ベランダの天使

よもぎ望

ベランダの天使

「朝、まだかな」


 深夜0時を過ぎただろうか。ベランダに出されてから1時間ほどが経った。傷だらけの素足は足首ほどまで積もっていた雪に冷やされ、徐々に感覚が無くなってきていた。


 悴む手を擦り合わせ、ちらりと後ろを見る。激しい物音と父の汚い笑い声に、時折混ざる女性のよがり声。厚いカーテンの閉じた室内の様子は分からないが大方いつものアレだろう。

 はあ、と口からこぼれた白いため息が夜空に溶けていく。


「こんばんは」


 突然聞こえてきた声に横を向くと、そこには天使がいた。例えでもなんでもない。白い翼が生えて頭の上には金色に光る輪っかを浮かべた、正真正銘の天使がそこにはいた。


「……こんばんは?」

「返事ができるのはいいことだ。けれど、こんな真冬の夜更けに外にいるのは感心しないな」


 天使はふわりと浮かんでベランダの柵に座るとにやりと笑って僕を見た。


「……中には入っちゃいけないから」

「何故?ここはキミの家なんだろう」

「そうだけど、今は父さんと……女の人がいるから」

「ふ~ん、そうかい」


 興味無い、とでも言いたげに天使は僕から視線を外し口を閉ざした。ここ以外の音が全て無くなってしまったかのような静寂の中、僕はその雪のように白い肌と絹のような長い白銀の髪をただじっと見つめていた。


 どのくらい経ったか。よし、と突然天使は柵の上に立ち僕の手を取った。背中に羽が生えたようにふわりと身体が宙に浮く。


「へ!?な、なに!?」

「キミを連れて行ってやろうと思ってな」

「連れてくってどこに!?」

「あ~……ほら、あれだ。ってやつだ」


 その言葉を聞いてバタつかせていた足をピタリと止めた。


 天国。見たことは無いが誰もが知っているだろう場所。現世でいい行いをした人が死んだらいける、現世よりずっといいところ。

 普段の僕なら自分が行けるなんてこれっぽっちも思わないが、今は違う。なんせ今僕の目の前には天使が居る。その天使が手を取って天国に連れていくと言うのだから期待しない人なんていない。


「天国に、僕が?」

「もちろん。そのためにボクは来た」


 ただし、と目を少し細めて続ける。


「死ぬ覚悟があるなら、の話だが」


 身体が持ち上げられ、赤く変色した足が柵の上に乗った。今手を離され柵の外側へ落ちたらタダでは済まないだろう。死ぬ覚悟というのはきっとそういうことで、けれどそんなものあるわけが無い。実際今の状況は足が震えるほど怖いのだ。


「……ごめんなさい。まだ、ない」

「そう……それは残念だ」

 天使は眉を少し下げ、僕をゆっくりとベランダへと下ろしてくれた。


「覚悟が出来たらボクを呼ぶといい。喜んでキミを迎えに来よう」


 そう言うと天使は僕の頭にぽんっと手を置いた。そして言葉を返す間もなく、翼を大きく広げたかと思うと夜空を飛んで消えてしまった。

 触れられた感覚も、天使の足跡すら残っていなかった。この数分間は現実だったのだろうか。寒さが見せた夢だったのかもしれない。はらはらと降り続ける雪を見ながら考えているうちに月は沈み、気づけば朝日が登っていた。








「……ぃ……おい……」


 遠くから声が聞こえる。起きないといけないと分かっているのに、身体がそれを許さない。


「……き……おい…………起きろこのクソガキ!」


 怒鳴り声とともに襲ってきた脇腹への衝撃で、感覚が一気に現実へと引き戻された。肺から空気がこぼれ、チカチカと世界が点滅を繰り返す。

 起き上がれずに蹲っていると、2発、3発と容赦の無い蹴りが背中に飛んできた。周りに積まれていた空き缶たちがガシャガシャと音を立て、部屋のあちこちに飛んでいく。


「あ゛……ぐ、ごめ、なさ……けほ……っ……」

「いつまでも寝転んでんじゃねえよ。邪魔だからとっとと出てけ!」


 声に押されるように床を這ってベランダへと出る。バチンッと音を立ててベランダの戸が閉まり、直ぐにカーテンが引かれた。雪混じりの夜風がじくじくと肌を刺す。


「……痛い」


 2、3回咳をすれば少量の血が手のひらに付いた。このくらいの血はいつもの事。いつもの事、なのだが今日はやけに心臓の音がうるさい。


「やあ、こんばんは」


 その声とともに、空から天使が現れた。月の光を飲み込むような白に思わず目を瞑る。


「こんばんは」

「久しぶりに顔を見に来てみたら、なんて顔をしているんだ。棺桶に入った人間のほうがよっぽど綺麗な顔だぞ」


 心配しているのか馬鹿にしているのかわからない言葉を投げられる。少しムッとしたものの、その前の言葉に引っかかた。


「久しぶり?僕たちが会ったのは昨日でしょ?」

「何言ってる。ボクがここへ来たのは1週間も前だ」

「……冗談とかじゃなく?」

「冗談と嘘を言うのは人間の仕事だろう」


 ボクの仕事じゃあない、と右手をひらつかせる。


 1週間前?そんなハズはない。だって僕は天使とあった後の記憶がない。夢を見ているような心地で、登る朝日を眺めて、そうして……あれ。いつ部屋に戻れたんだっけ?


「わからない」

「……キミ、もしかして」

「あの後家の中に入ったのも、昼間に何してたかも、なんもわかんない。な、にも……覚えてっ」


 口に出してしまえばより明確に理解する。僕には1週間分の記憶が無い、と。

 身体の先から血の気が引いていく。口元を抑えて震えていると、天使は僕の頬をそっとつつみ込んだ。


「ボクの目を見ろ」


 声に誘われるように天使の目を見る。2つの蒼に見入っていると不思議と震えは収まった。不安が全部吸い取られていくようで、心地良さすら感じる。


「どうだ?」

「……あったかい」

「ふふ。冗談は言えないがこういうのはボクの仕事だ」


 不思議な温かさに包まれ、途端に眠気が襲ってきた。ふわあ、とあくびをした僕を天使はクスクスと笑う。


「なんで笑うの」

「ふふ、いや、安心して眠くなるなんて赤ん坊のようだと思ってな」

「……夜中なんだから眠くなっても仕方ないじゃん」

「そうだな。仕方ない、ふふ」

「笑わないでよ……もう」


 そう言った数秒後、視界がふわりと暗転した。倒れる僕を抱きしめた天使の「おやすみ」という声を最後に意識は途切れた。








 目を開けると、一面に黄ばんだ壁が見えた。いつの間にか和室の隅で転がっていたみたいで、身体を起こそうと動かせばあちこちに激痛が走り骨の軋む音がする。


「う゛……げほ……っ」


 喉の奥から込み上げたものを抑える力もなく、目の前に赤い吐瀉物を撒き散らした。口いっぱいに鉄の味が広がって気持ち悪い。


 うっすら記憶が蘇る。また殴られたんだ。あまり覚えていないけど、父さんの機嫌がすごく悪くて、それで……。思い出そうとするとズキズキと頭が痛む。思い出すなと頭の中で警報を鳴らされているようだった。


 痛む身体。すり減った心。何もかもが限界だった。

 ここでは無いどこかへ行きたい。逃げたい。死にたい。その一心でベランダのその先の、雪の降る夜空へと腕を伸ばす。


「た゛す、げて!」


 絞り出したしゃがれ声に、返事は無かった。

 もしかしたら天国に行く権利が無くなったのかもしれない。絶望と虚無感が心を蝕む。伸ばした手をだらりと下ろしたその数秒後、望んだ声が聞こえた。


「やあ。また随分と血の気のない顔をしているな」


 鈴のようなその声に顔をあげると、目の前に天使が立っていた。その姿は今まで以上に神々しく、美しく見えた。


「って、ん……ぃ」

「迎えに来ないと思ったのか?言ったろう。嘘はボクの仕事じゃあない」


 僕の頭を撫でながら天使は優しく微笑む。


「ボクを呼んだということは、もう覚悟は出来たのか?」

「つれ、って。て……ん、ごく」

「もちろんだとも」


 天使はゆっくり頷き、汚れた僕の手を取った。天使に手を引かれると、さっきまでの身体の痛みは嘘のように立ち上がることが出来た。そのまま、導かれるように2人でベランダへと向かう。


 あの日と同じベランダの柵の上。けれどあの日のような恐怖は無い。ただただここから逃げ出せることへの安心感で満たされていた。


「さあ、旅立ちの第一歩と行こう」

「ぅん」


 小さく頷き、右足を前に出す。浮いた身体は重力に逆らうことなく地面へと落下した。


 意識が途切れる僅かな間、手を握る天使の微かな笑い声が聞こえた気がした。







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