第18話、追い込む 上

 日が沈んでしばらく、シガン宅の呼び鈴がひび割れた音を立てた。

 少し前、コウがアオとユエンに連れられて組合に行ったばかりだ。訪問者に心当たりがなかったが、シガンは深く考えずに玄関を開ける。開けた瞬間、眉間にしわがよった。


「はい。……どちらさまで」

「チャイムひとつで出てはいけない。ちまたを騒がす吸血鬼だったらどうする?」


 どこかで聞いたな、これ。男は背が高く、長いヒゲを垂らしていた。服装は黒いウエストコートにボウタイ。古めかしいヨーロッパの紳士といった風貌である。ただ金の目だけがひどく得体の知れない恐怖を呼び起こさせた。シガンは素直にそれを認めた。


「あまり怖い目をしないでくれ」

「失礼した。妖精を見ないふりしないのはありがたい」


 無礼な言いかたに、シガンは険しい目と無言を返す。


「……まずは礼を言うべきだったか。コウが世話になった、ありがとう」


 コウの知り合いか。並べば、きっと父か祖父のように見える。吸血鬼にも血縁がいるのだろうか。シガンは吸血鬼の子が迷っていたのをユエンが勝手に拾ったくらいに考えていた。

 もちろん、吸血鬼が他にいて、コウとは別にほとんどの事件を起こしたものだとは聞いている。しかしユエンもアオもそれ以上の説明はしなかったし、シガンも深く探ろうとはしなかった。


「娘が吸血鬼にした子ならば、わたくしにとっては孫……だろう」


 シガンは嫌な顔になる。コウの祖父と言いながら他人事のような態度が気に食わなかった。それと同時に、コウがもともと人間だったことに思い至る。


「人を勝手に吸血鬼にしといてなにを」

「勝手か。誰だって他者に『食うな』と強制することはできるまい。もちろん食われたくないのも自然の道理だ。……吸血鬼の生きかたになじめなかったものは自然に消えていくだけさ。吸血鬼として存在するということは、そうなってもよかったということだ」

「……何を言ってるか、さっぱりわからん」


 吐き捨てるように返したシガンに、男はうなずいた。それはそうだろうと。吸血鬼の理屈は人間の理屈とは違う。人間にとっては不条理と思えることもある。人間の法を妖精が理解しないように。それでも男は人間に頼みたいことがあった。


「実は、もう少し面倒をかけたいのだが……」


 いよいよシガンの眉間のシワが深くなる。これ以上の面倒とは。男は気さくな柔らかい表情で求めてくる。……軽んじているわけではないのだろう。真面目な顔をして怖がらせないようにだ。


「画家よ、絵を描いてくれないだろうか」

「絵?」


 予想してなかった単語だ。吸血鬼も人間のように絵を楽しむ心があるのだろうか?


「我の娘の絵だ。あの子は家を出る時に写真をすべて焼いてしまった。だから似顔絵が欲しい。あの子が帰ってくるように。……絵は文字と同じく、まじないだからね」






「で、どんな娘さんだったんだ」


 シガンは頼まれるまま描くことにした。理解されないからすばらしいのか。わからないからすごいのか。それは違う。自分が描きたいのは、もっと人に近いところにあるものだ。こいつは吸血鬼だが、望むのなら描いてやる。


「髪は我のような黒色だったよ。目は明るい茶色だ。かわいい子だった」

「ふーん……。それで?」

「頬はふっくらしていて赤んぼうのようで……いや、覚えているつもりなのに思い出せないんだ」


 男は生まれたばかりことか、成長してからのことか、記憶が混ざってよくわからなくなっていると言った。そんなことがあるかと言うと、「人間の成長は早すぎる」と笑った。「いつまでも小さいように思ってしまう」、「見るたびに大きくなっているようだった」。


「……どんな子だったんだ」

「む。話したとおりだよ。妻に似て……髪は巻き毛で、肩まであったな」


 シガンは筆とは逆の手を動かしてそれをさえぎる。本人を見ずに似顔絵を描けというが、シガンが欲しいのはそれではない。だいじなことがすっぽり抜けているように思った。


「ああ、違う、違う。つまり、どんな時に笑って、どんな時に泣いて……思い出だ、娘さんとの」

「それが必要なのだろうか?」

「必要だろ。外側だけ考えてもしょうがない」


 それはリンゴを描く時、手触りや食感、匂いまで想像して描くようなものだ。少なくともそれを思って描きたいと思っている。リンゴの甘さ、すっぱさ、おいしさを届けられるように。

 男はふむとひげを触り、考え込む。どこから話したものかと少しの間黙っていたが、噛み砕くようにして「彼女」の中身を語りはじめた。


「……我には妻が三人いたよ。すべて人間だった。その娘は……三人目との間の子で、九人姉兄弟妹の末っ子だ。本当に、かわいい子だよ。引っこみじあんでね、人の輪に入れず、よく兄の背に隠れていた。だけども、いつもにこにこと笑って楽しそうにしていた。声をかけるとまた隠れてしまうがね。歌うのが好きな子で、よく聞かせてくれたものだ」


 絵を描くなんて何の役にもたたない。二十五になったらやめよう、三十になったらやめようと思ってやめられなかった。どこかで筆を折れたらよかった。どこかでどうしようもない壁にぶつかって、あきらめざるをえなくなるのを待っていた。


「人間の戦争が起こる少し前だった。毎日、嬉しそうに出かけるもので、どうしたのか聞いたことがある。笑って『ないしょ』と言って教えてくれなかった。ある日、帰ってきてから閉じこもってしまった。そんなことは初めてだった。我はどうしたらいいかわからなかった。声がかけられなかったんだ。それが最後だったよ」


 ぼくにとっての絵は強烈な破壊ではなく、誰かの人生の隣にいてその生活を守るようなものだ。どんな絵が良いか悪いかではなくて、ただ自分の描きたいものを知らなかったという話。


「けっこう、人間のように親をやってるんだな」

「妻には怒られてばかりだったよ。……ああ、口はそれでいい。笑うとそんな感じだった。ほめられて困ったように笑うのが実に愛らしくてね」

「そういうものか。……ほら、こんなのでどうだ」


 見せた紙の上で、少女がはにかんでいた。十四、五歳くらいの子だ。男は手にとって、懐かしい目で見る。絵を描いてそれを見るなかで、何かが確固たるものになっていく。この子が何を言いたいのか、男にはわかるのだろうか。


「ああ……そうだ、この子だ」

「そりゃよかった。娘さん、元気だといいな」


 そう言った後で、コウを吸血鬼にしたやつだということを思い出す。おそらく、この事件に関わっているのだろうとも。腹は立つが、それでもこの男にとってはだいじな娘なのだ。


「そうだね。……おお、こういう場合、人は謝礼を渡すのだったな」

「ん? まあ、それは……」


 思い出したように男が懐を探す。ユエンに比べるとずいぶん人のような仕草だと思う。思い返せば、ユエンはまるで人間らしくなかった。食べはするが、風呂もトイレも使わなかったじゃないか。あんなのに違和感をもたなかったのが不思議なくらいだ。


「これでよいだろうか」


 手のひらにのせられた重さは、シガンが考えていたものと違った。それは金貨だった。人の横顔が描かれている。


「領収書はドラクリヤで頼む」

「……申し訳ありませんが取り扱っておりません、お客様」






 そして場面は組合のオフィスにうつる。

 夜も遅くなってきた頃、冷たい風を連れてその男が来た。ノックに「どうぞ」と答えると、ギシリ、メキッと音をたててきしむドアが力ずくで開けられる。男はぐるりと見まわしてミトラに目を止めた。ミトラはつい先ほどここに着いたばかりだったが、男はすぐに彼が自分の話すべき相手だととらえた。


「ふむ、あなたが責任者か?」

「私が宇気比ミトラ、都の吸血鬼対策担当です」

「ああ、我は今いる吸血鬼の始祖だ。竜老公と呼ばれることが多いか。よろしく頼む」


 そこにいた人間たちは、反射的に怖いと思った。金色の目がぞわりと背筋を凍らせる気がした。けれども、男のほうもヤスコさんを見ていた。犬のヤスコさんは鼻にシワを寄せてうなっている。イチコが命じたらすぐに男に噛みついてやろうというように。


「話の前に、犬を押さえてくれるかな? ……怖いんだ」

「それはすまなかった」


 イチコが犬ことヤスコさんを抱き上げる。ヤスコさんは不満そうにイチコの鼻をなめた。吸血鬼の始祖、恐ろしい目を持つものが、小さな犬を怖がるのだろうか。アゲハがいればこう言ったことだろう。「妖精は人間以外のものに影響を及ぼしにくい。犬は人間の味方になって吸血鬼を退けるが、吸血鬼はそれに対処することが難しいのだ」と。


「それで、話したいこととは」

「我が娘を人の念から取り戻したい」


 竜がゆっくりと告げると、静かにざわめきが起こった。


「あなたがたが肉塊と見たものだ。彼女は……地に残る人間の念を呼び寄せてしまった。人間の念は、我々を心の底から変質させる。娘をもとに戻して欲しい」


 目と口のある肉塊、人を襲い殺していたもの、コウを吸血鬼にしたもの。それがこの竜老公と名乗った吸血鬼の娘か。吸血鬼を倒すため吸血鬼の元締めを信じろという。……人間だけでは倒せないというのなら、拒否することはできないのだろう。


「……もとに、とは。人を襲わなくなると?」

「そこまではわからない。けれども今、暴走しているものはおさまるだろう」


 竜の言葉に、タカノリがそっとミトラを見た。(その吸血鬼の処遇は)。視線でそれに返す。(今はこの話に乗るのが先だ。捕まえてもいない吸血鬼の扱いを考えるより)。ミトラは再び竜に目を戻した。


「で、具体的にどうするつもりですか」

「彼女は眷属をいくつか失った。だから人の血でおびき寄せ、そこを倒せばよい。弱ったところで本体の封印を除き、地面からつり上げる。そこで彼女がまとっている人の情念をはがしてくれ……そこから先は我がやろう」

「本体? 封印だって?」


 当然の疑問が出て、ユエンが横から口を出す。


「そうだ。あれは青戸の木の下に封じられている。その根を掘りかえして引きずり出す」

「そこまで追い込むのは死の守り神殿に頼みたい」


 竜老公は敬意を持ってユエンに頼んだ。ユエンが嫌そうに目をひきつらせる。


「その呼び名はやめろ、つまらん。……私の影で地面を塞ぎ、青戸まで誘導しよう」

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