父と子

 

 マグナ・マールの街はその日も曇りだった。ルカの家は街を一望できる離れた丘の上に建てられていた。その家は立方体や直方体、円柱などの様々な図形が複雑に組み込まれた街の建築様式とは正反対の美を備えた、整えられたお屋敷だった。そのお屋敷の美しさを目の当たりにしたダンテは高揚と恐怖を同時に覚えていた。少年は好奇心を掻き立てられながら、マグノリアの案内でルカの待つ部屋へとたどり着いた。


 部屋の中は暖炉とテーブルを囲むように備え付けられた椅子がずらりと並べられ、そのすぐ近くには果物やケーキ、たくさんの飲み物が乗せられたカートが置いてあった。ルカはその部屋の中央で立っていた。ダンテはその男を見て、どこか自分の心が細くなっていくような、これまで経験したことのない不思議な気持ちになった。

「……やあ、いらっしゃい。よく来てくれたね」

 ルカはもみあげから顎にかけて薄く髭を伸ばしていた。彼は一部の隙もない紳士的な所作と挨拶でダンテを出迎えた。

「はじめまして、ダンテと申します」

 ルカの闇色の瞳に吸い込まれそうになりながら、ダンテはルカと握手を交わした。少年の心のどこかで、何かが騒めいた気がした。

「マグノリア、すまないが……少しの間、彼と二人きりになりたいのだが」

 ルカがマグノリアにそういって微笑むと、彼女は素直に退室していった。

「さあ、かけて」

 ルカは近くの椅子を引いてそこへダンテを誘った。

「なにか飲むかね?ミルクは?」

「その……乳糖不耐で……ヤギのミルクなら」

「そうか……私と一緒だな」

 ルカは優しくそういってカートに乗せられたステンレス製のピッチャーを手に取ると、中に入った白い液体をグラスになみなみと注ぎ、それをダンテに手渡した。ダンテはそれを一口飲むと、そのあまりの美味しさに心と体の両方を揺さぶられ、目を見開いて驚いた。ルカはダンテのすぐそばの椅子に座りながらそれを眺め、少年を静かに見つめ続けた。ダンテが極上の味のヤギのミルクを飲み終えるまでの間、その沈黙は続いた。

「……おかわりはいるかい?」

「いえ、もうたくさんです。こんなに素晴らしいものは初めてです」

 ダンテの正直な答えと感想に、ルカはなにも言わずに2回頷くだけだった。

「今、11歳だったかな?」

「はい」

 ルカは光のない瞳にダンテの姿を映し、感慨深くその目を細めた。

「そうか。私も少年期は君と同じように飛び級で学校に通っていたよ……志望はどこかね?」

 ダンテの通っている学校は専門教育に接続するための学校で、簡単には入ることのできない難関校でもあった。卒業前に実施される試験に合格することができれば、それぞれが志望する専門教育が受けられる学校へと、ようやく通うことができるようになる仕組みであった。当然ながら、ダンテの志望先は決まっていた。

「医者です」

「医者?機械設計師や、工学技士ではなく?」

 その二つの資格のどちらかを取得したものは、マグナ・マールの街では圧倒的な好待遇が待っている。ルカは必然的にダンテの志望先がそこだと考えていた。

「はい」

 少年は力強く応えた。

「……差し支えなければ、その理由を聞かせてもらってもいいかな?」

「好きな人を助けたい。ただ、それだけです」

 ルカは少しだけ目を開き、そのあとすぐに眉をひそめながら再び目を細めた。

「……それは、君にとって大切な人かね?」

「はい。ベアトリーチェという同い年の女の子です」

「ベアトリーチェ……ブランケのところの娘さんのことかな?」

「なぜそんなに知って……何でもよくご存知なんでしょうか?」

「そうでないと今の私は成り立ちえないから、かな」

 光のない瞳をますます暗くさせて、ルカが答えた。

「娘さんのことは詳しくは知らないが、ブランケのことはよく知っているよ。グループ会社のひとつを任せている男だ。その子の……ベアトリーチェはどんな症状で苦しんでいるのか、わかるかね?」

 ダンテはベアトリーチェの病気を今わかる範囲で説明した。

「……そうだったのか。しかしそれはあの男の……彼の業だろう。いや、私の業でもあるのか。……それにしても、難病だ。容易くはないぞ?」

「それでも僕はやらなきゃいけない。彼女と約束したんです」

「励めよ。…そうか、ブランケか。陰ながら応援させてもらうことにしよう」

 ルカが笑みを浮かべながら言った。ダンテはその笑みを見た瞬間、えもいわれぬおぞましいものを感じ取った。冷たい汗がじわりと額から出るのがわかった。

「君の保護者はティルマンだったね?」

「……はい」

 ダンテは身が縮こまる思いで、なんとか返事をした。

「いい男に、引き取られたな?」

「……はい、とても尊敬できる……大人です」

 自ら発した言葉で、少年の胸はチクリと痛んだ。

「また……遊びにきたまえ。いつでも歓迎するよ」

「はい」

 ルカは立ち上がり、その場をあとにしようとした。ドアの前まで進んだ彼は振り返り、最後にダンテにこう言った。

「君なら大人になっても忘れるなんてことはないだろうから、今のうちに言っておこう。将来の話だ。君が大人になって、それに気づいたならば……私ならば、いや、それは私にしか解決できないことだ。その時は遠慮なく頼ってくれ」

 少年だったダンテには理解できない言葉を残して、ルカは去っていった。そのあと、ダンテはマグノリアと何をして何を話したかまでは覚えていられなかった。家に帰ってティルマンと夕食を共にするその時まで、少年はルカの最後の言葉の意味と一つの後悔の事で頭がいっぱいだった。





「僕の親って、どういう人なんでしょうか?」

 夕食の席でダンテは今まで一度もしたことのない質問をティルマン医師にした。

「……なにぶん、記録が残っていないからね。少しでも手掛かりがあればいいんだが、世の中そうそう都合よくはいかないものだ。すまない」

 ほとんど天賦の才といって差支えのない高い知能を少年は有していた。ティルマン医師は自らの知的好奇心から、常に注意深く少年の出生に関する情報を探っていた。それでも、いまだに何の情報も得られない、そんな日々が続いていた。

「先生だったら、どういう人だと推測しますか?」

「ふむ……例えばこのイモなんだけどね。ちょっと蒸しすぎて、甘みが抜けてしまって、なんとも味気のない仕上がりになってしまったわけだが……きっとこういうミスをしない、完璧な、隙のない人間なんじゃないだろうか」

 やや芝居がかったコミカルな口調で、ティルマン医師は自らの推測を少年に伝えた。

「まあ、私はそんなイモでも……ダンテとこうして顔を合わせて食べていると、味わい深く感じるような人間だ。君の希望に添えないのは自覚している」

 ダンテはこの時、自らの後悔の念を払拭したくなった。少年は勇気を振り絞って、ある言葉を口にすることを決意した。

「……いえ、僕はそういう人の方が好きです……父さん」

 ティルマンを『父』と胸を張って説明できなかったこと。それがダンテのただ一つの後悔だった。

「…………大人を泣かせるようなことを言えるようになってきたんだね。ダンテ、私は嬉しい……本当に、嬉しいよ。そうだ、今日を記念日としよう。私とダンテが、父と子になれた記念日だ」

 ティルマンは心底嬉しそうに笑いながら提案をした。

「それじゃあ、お祝いは明日だな。ロブスターでお祝いをしよう。今度はきっと、うまく蒸してみせるぞ?」

 その日から、ダンテはティルマン医師のことを『父』と呼ぶようになった。より一層の愛情と尊敬の念を『父』に向けるようにもなった。一方でティルマン医師にとっては忘れられない、ダンテへの無償の愛が報われた日でもあった。彼は毎年、その日をロブスターでお祝いするようになった。

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