牛と旅する魔王と少女~魔王は少女を王にするために楽しく旅をします~
雪野湯
第一章 全てを失った魔王
第1話 たるんだ魔王
魔王アルラ=アル=スハイルは歴史上最強と
勇者を失った人間の軍は瓦解するとみられたが、魔王アルラは何を血迷ったのか、人間たちへ休戦を申し出る。
余力を残す魔族の軍は不平を抱えながらも魔王に従い、一時休戦。
以降、魔族と人間の間に大規模な戦闘はなく、小競り合いが続く日々。
かつてのような大勢の死はなく、ここに仮初めの平和が訪れた。
それから百年、勇者は不在で魔王の
――とある森の中
暖かな春の日差しが木の葉の隙間を通して降り注ぎ、光と影が交差するモザイク柄の道を浮かび上がらせる。
その道を歩む、農夫の姿をした男。
「はぁ~、君は美しい。ベルベットのように緻密な体毛。誰からも愛されるチャーミングな白と黒の模様。黒くて大きな
歯が迷子になるほど浮いた賛美を唱えて、男は愛牛である
「あ~、温かい。頬を通して君の温もりを感じるよ。春とはいえ、森の中は肌寒いが、君が傍にいてくれるだけで体も心も温まる…………が、このままふらふらと
男は黒目に浮かぶ黄金の瞳を森奥へと向けて、先に続く濃密な樹冠に閉ざされた黒の森を見つめる。
「もはや、私に居場所などない。民に見限られた魔王……フ、フフ、フフフ。だが、それでいいい! 自由を得た! もう、他人のことなど考えなくていい!」
「ぶも~?」
「おっと、君のことはしっかり考えているぞ、貫太郎。君のためにも
「ぶもぶも」
「ああ、わかっている。その前に水や食料などの旅支度が必要だ。なにせ、何も持たず魔都から脱出してしまった。魔都の陥落……まさか、このようなことになろうとは――」
男は魔王としてあった自分の情景を瞳に浮かべる……。
――半月ほど前、魔族側の首都『魔都ティーヴォ』の城中庭
「おお~、さやえんどうがこんなに育って。春キャベツもいい感じだな。そろそろ収穫時かな? やはりお師匠のアドバイスは素晴らしい。肥料の配合が完璧だ」
私は丹精込めて作り上げた野菜たちを優しく手に取り、我が子を撫でるようにそっと触れる。
春の柔らかな日差しの下、今日も一日、
「陛下! 陛下! 魔王アルラ陛下!!」
「なんだ、うるさいぞ立花」
畑前で屈んでいた腰をよっこいしょと上げて後ろを振り返る。
そこに居たのは、頭から緑のローブをすっぽり被り、目だけを光らせている背の低い男。
我が腹心・立花。
こいつはいつもローブを被っているため、本当の姿を知る者はいない。私もまた二百年近い付き合いになるが、ローブの中身を見たことがない。
立花は大仰に泣く真似をして、どうでもいいことを訴えてくる。
「嘆かわしや、陛下。政務軍務をおろそかにして、毎日毎日菜園の世話ばかり。それ以外の時間は横になり、食っちゃ寝の毎日。そのせいでブクブクブクブク太って、あの百年前の凛々しいお姿はどこへお隠れになったのか!?」
立花は魔法で巨大な鏡を生む。
その鏡に映るのは、
上下薄茶色の農作業着に身を包み、その上から緑のジャケットを身に着け、首に白色タオルを巻き、角が飛び出る穴の空いた麦藁帽子を被っている。
私は鏡に近づき、自身の顔をまじまじと見る。
「ふむふむ、頬がぽっちゃりして愛嬌が良いな」
「どこがですか! 脂肪のせいで二重顎になって、腹もタプタプ。高身長と相まって、まるで二足歩行の牛ですよ!」
「そう、怒るな。太るのは仕方がない話だ。私の作物の育て方が上手いのか、はたまた師匠のアドバイスである肥料の配合の賜物か? 野菜が美味しくてついつい食べ過ぎてな。それにしても、野菜でも太るものだな」
「野菜だけじゃないでしょう! 肉にお菓子も毎日召し上がって、そして動かない!」
「いや、毎日、菜園の世話を――」
「運動量とカロリーが見合ってないんですよ! そもそも、自室と中庭を行ったり来たりしてるだけでしょう! まったく、ううう……」
立花は大声を張り上げたかと思いきや、急に涙声を漏らし始める。
「ああ~、魔族だけではなく、人間さえも瞳を止めて心奪われる美。流れる星のように美しい黄金の瞳に、命の輝きを内包した
「立花~、歯の光が反射して月の届くってのはどうかなぁ? すっごい眩しいし、化け物じゃないか。あははは」
「比喩ですよ、比喩! 美のたとえ!!」
「たとえでも今のは……」
「ええ、どうせ私にセンスはありませんよ! そんなことよりも、城外からまた苦情が来てますよ!」
「苦情? なんだそれは?」
「風の強い日に、家畜の匂いが街まで流れてきて臭いという苦情です」
「ああ、それかぁ。対策はしてるつもりなんだけどなぁ」
私は中庭の右隅まで歩き、そこにある鶏さんや牛さんのお
そして、白黒模様が愛らしい愛牛である貫太郎の頭を撫でた。
「この子たちも生きているんだ。多少の匂いは仕方がないだろう。なぁ、貫太郎」
「モ~」
「ほら、貫太郎もそう言っている」
「そう言っている、じゃありません! そもそも、生きるとか仕方がないとかの話じゃないでしょ! なんで街のど真ん中の、しかも城内で家畜を飼っているんですか、って話なんです!」
「他に場所がなかったから」
「ここもそういう場所じゃないんです! 世界一の薔薇園と呼ばれた中庭が今では野菜畑に……もう~、本当に……あなたは、何をやっているんですかぁ~……」
その場で立花はがくりと膝を落として、か細く声を漏らす。
相当、心が参っているようだ。
だが、こいつは我が腹心。放っておくのも忍びない。
「わかった、立花。匂い対策は追加でしっかり考えておく。だから、元気を出せ」
「そうじゃなくて、根本的な話、城内で家畜を飼うのはおかしいでしょ?」
「そう言うな。貫太郎のミルクはとても美味しいだろ。お前だって、美味しいと言ってたじゃないか。貫太郎に罪はない!」
「たしかに、美味しいですし、貫太郎に罪はありません」
「そうだろ!」
「あなたに罪があるんですよ、陛下」
「ええ~……」
「ええ~、じゃありませんよ。大体この問答はすでに九十年以上――ん?」
立花は中庭の出入り口に顔を向けた。
私もそれに釣られて、出入り口へ顔を向かる。
その出入り口から、一人の兵士が息を切らせながら駆け込んできた。
「急報でございます! 人間族に勇者が誕生しました! 奴らはすでに兵を纏め上げ、南方領域に侵入とのことです!」
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