横十糎、上下八糎ほどの大きさで、周りの…食パンで言うところの耳の部分は非常に硬く感じる。そのパンを少しちぎり、口へと入れる。フォアグラと違って、しっかりと味、食感などを感じることができた。「パン」は普段から食べる事のあるものだからだろうか。

それはとても香ばしく、何よりその「耳」のかたさと内側のやわらかさの違いに驚かされた。そんなことを思った時には既に、私の手元からパンは消えていた。

何なのだろう、あそこまで惹き付けられるパンは初めて食べた。もう一度、もう一度だけでいいから、あのパンを食べたい、そう思う。いや、願う。

そんな私に、彼女はもう一度こっそり声をかけた。

「もう一つ、御入用になりますか?」

私は、はい、と小さな声で答えた。

その時、未だ使われていない塩&バターが視界に入り、これは試してみたいと思った。

彼女はもう一つ、私にパンを持ってきてくれた。そして、

「もう一つ御入用でしたら、お声掛け下さい」

と言って去っていった。

私は彼女の後姿にありがとうございます、と呟き、パンと向かい合った。そして塩&バターを少量取ってパンに付け、もう一度齧り付いた。




気付いたら、ランチは終わっていた。

あのパンの虜となった私はその後のことをよく覚えていない。

時刻は一時八分。行き来た道を私は帰る。その道で、私は美しい器を目にした。その器は照明から受ける光を分散させる様に七色に輝く黒であった。それに気付いた私は少し嬉しくなって

「また、来ようかな」

そう呟いた。

私が恋したあのパンは、私のことを知らないから、私から会いに行こう。次は少し、成長した自分を見せられるのかな。そんな気分になって、私はまたあの菊の横を通り過ぎた。数時間前は私を拒絶するようだったあの女性は私に微笑んでいる様に、そしてあの梟は警戒心を解いて寝ている様に見えるのだった。

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