第17話台本読み


 一瞬目の前が暗くなった。再び明るくなった時、わたくしはまた和華の部屋のベッドの上だった。


 時刻は朝の7時。またこの世界に戻ってきてしまったのね。


 向こうでは丸1日が経っていたけれど、まさかこちらの世界でもわたくしは丸一日寝たままだったのだろうか? 


 スマホを見てみると日付は翌日になっている。今日は藤本先輩と台本読みの約束をしている日。という事は向こうの世界では1日分でもこちらではいつも通りの時間しか経過していないという事になる。


 どうして1日だけ向こうの世界に戻れたのかしら? 何がきっかけで? またひとつ分からないことが増えてしまったわ。

 


 向こうの世界で自分の体に戻ると居なかった間の記憶が流れ込んで来た。そこで見たライオネル様の姿はわたくしが知っている物とは少し違っていた。


 昨日馬に乗せてくれたのもきっとわたくしを慰めるためでしょう。あんな風に優しいライオネル様は初めてだわ。そしてライオネル様はあの時、なんて言おうとしていたのかしら・・。




 リビングに入って行くと母親がキッチンから出てきた。「あら、おはよう和華。いつもより早いわね。あっ、お腹空いて目が覚めたんでしょ? コーヒーが入っているからキッチンで飲みましょ」


 キッチンのダイニングテーブルに向かい合って腰かけた母は自分にはブラックコーヒー、わたくしにはミルクを入れてコーヒーをカップに注いだ。


「今日は藤本君と一緒に演技の練習をするんでしょう? 楽しみね」


 コーヒーを手に母はこれから自分がデートに行くかのようにウキウキしている。和華が藤本先輩に好意があると知っているのかもしれない。


「少し‥緊張しています」

「そうよね。でも楽しんでらっしゃい、オーディションなんか気にしないで藤本君との時間を楽しめばいいのよ。きっと立派になったんでしょうねえ。背丈なんか子供の頃はあんたと変わらない位しかなかったのに。そうだ、今度うちに連れてきたら?」


 それはどうだろうか。康兄さまや智兄さまはどんな反応を示すだろう? 


「お母さんも久しぶりに藤本先輩に会いたいのね。今度先輩に聞いてみます」わたくしはそう言って、大学に行く支度を始めた。



________




 3限目の講義を受ければ今日の授業は終わり。後は演劇サークルの部室に行って藤本先輩を待つだけだ。部室に入ると衣装部の女子2人と男子が1人、黙々と衣装を作っていた。


「おはようございます」

「おはよう、岸田さん。今日は藤本君と台本の読み合わせだよね?」

「はい」

「じゃそっちの椅子使って」


 衣装部の宮田さんが指した方向には小さいテーブルと椅子が2脚、窓際に置かれていた。

 わたくしが椅子に座って台本をカバンから出してテーブルに置いた時、藤本先輩が部室に入って来た。


「おはようございます」

「藤本君おはよう~岸田さん、来てるよ」


 藤本先輩は窓際のわたくしを認めると笑顔で言った。「待たせちゃったかな?」


「いえ、私も今来たところです」

「今日はこの後取る予定だった講義が中止になったから時間に余裕が出来たよ。頑張ろうね」

「はい、ありがとうございます」


 オーディションではキャピュレット家の舞踏会に忍び込んだロミオがジュリエットと出会うシーンが使われる。小説を読んで分かったのだがこの場面にはキスシーンがある。


 まさかオーデョションでキスしなくてはいけないのだろうか。わたくしは殿方とキスしたことがないというのに。


「あの、藤本先輩。オーディションで使う部分はジュリエットとロミオが舞踏会で初めて出会うシーンでしたよね?」

「うん、そうだね。何か分からない事でもあったかい?」


「いえ、その・・」

「あっ、キスシーンは無いから安心して。その手前までだから。俺が演じるロミオとの相性を見るのと演技のテストだから」


 藤本先輩は感がいい人だわ。それにとても優しい。誰にでも分け隔てなく優しいその姿はゴードン様と重なるものがある。



 何度か座って台本読みをした後、動作を付けて実際に演技してみるという流れになった。


 衣装部の人達は台本読みの間はわたくし達の邪魔にならないように気を使って黙々と仕事をしていた。だがわたくしと藤本先輩が立って演技を始めると手を止めてわたくし達を注視した。


 短いシーンだが、何度かやり終えると今までじっと見ていた衣装部の人達が拍手してくれた。


「ありがとうございます。何か・・おかしな所はありませんでしたか?」

「いやぁ正直、岸田さんがここまで出来ると思わたなかったよ。ハンドキスも‥なんというか、され慣れてる? みたいに見えてさ」


 ハンドキス。舞踏会での挨拶やダンスの時には欠かせない。そうね、わたくしは慣れているわ。向こうの世界の貴族令嬢ならみなそうでしょうけど。


「これなら舞踏会のダンスも問題なさそうだね」

「岸田さん、夏休みの間によほど頑張ったのね。立ち居振る舞いがホントに貴族令嬢みたいだわ」


 そうか、舞踏会だから当然ダンスもあるのね。でもどうかしら、向こうの世界で見た和華は全くダンスがダメだったわ。もしかしたらわたくしもこの和華の体をうまく動かせないかもしれない。


 衣装部の方達に手放しで褒められた事で今日の稽古は終了となった。気づけば2時間が経っていたのだ。


「岸田さん、この後はまっすぐ帰宅?」台本を片付けながら先輩が聞いて来た。

「はい。特に用事はありませんから」


「明日は休みだし、せっかくだからお茶でもして帰ろうか。小腹空かない?」

「はい、是非」


 『コバラ』が何の事か一瞬分からなかったが、お茶をするということはお腹が空かないか聞いて来たのだろう。先輩とわたくしは大学の近くにあるお洒落なカフェに立ち寄った。


 藤本先輩は同じ学科だけでなく大学中でも有名なのか、カフェに居た女性の視線が先輩に集まるのが分かった。


 ゴードン様もそうだったわね。アカデミーの女子生徒がゴードン様を振り返って見るのがわたくしは嫌で仕方なかったわ。


 女子生徒に挨拶されるとゴードン様はにこやかに挨拶を返されていた。わたくしが傍に居る時はわたくしだけを見て欲しかったのに。


 でも考えてみれば、ゴードン様は次期国王になられる方だわ。どんな時もみんなに平等に挨拶するのは当然の事かもしれない。そんな事も出来ない様では立派な国王にはなれないわね。わたくしはそれに思い至らず独りで気分を害していたんだわ。


「岸田さん、大丈夫?」

「あ、はい。すみません、つい考え事を」

「大丈夫、さっきの演技はとても良かったよ。で、何を頼むか決まったかい?」


 何を頼みましょう? メニューには写真付きで美味しそうなデザートが沢山並んでいる。好きな物を頼んでいいなんて、今までずっと厳しい食事制限をしてきたわたくしには夢のような話だわ。


 和華は少しくらい太っても気にしないかしら・・。


「どう致しましょう。どれも美味しそうで迷いますわ」

「どれを迷ってるの?」


「この3種のベリーのクレープとチーズケーキのセット。それとカフェお勧めのプリンと梨のシャーベットのセットを迷っています」


「じゃあ俺はこっちのプリンを頼むよ。岸田さんはクレープを頼んでシェアするのはどう?」

「まあ、分け合うのですね! ではそうさせて頂きますわ」


 いけない。意識がデザート選びに向かったせいで言葉遣いが元に戻ってしまっていたわ。でも先輩は気づいていないみたいね。


 運ばれてきたデザートは写真通りにとても美味しそうだ。これを全部食べていいなんて!


「岸田さん、ほんとに美味しそうに食べるね。このプリンも食べてみて、そのスプーンでいいよ」


 藤本先輩はほとんど手を付けていないデザートのプレートをこちらに押して寄こした。わたくしはちょっと躊躇ったが、先輩の好意を素直に受けることにした。以前のわたくしなら絶対に断っていたでしょうね。


「カフェお勧めだけのことはありますわ! とても美味しい!」

「岸田さん、昔は甘い物が苦手だったのにね」


 危うくわたくしはチーズケーキを喉に詰まらせそうになった。そうだ、和華は食いしん坊だけれど甘い物は好き好んで口にしてはいなかった。


「そ、その・・最近疲れているのか甘い物が美味しく感じるみたいなんですの」


「うん、体が要求しているものは沢山食べた方がいいよ」


 藤本先輩はそう言ったが、顔は笑っていない。わたくしは何か気に障る事でも言ってしまったかしら。でもそう感じたのはこの時だけで、以降は元の優しい笑顔に戻った。

 


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