第17話
巴さんとのデート当日は朝から気が気ではなかった。
そのせいかアルバイト中もうわの空でドリンクを間違えて出してしまったりいつもはしないミスを連発してしまった。
舞台でもこんなに緊張したことはない。自分がこんなにもおかしくなるのは初めてのことだった。
なんとか午前中の勤務を終えると、従業員用の通用口から巴さんがひょっこりと顔を覗かせた。
「さっちゃんお疲れさま」
「あっ巴さん。お疲れさまです。もう少し待って……」
その瞬間、ドキリと心臓が跳ねる。
ふわりと巻いた髪に、さくら色の頬。サラッとした布生地の白いセットアップとパンプスが華奢な巴さんの儚さをより強調する。
ひと言で表すと、とてもかわいい巴さんがそこにいた。
巴さんはバイト着姿の僕を見て、片手をこちらに向ける。
「あ、急がなくていいよ。おじいちゃんにひと声かけてくるから」
「う、うん」
マスターのところへ向かった巴さんを見送って、僕は慌てて着替えを始める。持っている洋服の中でも新しいものを着てきたつもりだが、あの眩しい巴さんの隣に立つ自信がない。
もたもたと着替えを済ませて巴さんと合流すると、パッと明るい笑顔に迎えられた。
「さっちゃん夏服似合うー! 色白くて羨ましい」
「ありがとう。あの……巴さんも似合ってます、今日の」
尻すぼみになった僕の言葉に巴さんはニコニコ笑顔を返してくれる。
「ふふ、ありがと。行き先は昨日リンク送ったところでいいかな」
「はい、もちろん」
昨日の夜、なかなか眠れないでいるところに巴さんから連絡がきたのを思い出す。メッセージにはひまわり畑のURLがついていて、天気もいいしそこに行こうということになったのだ。
外に出ると巴さんはベージュ色のつばの大きい帽子を被る。それと同時に僕も白いシンプルなキャップを被っていた。
今日は夏日だ。子役時代に日焼け対策を徹底的に教え込まれたので、自然と日光を避ける癖が二人ともなかなか抜けない。そんな小さなお揃いの行動さえくすぐったく感じてしまう。
「じゃあ行こっか」
「はい」
今日の目的は、ひまわり畑に行くことだ。だけどそんな名目は関係なしに僕はこの時間を楽しんでいた。
ホームズで会えるのはもちろん嬉しいし楽しいけれど、こうして並んで歩いていると本当にデートしているんだなんて考えてしまう。浮かれている自分がいる。いけないことだと分かっていても気持ちが浮つくのを止められないのだ。
「その靴、いいね」
足元を見ていた僕に巴さんがそう言ってくれたので慌てて顔を上げた。
「あ……うん、ありがとう。最近買っちゃった」
「そっかぁ。私も新しいの買おうかなぁ」
僕のスニーカーは歩きやすさ重視の靴だ。巴さんが今履いているのはヒールのあるパンプスなので、歩きにくいのかもしれない。
「でもさっちゃんと歩幅も違うし……あ! さっちゃん、ちょっとごめんね」
そう言って巴さんは僕の足元に屈む。何が起こっているのか理解していない内に僕のスニーカーに手を伸ばしていた。
「靴ひもほどけてるよ」
「へっ? あ、うん」
巴さんが器用に靴ひもを結んでいくのを、僕はただ眺めていた。別に大したことじゃないはずなのになんだか顔が熱い。
少しして顔を上げた巴さんと目が合ってしまったけれど、僕からは逸らしてしまうので精一杯だった。
そんなこんながあって電車に揺られて数駅、それから少し歩いて着いたのは、一面に大輪のひまわりが咲き誇る畑だ。
今日はなにかのイベントがあるらしい。観光客が多く、たくさんの屋台が出ていて、まだ入り口だというのに食べ物のいい香りがただよっている。
「わあ……!」と感嘆の声が巴さんと重なった。お互い顔を見合わせて笑った後、逸る気持ちを抑えながら早足で入場門へと進む。
色とりどりの飾りが付けられた門を抜け、僕たちはそれぞれ入場受付を済ませた。
満開の香りを胸いっぱいに吸いながら、看板に示された通路に沿って進む。時々ひまわりの写真を撮りながら、二人でゆっくりと歩く。
「すごいや。まるで映画みたい」
「うん、癒されるね」
巴さんは空とひまわりのコントラストが気に入ったらしい。何枚もスマホで写真を撮り始めた。
普段柔らかい視線が、ピントを合わせたように一点にしぼられる。その様子を見て、舞台上の巴さんを思い出す。何かに集中する時のこの真剣な表情が好きになったんだと改めて実感させられた。
カシャリと近くでシャッター音が鳴った。僕が目を丸くしてそちらを見ると、巴さんがしてやったりといった表情でスマホを構えていた。
「イケメンのポートレートいただきました」
「撮ってもいいですけどネット上にアップしないでくださいね」
「ええーもったいない」
巴さんが撮った写真を見せつけてくる。何の変哲もない、ひまわり畑をバックに僕がどこか遠くを見つめている画だ。僕は妙に恥ずかしくなって画面から顔を背ける。
「なんかボーッとしてるように見えるから消しください」
「分かってないなあ。自然体なのがいいんじゃない」
「写真なら絶対僕の方が上手いですよ」
「あ、言ったな? じゃあ撮ってみて」
巴さんはぱっと両手を広げてひまわり畑を背にくるりと回ってみせる。僕はスマホを構えて、画面に映る彼女を眺めて綺麗だななんて考えていた。
「撮った?」
「はい。見ます?」
「うん。……ってこれ動画じゃん! やだやだ恥ずかしい!」
こんな単純なイタズラに引っかかってしまうところはなんとも不安だ。巴さんが僕の手からスマホを奪おうと手を伸ばしてくるので、僕はスマホを高く掲げてそれを避ける。
こんな時間がずっと続けばいいのに、彼女はもうすぐ海外留学してしまう。
もしも今ここであなたが好きだと言ったならどうなるんだろう。気持ちが通じても通じなくても、彼女の踏み出そうとしている一歩を阻んでしまうのではないか。巴さんは優しい人だから。
僕のそんな葛藤は、空に向かって咲くひまわりしか知らない。
屋台の冷凍パインを買って、帰り道に食べることにした。太陽の下ではしゃいだせいで二人とも暑さにやられてしまい、日陰に入って冷凍パインの冷たさに救われる。
「楽しかったー」
「もう少し居たかったけど今日暑すぎましたね」
「ほんと。でも綺麗だったなあ。また来たいね」
巴さんが願望を声にする。それは僕に対する誘いではない。またいつか、そんな時が来たらいいね。そんなニュアンスのものだった。
どちらかの冷凍パインの雫がポタリと地面に落ちる。僕は冷えた口を頑張って動かした。
「巴さんいつ留学するの?」
存外じめっとした響きになった。巴さんは「うーんとね」と言ってからパインを一口齧る。
「今通ってる留学専門の語学スクールが留学先も決めてくれるんだけど、何校か候補を上げてもらった段階。向こうの学校は九月始まりだからそれに合わせてもいいんだけど」
「九月!?」
それはつまり来月だ。まさかそんなに早くいなくなってしまうとは思っていなかった僕は動揺する。
「ああでも今年の九月だともう入学手続き終わってるんだ。だから来年の四月か九月のどっちかで留学スタートになると思う」
「そ、そっか」
半年後か一年後、巴さんはいなくなる。僕はその事実を考えたくなくて、無心で冷凍パインを貪った。
「ねえさっちゃん」と巴さんが言う。
「舞台に戻らないの」
「僕? もう無理だって」
またこの話だ。巴さんは事あるごとに僕に演劇の道に戻れと言ってくる。別に嫌なわけではないけれど、毎回断ることになるのは胸が痛む。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、巴さんはなにやら先程ひまわり畑で撮った僕の写真をアプリでせっせと加工し始めた。
「ほら。いい感じなのに」
セピア色のフィルターをかけたり、劇画風に変換してみたり。器用なことだ。中でも僕の目を惹いたのは、映画のようにキャッチコピーが入った一枚だった。
――どうか君が、クラスで一番の人気者でありますように。
「へへ。いいでしょ」
「趣味悪いですよ」
「ウソっ。さっちゃんならきっと"キング"にもなれるのに」
僕はその一文を見て、巴さんの気持ちを推し量る。
兄二人が人気投票レクの強者だった巴さん。嶺和学園に入学した時はきっとレクにも前向きだっただろう。しかし自分の番では上手くいかず、僕に記録さえ見せようとしない。
なのに僕には人気者になれと言うのか。
「自分では分からないかもしれないけど、さっちゃんはキラキラしてる。舞台に立つさっちゃんは紛れもなくスターなの。だから私だけはずっと言い続けるよ。どんな形でもいい。また役者やってよ、さっちゃん」
「またそれだ。巴さんはいつも僕を役者の道に押し戻そうとする」
「えへへ。俳優、福島さつきのいちファンとしてはね。黙っていられないのよ」
巴さんは眉を下げて笑う。それは困った時の癖だ。困っているのは僕の方だというのに。
「ねぇ、さっちゃん。昔みたいに一緒に練習しない? 私ね、さっちゃんの相棒役やりたいな」
「ははっ。今の僕が、巴さんとつり合うわけないよ」
乾いた笑いで答える。僕は子役としての限界を理由に逃げただけだ。僕は、役者になるような人間じゃない。そしてそれ以前に、一度逃げ出した人間がもう舞台に立つことは許されない。代わりならいくらでもいるのだから。
「それでも私は、いつかさっちゃんとまた舞台に立ちたいなあ」
「だったら巴さん、協力してほしいことがあるんだ」
「なあに? 私にできることならなんでも」
「僕の味方でいて。ずっと」
「そんなのもちろんだよ!」
攻略本の解読以外でも、巴さんと一緒に過ごす理由がほしい。それとは別に僕の中の冷静な思考が動き出す。
好きと言えない代わりに、いい返事が貰えるに決まっているお願いをする。こんな意気地なしにも巴さんは笑顔を向けるのだからやっぱり心配だ。
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