わが斗争
C'est la vie
わが斗争
1985年の秋の日は、すでに没しようとしていた。プラットホームを寒い風が撫でる。まだ灯りが点かず、薄暗いホーム上には私と一人の男しかいなかった。30代半ばらしい、グレーのヤッケを着て茶色の靴を履いた、こざっぱりとした身なりの男だ。他にも人はいたかもしれないが、とにかく私の周りには彼しかいなかった。
その男は私が来る前からホームに立っていた。あてもなく、ただ待っているだけのようだった。座ればいいのに。そう思うと、彼はおもむろに振り向いた。私が来たことに気づいてなかったのか、ちょっと驚いたような顔をする。そしておもむろに、私の隣へとベンチに腰掛けた。
「あんた、若いね。大学生だろう?」
「ええ、そうですが」
「旅行かい?」
「いや、実家がこっちの方にあるので少し帰っていたのです。今日東京に戻るんです」
「そうか、そうか。それじゃあ、ちょっと暇つぶしだと思って僕の身の上話を聞いてくれないかい」
どうせ列車が来るまでは時間がある。私は読んでいた小説を置いて、彼に耳を貸すことにした。男は妙になれなれしく、驚くべきことを語り出した。
まずね、最初に告白しておこう。僕は人を殺している。しかし逮捕されてないし、なんなら世間はそれを無かったことにしているのだ。ウソじゃない。ホントの事だよ。
まあまあ、まずはお聞きなさい。お兄さん、全共闘って知ってるかいね。え、知らない。そうかい、そうだよな。だって、今はどの学校にもそんなもの無いもんな。そんじゃあ、そっから話してやろう。昔はな、血の気の多い奴がたくさんいてな。学校のやることが気に入らないってえと学長の所に詰めかけたりして抗議するわけだ。それがだんだん大きくなるとまとめる奴が要る。それでな、全学共闘会議ってな。全共闘ができたんだよ。まあ見ての通り、自分たちのために学校と戦う奴らの集まりだ。だがな、そこに新左翼が入ってくる。お兄さん、中核派とか赤軍とかってのは聞いたことがあるだろう。そういう奴らがな、学内の問題にとどまらない、もっと大きい騒ぎを起こすようになるんだよ………。
僕が某大の全共闘に入ったのはそのころだったね。そん時はまだあんたぐらいの年だったろう。その頃の僕は、まあ熱血って言うんだろうね。とにかく間違ったことがあると許しておけないタチだった。さっき言ったような“セクト”には入らなかったけど同じようにヘルメットを被ってな、ゲバ棒って分かるかい。ゲバルト棒って言ってね、6尺ぐらいの角材か鉄パイプを持ってな、これで警官とか意見が違う学生とかと戦うんだ。あの頃の僕は馬鹿だったね。いつも先頭に立ってゲバ棒を振り回してた。逮捕されたこともあったよ。不起訴になってすぐ釈放されたけどね。
そのうち世間じゃ成田空港が工事にかかったってんで反対派が元気にしてた。団結小屋って言ってね、建設予定地に城みたいな小屋を建てとくんだ。警察や空港公団の連中が手出しできんようにね。でもそれじゃ建設が進まないので警察が城攻めをする。中核派とか、
真夜中に国鉄の成田駅で降りて、そこから空港に向かうんだ。降りたらもう警察が駅で待ち構えてるんだ。降りてくる活動家を一人ひとり調べて、ゲバ棒とか火炎瓶を持ってたらその場で捕まえてしまうんだよ。もちろんみんなそういったものを持って行って捕まるようなことはしなかった。事前に空港の周りに隠してあったからね。素手で降りて、検問を素知らぬ顔で通って現地で武装すればいい。でも何人か、「不当だ」と言うんで警官に突っかかる奴がいた。そしたら警官に押さえられてしまったんだ。そしたら他の連中から「不当逮捕だ」と野次が上がる。ちょっとピリピリした空気になったよ。それで分かったんだ。ああ、“戦場”に来たんだなって。
それから空港の近くまで歩いた。全部交番とか交通取り締まりとかで勤めてるものだと思うけど途中でもぽつぽつ制服警官を見かけたよ。さすがに手出ししてこなかったけどね。夜通し歩いて、空がうっすら白ばんできた頃に集合地点に着いた。そこでヘルメットとか、ゲバ棒とか、火炎瓶とか、武器を受け取ったんだ。白い工事用のヘルメットだよ。街灯も何も無いからだんだん日が昇ってくる薄明かりの中で、黒いマッキーで「全共闘」と大きく書いたんだ。これで敵味方を見分けるんだよ。それでスローガンも書いた。「空港建設反対」とかね。ともかくそれで戦装束を整えて、出発を待つばかりだ。
そしたら部隊長が出発前にアジを打った。アジってのはアジテーションってな、演説して学生を煽るんだ。調子のいいこと、勇ましいこと、スローガンを言って部隊を煽り立てるんだ。部隊長は中核派だった。そいつが甲高い声を張り上げて叫んだんだ。「警官を殺せ!国家権力の走狗たる機動隊をせん滅せよ!」ってね。部隊が全員鬨の声を上げて応えるんだ。今思えばみんな狂ってたよ。警官を殺しちまおうなんて、堂々と言ってたんだからね。それから出発したんだ。先に現地で活動していた学生の案内で山の中を歩いて行くんだ。道に出ると警察に見つかるから。そうやって進んでいくと、十字路に突き当たった。そこに機動隊の車が見えた。神奈川県警だったかな。遠くから来たもんだ。それで、機動隊は林の中を探し回ってて散り散りになっていたんだ。今しかない、って思ったね。部隊長と何人かで話し合って部隊を二つに分けて挟み撃ちすることにした。案内役が別動隊で後ろに回って、こっちの本隊と一緒に機動隊を攻めるんだ。僕は本隊の方に残った。で、別動隊が行ったと思ったら入れ替わりに警官がひょっこり顔を出した。どっちもびっくりしただろうね。こっちもまさかこんなすぐに見つかるとは思わなかったし向こうも藪の裏を覗いたら3,400人の大部隊が居るとは思わないだろう。しかし先手を取ったのはこっちだった。ブントの学生がとっさに火炎瓶を投げつけたんだ。普通火炎瓶はサイダー瓶で作るんだがこの時は酒の一升瓶で作ってあった。大きいから威力があるんだよ。木より高く火柱が上がったんだ。その警官はあっという間に火だるまだよ。そして部隊長が叫んだ。「突撃ー!」ってね。あとはもう滅茶苦茶に機動隊に飛び込んでいくんだ。作戦なんかありゃしない。でもこれが上手くいってね、我々が機動隊を引き付けておいたから別動隊は相手が油断してる背中から攻められたんだ。機動隊は挟み撃ちになってもう滅茶苦茶に崩れてしまった。あちらこちらで警官が活動家に囲まれて袋叩きにされて、それで火炎瓶で焼かれてるんだ。それで警官はみんなバラバラになって逃げ出した。
こっちも走って追いかけたよ。僕も警官を追いかけているうちに藪の中に入って行って、気づいたら仲間とはぐれていた。でも、その警官に何とか追いつけたんだ。その警官はもうすっかり機動隊の装備を脱ぎ捨てて、ヘルメットと出動服だけで逃げていた。でも身体が痛くて動かないんだろうね。這う這うの体で逃げてて、僕のようなぼんくら学生でも追いつけた。それで、後ろからゲバ棒で思い切り頭を殴りつけたんだ。そしたらちょうど、出発前のアジを思い出した。「警官は殺せ」ってね。僕はその時4尺ぐらいの、短めの水道管を持っていた。ちょっと頑丈な鉄パイプだよね。ちっとやそっとじゃ折れない、ゲバ棒としては重宝するものだった。短いから遠くに届かないけど振り回しやすいんだ。それで、警官をとにかく滅多打ちにした。これでもかと言うくらい殴りつけた。まるで親の
さすがにずっと鉄パイプを振り回してたから僕も疲れてた。それでその警官のわきにどかっと座った。あの様子はよく覚えてるよ。警官は僕に背中を向けて、左手を下にして横向きに倒れていた。左足は畳まれていて、右足は最期に
まあまあだんだん話すから。僕はね、警官の身体をまたいで反対側に回った。それで顔の前でかがみこんで、覗き込んでみたんだ。割れたヘルメットがかぶさってて良く見えなかったから右手でそれをどかした。そしたらね、その下からね、僕の顔が出てきたんだ………。思わずびっくりして後ろに下がったよ。なんたって、その警官の顔は僕とうり二つだったんだ。僕と同じ顔が、血と泥にべったり汚れて、目を見開いて、魚のような瞳で、死んでいるんだ。そしたらね、なんだかだんだんその警官が僕のことをじっと見つめているような気がしたんだ。僕は恐ろしくなって走って逃げだした。ヘルメットも、ゲバ棒も全部捨てて。思えばあの時、僕は僕という人間を自分の手で、社会的に、あるいは精神的に殺してしまったんだろう。
それから、僕は学生運動をやめた。怖くなったんだよ。ヘルメットをかぶると、あるいはゲバ棒を握ると、あの警官が思い出されるんだ。あの警官の内臓や骨を潰す、いやな感触も思い出されるんだ。このまま運動を続けていたら僕はおかしくなってしまう。それで僕はそれっきり運動から足を洗うことにした。仲間たちからはだいぶ責められたけど僕は運動に戻ることは無かった。こうして、僕は闘争から逃げたんだ。
それからは逮捕に怯えながら過ごしてた。いつ警察が僕を殺人罪で引っ張って行くか分からない。いつでもどこでもびくびくしていて、警官をみるともう心臓が止まりそうだった。通りがかった人が私服警官なんじゃないかと気が気でなかった。アパートの周りに私服警官らしい奴が出るってんで引越したことも何回もあった。今思えば全部勘違いなんだろうけどね。そんな具合で、僕は警察からも逃げ続けていた。しかしそれは実際のところ杞憂だったんだ。僕は疑心暗鬼になりすぎていたんだよ。だって、どの新聞を見てもあの警官のことが出たのは一度も無かったんだから。
不思議なことに新聞も、テレビも、ラジオも、みんなあの警官のことを報じなかった。三里塚では何人か警官が死んでいるんだけどその中にはあの警官らしいのはいなかった。いくら調べても僕が殴り殺したあの警官のことはわからないんだ。まだ遺体が見つかってないんじゃないかと思って空港が完成した後に一度あの場所に行ってみた。見つけるのにかなり苦労したけど、僕が捨てたヘルメットもゲバ棒もまだ残ってた。でもね、あの藪の奥の、警官を殺した場所だけはいくら探しても見つからないんだ。あのことは現実だったのかどうかさえ疑わしいぐらいだ。でも僕は確かに現実だったと思ってる。僕のこの手が、あの警官を叩き殺した感触を、今もはっきりと覚えてるんだから。
いつしか僕は大学を卒業して、社会に出た。まだ警察に怯えてはいたけど、仕事にもついた。でもその頃からあの警官が夢に出るようになったんだ。割れたヘルメットを被ったあの警官が、夢に出て僕をじっと凝視するんだ。あの魚のような濁った目で、顔は血と泥に塗れて、無表情なままでだよ。何故かその目が僕を責めているように見えた。何故かは分からないけど確かに彼は僕を責める目で見ていた。彼はだんだんよく夢に出るようになって、僕は眠れなくなっていった。とうとう僕はノイローゼになってしまったんだ。日中、起きていてさえあの警官が僕を見つめているような気がするのだ。僕は必死に彼から逃れようとした。睡眠薬を飲んだ。酒を飲んだ。住むところを変えた。大きな声では言われないがクスリをやったことさえある。それでも警官は僕についてきて離れないんだ。まるで逃げることを許さないかのようにね。とうとう、僕は仕事を辞めた。世間から逃げたんだ。
その時、急にホームが騒がしくなった。群衆の足音が聞こえ、合唱の声が響いた。僕と男の座るベンチの前を、白いヘルメットを被った隊伍が高らかに歌いながら歩いていく。手に折れた角材やへこんだ鉄パイプを持った者さえ混じった集団がかぶるヘルメットには、蛍光灯の灯りに照らし出されて“中核”の文字が黒く光っていた。いつの間にか空は真っ暗になり、ホーム上には明かりが灯っている。あかあかと照らし出された駅名標には“なりた”の三字がはっきり読み取れた。ここは国鉄成田駅。活動家たちの足跡がくっきり刻み込まれた地だ。今日は10.20成田闘争の当日である。今ホームを闊歩している隊伍は闘争を終えて撤収する中核派の部隊だろう。
聞け 我らが雄叫び 天地
革命歌を歌い上げながら歩く集団を、男は懐かしそうに見ていた。全共闘に加わっていた時のことを思い出しているのだろうか。あの警官と出会う前のことを。
「まもなく列車がまいります。危険ですから白線の内側に下がってお待ちください」
駅員が列車の接近を告げた。遠くからかすかに電車の走る音が聞こえる。すると男がおもむろに立ち上がる。
「あなた、若い頃の僕によく似てますよ。さっき見た時、あの警官かと思ってぎょっとしたんです。でも今は彼に見られていないようだ」
男は線路の方へと踏み出した。
「さて、僕はもういかなきゃいけません。もう逃げてばかりじゃいられませんから」
男はホーム上を進む中核派の列を横切った。黒ヤッケに白ヘルの活動家の向こうにその姿を消す。しかしバラバラと歩く活動家の足の向こうに茶色い靴を履いた足が見えていた。電車がかなり近づいてきたようで、レールを伝わった電車の音が聞こえて来る。突如、ホームを黄色い電球の光が照らした。電車の前照灯だ。次の瞬間、私の見ている目の前で、茶色の靴が白線をまたいだ。
わが斗争 C'est la vie @intercity125
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