第35話、追い込む 上
日が沈んですぐ、シガン宅の呼び鈴がひび割れた音をたてた。
三人が組合に出かけて行ったばかりだ。訪問者には心当たりがなかったが、シガンは深く考えずに玄関を開ける。その瞬間、眉間にしわがよった。
「はい。……どちらさまで」
「チャイムひとつで出てはいけない。ちまたを騒がす吸血鬼だったらどうする?」
どこかで聞いたな、これ。そこにいた男は背が高く、ヒゲを垂らしていた。服装は黒のコートにボウタイ。古めかしい紳士といった風貌である。ただ金の目だけがひどく得体の知れない恐怖を呼び起こさせた。シガンは素直にそれを認めた。
「あまり怖い目をしないでくれ」
「失礼した。妖精を無視しないでいてくれるのは、ありがたい」
無礼な言いかたに、シガンは険しい目と無言を返す。
「……まずは礼を言うべきだったな。コウが世話になった、感謝する」
コウの知りあいか。並べば、きっと父か祖父のように見えるだろう。シガンはコウに親と呼べるものがいると考えていなかったから驚く。もちろん、吸血鬼がほかにいて、コウとは別に事件を起こしているとは聞いていた。しかしユエンもアオもそれ以上の説明はしなかったし、シガンも深く聞こうとはしなかった。
「
シガンはぎゅっと嫌な顔になる。他人事のような態度が気にいらなかった。それと同時に、コウがもともと人間だったことにようやく思い至った。
「人を勝手に吸血鬼にしといて、なにを」
「誰だって他者に『食うな』と強いることはできない。もちろん食われたくないのも道理だ。……吸血鬼の生きかたになじめなかったものは自然に消えていく。吸血鬼として存在するなら、そうなってもよかったということだ」
「……なにを言ってるか、さっぱりわからん」
吐き捨てるように返したシガンに、男はそれでいいとうなずいた。吸血鬼の理屈は人間の理屈とは違う。人間にとっては不条理とも思えるだろう。人間の法律を妖精が理解しないように。それでも男は人間に頼みたいことがあった。
「実は、もう少し面倒をかけたいのだが……」
シガンの眉間のしわが深くなる。しかし男は穏やかな口調で依頼してきた。
「あなたは画家だと聞いた。ひとつ絵を描いてくれないか」
「絵?」
予想しない言葉だった。吸血鬼も人間のように絵を楽しむ心があるのだろうか?
「娘の絵だ。娘は家を出るときに写真をすべて焼いてしまった。だから似顔絵がほしい。あの
「で、どんな娘さんだったんだ」
結局、シガンは頼まれた絵を描くことにした。理解されないからすばらしいのか、わからないからすごいのか。それは違う。自分が描きたいのは、もっと人に近いところにあるものだ。こいつは吸血鬼だが、誰かが望むのなら描いてやる。
「年齢は十代の、半ばころか。髪は黒色の巻き毛だった。たしか、肩まであった。目は明るい茶色でね」
「ふーん……。それで?」
「頬はふっくらとして……いや、覚えているつもりなのにな」
男はいつの姿だったか、記憶が混ざってよくわからなくなっているのだと頭をかいた。そんなはずがあるかと言うと、「人間の成長は早すぎる」と笑った。「いつまでも小さいはずだと思ってしまう」「見るたびに大きくなった気がした」と。
「……どんな子だったんだ」
「む。話したとおりだよ。口も鼻も控え目だったような……」
シガンは鉛筆とは逆の手を動かしてそれをさえぎる。外見の詳細も聞きたいが、男の説明にはだいじなことがすっぽり抜けているように思った。
「ああ、違う、違う。つまり、どんなときに笑って、どんなふうに泣いて、どんな顔で怒ったのか……思い出だ、娘さんとの」
「それが必要なのだろうか?」
「必要だろ。外側だけ考えてもしょうがない」
それはリンゴを描くとき手触りや食感、匂いまで想像して描くようなものだ。リンゴの甘さ、酸っぱさ、おいしさを見た人に届けられるように。
男はふむとヒゲを触り、どこから話したらいいのかと考えこむ。それから思いだすように「彼女」の中身を語りはじめた。
「我には妻が三人いた。すべて人間だ。その娘は三人目との子で、九人
絵を描くなんてなんの役にもたたない。二十五になったらやめよう、三十になったらやめようと思ってやめられなかった。どこかで筆を折れたらよかった。どこかでどうしようもない壁にぶつかって、諦めざるをえなくなるのを待っていた。
「人間の戦争が起こる少し前だった。毎日、嬉しそうに出かけるもので、なにがあったのか聞いたんだ。笑って『ないしょ』と言って教えてくれなかった。ある日、帰ってきてから閉じこもってしまった。そんなことは初めてだった。我はどうしたらいいかわからなくて……声をかけられなかったんだ。それが最後だったよ」
ぼくにとっての絵はなんだろう。それは強烈な破壊ではなく、誰かの人生の隣にいてその生活を守るようなものだ。どんな絵がいいか悪いかではなくて、ただ自分の描きたいものを知らなかったという話。
「けっこう、人間のように親をやってるんだな」
「妻には怒られてばかりだったがね。……ああ、口元はそれでいい。にこっと笑うとそんな感じだった。褒められて困ったように笑うのがじつに愛らしくてね」
「そういうものか。……ほら、こんなのでどうだ」
見せた紙の上で、少女がはにかんでいた。十四、五歳の子だ。男は絵を手にとって、懐かしそうな目で見る。絵は描いて終わりではない。見る人のなかで、あいまいななにかを形にするものだ。この子がなにを言いたいのか、男にはわかるのだろうか。
「ああ……そうだ。確かに、我の娘だ」
「そりゃあよかった。娘さん、元気だといいな」
言った後で、コウを吸血鬼にしたやつだということを思いだす。事件に関わっているのだろうとも。それでもこの男にとってはだいじな娘なのだ。
「そうだね。……おお、こういう場合、人は金銭を謝礼とするのだったな」
「ん? まあ、それは……」
男は人間のように懐を探しだした。思いかえせば、ユエンはまるで人間らしくなかった。食べはしたが、風呂もトイレも使わなかったじゃないか。あんなのに違和感をもたなかったのが不思議なくらいだ。
「これでよいだろうか」
ジャラッと手のひらにのせられた重さは、シガンが考えていたものと違った。それは数枚の金貨だった。人の横顔が描かれている。
「うむ、領収書はドラクリヤで頼む」
「……申し訳ありませんが、とり扱っておりません」
そして場面は組合のオフィスに移る。
冷たい風を連れてその男が来た。ノックに「どうぞ」と答えると、ギシリ、メキッと音をたててきしむドアが力ずくで開けられる。男はぐるりと見まわしてミトラに目を止めた。ミトラはつい先ほどここに着いたばかりだが、男はすぐに彼が自分の話すべき相手だととらえた。
「ふむ、あなたが相手かな?」
「私が宇気比ミトラ、都の吸血鬼対策担当です」
「ああ、我は吸血鬼たちの始祖だ。竜老公とも呼ばれる。よろしく頼む」
そこにいた人間は反射的に怖いと思った。金色の目がぞわりと背筋を凍らせる。しかし男のほうもヤスコさんを見ていた。犬のヤスコさんは鼻にしわを寄せてうなっている。イチコが命じたら、すぐに男に噛みついてやろうというように。
「話の前に犬を押さえてくれるかな? ……怖いんだ」
「それはすまなかった」
イチコがヤスコさんを抱きあげる。ヤスコさんは不満そうにイチコの鼻をなめた。吸血鬼の始祖、恐ろしい目をもつものが、こんな小さな犬を怖がるとは。
「それで、話したいこととは」
「我が娘を人の情念からとり戻したい。あれは人だけでは倒せまい」
竜が告げると、静かにざわめきが起こった。
「あなたがたが肉塊と見たのがそうだ。彼女は……地に染みこんだ情念を呼び寄せてしまった。人間の情念は、我々を心の底から変質させる。娘を元に戻してほしい」
目と口のある肉塊、人を襲い殺していた吸血鬼。それがこの竜老公と名のった始祖の娘か。吸血鬼を倒すため吸血鬼の元締めを信じろという。……人間では倒せないのなら、拒否することはできないのだろう。
「……元に、とは。人を襲わなくなると?」
「そこまではわからない。けれども今、暴れているものはおさまるだろう」
竜の言葉に、タカノリがそっとミトラを見た。(その吸血鬼の処遇は)。視線でそれに返す。(今はこの話に乗るのが先だ。捕まえてもいない吸血鬼の扱いを考えるより)。ミトラは再び竜に目を戻した。
「では、具体的にどうするつもりですか」
「彼女は眷属をいくつか失っている。だから人の血でおびきよせ、そこを攻撃すればよい。弱ったところで本体の封印をとき、地面からつりあげる。彼女がまとっている人の情念をはがしてくれ。そこから先は我がやろう」
「本体? 封印だって?」
当然の疑問が出て、ユエンが横から口を出す。
「あれは青戸の木の下に封じられている。根を掘りかえして引きずり出す」
「そこまで追いこむのは死の守り神殿に頼みたい」
竜老公は敬意をもってユエンに求めた。ユエンが嫌そうに目をひきつらせる。
「その呼び名はやめろ、つまらん。……私の影で地面を塞ぎ、青戸まで誘導しよう」
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