底辺より愛を込めて

@tonkotu_hoborom

底辺より愛を込めて




今日は世間一般で言う“運勢最悪の日”とやらに当たるようで、こんな事になるならずっと家に籠もっていた方が幾分かマシだったかもしれない。


大学の陽キャ軍団に絡まれ、突き飛ばされた先で鳥の糞に被弾し、身なりを整えている間に授業に遅刻。そこで終わればまだ我慢ができたが、遅刻のせいで面倒なゼミの教授に目を付けられてしまい、講義後に明らかに一生徒がやる量ではない仕事を押し付けられて夜まで居残りさせられた。

トドメは転んでスマホを破損ときたのだから、もう駄目だった。


罅の入ったスマホに映る自分の顔が思いの外酷い顔をしていて乾いた笑いが漏れる。


なんだ、底辺の人間に相応しい顔じゃあないか。


ため息混じりに、手の中でもう電源が付くことのないスマホをくるくる回して弄んでいれば、スッと視界の端からカクテルグラスが滑り込んできた。


「随分とお疲れの様ですね。どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


カシスオレンジ。いつも酒を好んで飲むタイプでは無いけれど、好みじゃなくとも今日はアルコールを摂取したい気分だった。

ここの店長さんは、極稀にふらっと現れて酒を一杯だけ注文して帰る奇特な人間の注文を覚えていたらしく、サーブされたグラスの中身はこの店で比較的頼んだ回数が多いもので。

この人めちゃくちゃ記憶力いいなあ、なんて場違いな感想を抱いてグラスをほんの一口だけ煽った。こういう界隈では必須スキルなんだろうか。どうだろうな。

ぼんやりとオレンジのみで構成されたグラデーションを透明な器越しに観察する。

自分は決して酒が強いとは言えない。むしろ弱い。早くも軽めの酔いが回ってきたのか、小指の先程ではあるが頭の中の枷が外れかけてきた気がする。

そのせいか、なんだか唐突にむしゃくしゃとした気持ちが蘇ってきて、残りの酒を一気に飲み干し立ち上がった。

十パーセント未満とはいえアルコールはアルコール。ましてや超のつくほど酒に弱い人間がそこそこ大きめのグラスを一気飲みすれば、軽微であれど異常が出るのは当然である。

急速に脳へと回るアルコールにたたらを踏んで、膝をつく寸前で体勢を立て直した。


ガッタン!!


「おや、大丈夫ですか」


体勢を崩した際に椅子を倒してしまったらしく、かなり派手な音が店内に響いた。店にいた客の大半が眉をひそめて音の発生源を振り返り、また元の雑談に興じていく。

たとえ一瞬だけであっても人間からの視線を集めてしまったことが不快で不快で仕方がなかった。


「ありがとう、ございました」


心配してくれた店長に代金を渡して足早にその場を去る。囁き声程度の音量が聞こえていればいいなと思った。

 

春と夏の境目、まだまだ蒸し暑いと表現するには程遠い夜の路地を歩く。


ひどく、惨めな気分だ。


じりじりと内側を炙られているような、誰かの胸倉を掴んで喚き散らしたいような、何かを叩き潰したいような、縋って咽び泣きたいような──。

吸ったことは片手で収まるぐらいしかないが、懐からどうしようもなくなった時のお守り代わりに持っている、ピアニッシモと百円ライターを取り出して火を付けた。


こんな衝動を、叩きつける先を知っている。


マンションのエレベーターを二階分上がって、手前から数えて三部屋目。そこが現在の私の住居。

鍵を開けてノブを回す。ああいう風に躾たのは私なんだから、今日も確実にいるだろう。

内鍵までしっかり閉めてから、わざと居場所を知らせるように足音を立てて目的の部屋まで向かう。


一度ドアの前で止まって、一呼吸分の間を与えた後に勢いよくドアを開け放った。


「鳴さん、ただ~いまぁ」


扉の先には、怯えた様子が隠しきれない人間が一人。ドアを開けたことで、真っ暗な部屋に差し込む照明が、中に居る人間の輪郭を照らし出す。

裸足の足先、少し皺の寄ったネイビーブルーのジーパン、黒の長袖パーカー。光がさらさらな射干玉の短髪を照らしたところで、私は部屋の中に歩を進めた。


ベッドの上でうずくまっていた中性的な容貌の人間──鳴さんは、余程驚いたのか鼈甲の瞳を目一杯見開いて、口をぱくぱくと金魚のように開閉させていた。これを眺めているだけで十分楽しいのだが、甘やかしてはいけない。

挨拶はきちんとしてもらわなくては。


「鳴さん、おかえりは?」


「え?」


「おかえり、は?」


「っあ、お、おかえりなさぁーい!!」


圧を強めてもう一度問えば、直ぐに返事が帰ってくる。

必死に取り繕っているのがバレバレな声に思わず腹を抱えて笑い出しそうになるが、グッとこらえて微笑むだけに留めた私を誰かほめてほしい。

最もそれすら恐怖の対象になっていたようで、ひ、と軽く悲鳴を上げられてしまったが。

何はともあれ挨拶がきちんとできたのは良いことだ。私は偉い子にはちゃんとご褒美をあげられるタイプなので、目一杯誉めることにした。


「よしよし、鳴さんはいい子ですねえ」


畜生だとかその辺の愛玩動物にするように、頭をもみくちゃに撫で回す。

えらいえらい。手が触れる一瞬、強張った体をすぐに弛緩させるように努めていたのもポイントが高い。


「今日も、するんですか」


頭をがくがく揺らされて、されるがままになっていた鳴さんが、唐突に問いかけてきた。


「しますとも。実は今日するんですよ、これがぁ」


「環さん」


今日初めて私の名前を呼んだ鳴さんは、何かを決意したようにこちらを見上げている。

この部屋に来るようになってからどこか濁っていた瞳の中に、ちらちらと光が戻り始めていた。

何だろうな、つまらんことを言い出さなければいいけど。


「もう、止めませんか」


「今日の話です? 諦めた方がいいと思いますよ」


「そうじゃなくて」


「はい」


「もう、こういうのやめませ、ん、か……」


最後になるにつれ段々と尻すぼみになっていったのは私の顔のせいだろう。

能面のような表情をしている自覚はあったし、事実鳴さんの瞳に映る私の顔は、昨日のテレビで特集していた能面そっくりだった。


「ぁ、の」


「はい」


安心させるようににっこり微笑む。目指せアルカイックスマイル、今こそ表情筋をフル活用するときだ。

そんな努力の甲斐あってか、鳴さんは消え入りそうな声でなんでもないです、と自分の発言を撤回した。

それに気をよくした私は、ベッドサイドの引き出しを漁る。今日は何にしようか、あっちもこっちも捨てがたい。少し悩んで、お目当てのそれを手に取った後、鳴さんに向き直った。


「はぁーい。じゃあね、今日はこれにしましょうか」


俯く鳴さんにいつものカッターを差し出す。声に反応して、のろのろと緩慢な動作で顔を上げた鳴さんの瞳には、もう先程の光はなかった。


「自分でできますよね?」


いつもなら大体私がやってあげているのだけれど、口答えをしたのだから当然自分でさせる。

お仕置き、躾、呼び方は何だっていい。特に悪いことをしていなくても気分でさせているが、とりあえず罰としての体裁が取れていればそれで良いのだ。


「……はい」


カッターを受け取った鳴さんが、スライダーを震える指で押し上げる。

チキチキ、チキ、チキチキ。何度も何度も音が途切れて、刃が進んだり戻ったりを繰り返す。

その度にわざとらしく溜息をついてやれば、鳴さんは肩を跳ねさせてスライダーをメモリ一つ分動かした。

そうして、たっぷりと時間をかけ、ようやく必要な分だけ刃が出切った。

たかがカッターナイフの刃一つを出すのに、一体どれだけ時間をかけるのか。この分のお仕置きも別に考えなければ、と思案していたところで、鳴さんが肘までパーカーの袖をめくった。


ああ、ようやく始めるのか。


ろくに日に当たっていなさそうな青白い肌に、ずぷりとカッターの刃が吸い込まれていく。


「ぁ、ぐ」


にちゅ、にぢっ。


鳴さんは肉に食い込んだ刃をゆっくりと横に引いた。生気のない白肌と、肉の合間で鈍く光る刃の銀と、新しくできた真っ赤な一文字のコントラストが目に眩しい。


うん、上出来。


傷口から瞬く間に溢れ出す鮮血に私が目を細めたことで、不満があったと勘違いしたのか、あ、とか細い声を漏らした鳴さんは別の場所へとカッターをあてがう。

今度はさっきの場所より十数ミリ下。


にゅぷぷ、と粘着質な音を響かせて肉に再び銀の刃が沈んだ。


「ん、じょーずですねえ」


「っう、ふぅ"……っ」


えらいね、上手だね。鳴さんが手首を裂いて苦痛に呻く都度、小さい子にするように言葉を投げかけた。綺麗だよ。頑張って。

唐突に赤に塗れた腕へ水滴が落ちる。目で落ちた先を辿って、目の前の鳴さんがしゃくり上げていることに気付いた。


鳴さんが泣いている。


「……ん?」


私にはどうして鳴さんが泣いているのか分からなくて、取り合えず泣き止ませようと、最近流行っていた笑える漫画のセリフを真似してみる。


「わ、泣いちゃった!」


それでも腕に滴り落ちる雫は止まる気配がなくて、少し困ってしまった。


「うーん、どうかしました?」


腕が痛くて生理的な涙が出ている訳ではなさそう、目にゴミが入った訳でも空気が乾燥している訳でもない。三十秒ほど考えて、頭の中から探し当てた答えに冷笑した。


──ああ、もしかして。


「本当に止めてほしいの?」


鳴さんは勢いよく顔を上げた。止めてくれるのか、という希望に満ちた意思の光が瞳の奥に瞬いている。口に出さずとも痛いほど伝わってくるそれに、心の温度が南極圏並みに下がった気がした。


「うん、うんっ! ほんとにもう止めてほしくて、っそれで」


「けーいご」


話を遮って一言咎める。人にお願いする時は、敬語を使うのが礼儀だろう。

柔らかいトーンで言ったにも関わらず、途端にぴったりと口を閉じたのは、散々躾けた成果の賜物だ。

視線だけで続きを促せば、餌を貰うのに必死な愛玩動物のようだった勢いは、もうどこかへと消えてしまっていた。


「ぁ、やめて、ほしくて」


「それさっき聞いたよ」


「……っ」


とうとう黙りこくってしまった鳴さんの背中にそっと手を添える。端から見たら自暴自棄になってしまった友人に寄り添う、心根の優しい人間に見えることだろう。

まあ、実際にリスカを強要しているのは私の方なのだけれども。

不規則に震える黒パーカーを見下ろして優しく語り掛ける。

 

「おかしいね」


──最初に始めたのは鳴さんなのにね。


サア、と鳴さんの顔から血の気が引く。元々血を流していたから血色は良くなかったけれど、今は更に顔色が悪くなって、まるで紙のようだ。


「大学でいつも一人だった私は、声をかけやすかったんですよね」


暗くて、誰にも振り向いてもらえなくて、陰キャそのものでカースト最底辺のゴミ。何でも言うことを聞いてくれて、自分にのぼせ上がってくれそう。

──何かあっても人に言える勇気すらなさそう。


そんな、自分に都合のいいお人形を探してたんですよね。


「だから、私に自傷行為の手伝いを頼んだんでしょう?」


鳴さんはぐ、と唇を嚙み締めた。


「鳴さん、痛いの大好きなメンヘラですもんね」


自分より下に見ていた相手に、尊厳を踏みにじるレベルのことをさせられている気分というのは、どんなものだろうか。

生憎私はメンヘラでもマゾヒストでもないので、鳴さんの気持ちを理解してやることはできない。


「あは、私に声かけなきゃよかったなって思ってます?」


鳴さんはただ、運が悪かった。

声をかけた相手がたまたま、誰かを自分と同じ底辺まで引きずり下ろしたい願望と、嗜虐思考を併せ持っていただけで。……覆水盆に返らず、とはよく言ったものだ。


血が少し乾いてきたリスカ痕に爪を立ててやる。


「きもちいね」


もう、拒絶がくることはなかった。


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