マジカルナイト・カーニバル

K

① 窓辺の月に生クリームを添えて

 雑貨兼カフェ『くろがね館』の二階にて。

 出窓の縁に腰掛けたブラックベルは、窓外の夜景を見つめていた。開け放たれた窓から吹き込んでくる風が、彼女の長い黒髪とネグリジェの薄い布地をなびかせている。

 その風に妙に甘ったるい香りを感じた。ケーキの化粧箱を開けた瞬間のような──そう、生クリームの香りだ。

 ふと、ブラックベルは月を見上げた。

「こんな夜更けにケーキは要らないわ」

 照る満月に語りかけているように見えるが、その言葉は背後の姿見に向けられている。

 その鏡面が波打ち、巨大なとんがり帽子を被った女が御簾みすを潜るようにして出て来たのだ。女は恭しくカーテシーをするが、帽子は取らなかった。ブラックベルもまた、振り返る事なく月だけを見て、

「ひさしぶりね。

「もう、リリーと呼んで下さらないの?」

 ブラックベルは小さく微笑して、目をつぶる。八七六〇〇時間と五五分三一秒ぶり、長いのか短いのか、ブラックベルには分からなかったが、しばらく顔を見ていないと思ったのは本当だった。

 スイートアート・クリスタル・リリーと呼ばれる魔道士は、かつて菓子の家を築いた魔女の末裔であった。彼女のこしらえる菓子は駄菓子をもじって“魔菓子”と呼ばれ、ことに彼女の作る生クリームの食感は「幼児の柔肌」と評される──ゆえに、またの名を“ザ・ホイップ”。先祖にならい、幼児誘拐の罪状を以て、彼女の魔法は成った。

 ブラックベルの瞼が開いた。

「その怖い目をやめて頂戴。

「嫌ねぇ、冗談も通じない。

 片膝をついたのは、スイートアートの方だった。

 大義そうにブラックベルは腰を上げた。

 ネグリジェの裾からすらりと伸びる美脚で一歩、また一歩とにじり寄り、任侠めいた片膝立ちになってスイートアートの顎を左手で掴んだ。

 もう一方の手で帽子を取る、その手つきが恭しいぶん、いやらしい。

 スイートアートはブラックベルに勝るとも劣らない長く美しい銀髪に、ジプシーを思わせる褐色の顔をした妖艶な美女だった。しかし先祖由来の呪詛を浴びた彼女は紫のルージュを引いたタラコ唇を一文字にして、苦痛を悟られまいと耐えていた。

 ブラックベルは、ネグリジェの襟ぐりからもう一方の手を入れ、ブラのカップからコルクの栓をした小瓶を取り出し、親指の爪でその栓を弾き飛ばして中の香りをスイートアートに嗅がせた。

 すると、呪詛は一瞬して解けるのだった。

 ブラックベルは小瓶を握ったまま、人差し指と中指をスイートアートの口に突っ込んだ上、その舌を押さえつけた。

「八七六〇〇時間五六分二秒ぶりでも憶えているものね、この舌の感触。懐かしいのについさっきのよう。ねえ、リリーお姉様?」

 舌を押さえつけられて利ける口などありはしない。だが今、念願の名で呼ばわれたスイートアートは、待ち焦がれた主人の姿を見た犬のような顔をする。しかしブラックベルは意に介さず、押さえつけた舌を前後に撫で始めた。

「この舌は呪詛を唱えるものじゃない。ほら、バカな頭で考えないで? この舌の方がよほど憶えているから、いま思い出させてあげる」

 指の腹を舌にこすり付けるかのように撫で回した。

 スイートアートは陶然として指の味に酔いしれていたが、その瞼が震え始めたところでブラックベルは指を引き抜いた。

 唾液に濡れた指先に蒼白い炎を纏わせ、フッと息を吹きかければ炎もろとも唾液は消え去り、火傷もしない。

 ブラックベルは床に落ちたコルクを拾って小瓶に栓をし直し、ブラのカップに収めると、いまだ夢心地のスイートアートの頬をパンっとひっぱたいた。

 一瞬で赤く腫れた頬を押さえながら、しかし彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。

「アハァ……! あぁ、痛いわ。すごく痛い。でもこれよこれ。貴女はまるで変わらない」

 心からの賛辞だったが、ブラックベルはそそくさと自分のベッドに腰掛け、手足を組む。そしてどこか遠くを見るような目で頬杖をつき、ぽつりと呟いた。

「──ペイントメイズ・エメラルド・マリカ。つるむ友達はよく選んだ方がいいわ、この女は見ての通り、ろくでもない女よ」

「そうね。でもあたしのような芸術家には、こういう人ほど得難いのだけれど」

 また姿見が波打ち、シルクハットの鍔を押さえて出て来たその姿は、白い薄手のローブを七色の絵の具で汚した、魔道士というより画家のような女だった。ショートヘアの金髪、突き出た胸と静脈が透けた華奢な手指、潤んだ桜色の唇は可憐の一言に尽きる。

 ペイントメイズは帽子を取り、胸元に持ってニコリと微笑んだ。

「こんばんは、ベル。元気そうで何よりね」

「おかげさまで。それで? 称号持ちの魔道士二人、用向きは何かしら?」

 それはスイートアートにも向けられた言葉だが、先にペイントメイズが神妙な顔でこう言った。

「リリーを診て。治してあげて欲しいの」

「治す? ダチュラに頼むべきよ、そういうのは。でも紹介状くらい書いてあげない事もないけど」

「そのダチュラが薬じゃ治せないって言って、ベルを指名したのよ。すっごく嫌そうな顔してたけど、喧嘩でもしてるの?」

 ブラックベルはうつむいて愉快そうに、愛おしそうに笑った。ひとしきり笑い、目頭の涙を小指で拭ってから、

「ダチュラ、それなら呪詛の一つでも唱えればいいのよ。毒薬魔女が毒を吐かないでどうするというの」

「ベル、お願い。治療の対価もダチュラからもらったわ」

 ペイントメイズがシルクハットから取り出したのは、宅配ピザのクーポン券が付いたチラシ── “対価”というにはあまりに所帯染みた代物だったが。

 ブラックベルは羊皮紙のようにそれを受け取った。

 ただ月明かりを反射しているだけのようなブラックベルの闇の瞳がキラキラと輝き、ピザのチラシを掲げ、ぬいぐるみのように抱くまでは微笑ましかったのだが、この後がいけなかった。

 丁寧に折りたたんだチラシをその豊かな胸の谷間に差し込んで黒髪をヘアゴムで結い上げてポニーテールにするや否や、まるで猫のように窓から飛び降りる──と、どこからともなく飛来した竹箒がその尻をすくい上げ、そのまま満月の彼方へと飛び立ってしまった。

「宅配ピザのチラシよね、ただの」

 ペイントメイズは確認めいてつぶやいた。

 残された二人はお互いに顔を見合わせ、肩をすくめるしかなかった。

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