第2話 喪失

走って、走って。ただひたすらに、走る。この世界で一番大きかった「運命の塔」は、もう跡形もない。吐き出す息と共に漏れる赤は、もう止まりそうになかった。

 

 今から数時間前。俺は──につけられた足枷を外した。ガチャンと鈍い音を立てて、呆気なく外れたそれに──は笑みを浮かべる。

「ずっと、重かったの。足って、こんなに軽かったのね」

「これ。外に出るなら、必要だから持ってきたんだ。履いてみて」

 ──のために持ってきたのは、新しい靴だ。これから長い旅をするために、必ず必要なもの。サイズが合うか心配だったが、大丈夫そうだ。

「ありがとう、ジャック。ふふ、かわいい色ね。前にくれた花と、同じ色だわ」

 ──はその場でくるりと一回転する。気に入ってくれて良かった。

 一緒に階段を降りて、塔の一番下まで辿り着く。目の前には塔の壁。ここを、今から俺の力で扉をこじ開ける。

「じゃあ、準備はいい?」

 ──の顔を見る。緊張した様子だけど、そこには今から訪れる日々への期待も滲み出ている。──がうなづいたのを確認して、壁に手をつく。いつものように開けた扉の向こう。──と一緒に見る、最初の景色。

 繋いだ手を離さないように──と扉をくぐる。地面に降り立った──は、感動した様子で、息を吸い込んだ。

「これが、外の空気なのね。いろんな匂いがするわ」

 一歩、また一歩と。塔から離れ、外の世界に触れていく。手を伸ばして、くるくると回ってみたり、しゃがんで地面を触ってみたり。

「見て、ジャック!こんなに腕を伸ばしても、どこにも壁がないわ!地面も、とっても柔らかいの!外って、世界ってこんなに広いのね!」

 その言葉に、彼女がどれだけ世界から閉ざされていたか思い知らされる。俺が当たり前に触れていたものも、彼女にとっては初めて出会うものなんだ。

「これから、もっといろんなものに出会っていこう」

「ええ、ええ!とっても楽しみだわ。ふふ、あのね」

 俺の両方の手をとって──は笑う。

「今、すごく幸せなの。ありがとう、ジャック」

 今まで見たことがないほど、幸せな笑顔の──。

 その時だった。「運命の塔」が、突然音を立てて崩れたのは。

 

「──、──!大丈夫⁉︎」

 突然崩れ出した「運命の塔」。間一髪で──を抱えて、崩壊に巻き込まれない場所まで逃げた。突然のことに、俺も──も呆然としている。この世界で一番高い建物だった「運命の塔」。それが、一瞬にして瓦礫の山になった。

「私が、私が外に出たから。塔が、崩れた?」

 元々、この塔はカミサマの生贄のためにある。その生贄がいなくなることは、本来塔の役割が終わる時。必要がなくなると、勝手に崩れるシステムになっていても、なんらおかしくはなかった。

「──、怪我はない?」

「え、ええ。ジャックが守ってくれたから、大丈夫」

 特に痛がっている様子もないので、真実だろう。ひとまず安心した。

「早く、ここから離れよう」

 塔が崩れたのは、遠くからでも一目で分かる。このままここにいたら、誰かに見つかってしまうだろう。

「走れる?」

「う、うん。やってみる」

 ──の手を引いて、森を走る。──が転けない程度のスピード。どうか、誰も会いませんように。そう願いながら走ったけれど。

「おい、いたぞ!」

 見つかるのは、時間の問題だった。塔が崩れたことに気づいた大人たちが──の方を見る。

「ジャック!カミサマを連れて逃げる気か!」

「──、こっち!」

 ──の手を引いて、別の方向に走る。大人たちの怒声が増えていく。逃げ道も、それに比例して少なくなっていく。

 大人たちの手には、武器が見えた。あれがもし──に向けられたら。考えたくもない。

 もうすぐ、森を抜ける。その先の海に、船を用意してある。あれに乗れさえすれば、逃げ切れるはずだ。

 息を切らして走る──は、辛そうな様子だ。初めて出た外で、急に走る羽目になっているのだ。苦しくて当然だ。

「──、もうちょっと頑張れる?」

 俺の言葉にうなづく──の後ろに、銃を構えた大人が見えて。銃声が響いた。


 走って、走って。ただひたすらに、走る。この世界で一番大きかった「運命の塔」は、もう跡形もない。吐き出す息と共に漏れる赤は、もう止まりそうになかった。ようやく辿り着いた海辺。大きな岩に寄りかかるように座って。意識を保つのが精一杯だ。

 撃たれたのは、俺の方だった。カミサマを傷つけるわけにはいかなかったのだろう。そこに、少しだけ安心する。投げたナイフが、間に合っていれば。悔やんでももう仕方がない。

「ジャック、ジャック!こんなに、こんなに血が」

 ボロボロ泣きながら──は必死に流れる血を止めようとしている。さっきの大人は殺したけれど、すぐに他の人が来るだろう。せめて、せめて。──だけでも、ここから逃さなきゃ。

「──、よく聞いて。この先の岩場に、船を隠してある。それに乗って、遠くに。遠くに逃げて」

「嫌、嫌よ!一緒に、一緒に生きていくってて、そう言ったじゃない……!」

 ──は、その場を動こうとしない。必死に、俺の血を止めようとしている。そんなことをしたって、どうしようもないのに。

 雨が降り出す。血を失った身体から、温度が抜けていく。

「ジャック、ジャック!嫌、嫌よ、死んじゃ嫌!ジャック、ジャック!」

霞む意識の中で──が呼ぶ声だけが、やけに鮮明に聞こえて、その時。

『助けてあげましょうか?』

 突然、頭の中に声が響いた。女の人のような、そうでないような。そんな不思議な声。──の顔がこわばる。

「なんで、なんでカミサマの声が、なんで。塔を離れたのに」

 ──にも同じ声が聞こえているようだ。これが、カミサマの声。──の声を無視して、カミサマは喋り出す。

『アナタが、ワタシのものになるのなら。ジャックのことを、助けてあげるわ』

 言われた言葉の意味が、一瞬理解できなかった。カミサマのものになるということは、つまり。──が、カミサマになってしまうということ。その存在が、消えてしまうこと。

「そん、なの!出来るわけ、ないだろ!」

『あら、ワタシは──に聞いているのよ。どうかしら?アナタにとって、悪くない話だと思うけれど』

「──、聞いちゃダメだ!俺のことは、いいから!遠くに逃げて!」

 どうか、俺のことを忘れて。どこか遠いところで、幸せになって。

「……わかったわ。ジャックが助かるのなら。この身体、あなたにあげるわ」

 ──の口からこぼれたのは、俺の意思とは正反対のものだった。

「──、どうして」

 呆然とする俺に──は微笑んだ。

「私、あなたに出会えたからここまで来れた。あなたに出会わなければ、きっとずっと、塔から出ようとも思わなかった」

 触れた──の手から、体温がなくなっていく。──が、人ではなくなっていく。

「ありがとう、ジャック。どうか、約束を守れなかった私を──」

 ──の声が聞こえたのは、そこまでだった。

 ──の目元の布が燃え、瞳が現れる。初めて見た──の目は、赤い赤い色をしていた。額に現れた鍵穴と、周囲に浮かぶたくさんの鍵。カミサマの一部であろうそれらが──が人ではなくなったことを示していた。

『あは、あはははははは!ようやく、ようやく手に入ったわ!』

 ──の身体を乗っ取ったカミサマは、ひとしきり笑った後。思い出したかのように、俺の方を見た。

『約束は守らなきゃね』

 カミサマが指を振ると、先程まで止まらなかった血が止まった。恐る恐る傷口を触ってみる。撃たれる前と、変わらない状態になっていた。

『ふふ、驚いたかしら?感謝を述べても良いのよ』

「よくも、よくも──を」

『あら、残念。お気に召さなかったかしら。けれど、あの子が望んでやったことよ?』

 完全に不平等な契約なことは、目に見えている。俺のために、──が犠牲になる必要なんて、なかったんだ。

『さて、約束は守ったことだし』

 カミサマは浮かんでいた鍵を一つ手に取り、こちらにかざした。途端に、身体が動かなくなる。

「な、なんだ、これ」

『アナタを、ワタシの一部にしてあげる。光栄でしょう?これでアナタも、あの子と同じ場所にいられるわよ』

 かざされた鍵の前に、鍵穴が現れる。何が起きるかは分からないが、錠が回ったら確実に何かが終わる。そう分かってしまった。

「させねぇ!」

 動けないながら、神経を研ぎ澄ませる。この力が鍵の概念をしているなら、俺にだって開けられるはずだ。

「はず、れろ!」

 ガチャン!大きな音がして、カミサマの持っている鍵が壊れる。その瞬間、どこかに引っ張られる感覚がした。

「え、うわああああ!」

 その力に抗えず。遠くなる意識の中、身体が浮いた感覚だけが残った。

 

『あら、逃げられちゃった。厄介な力ね』

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