第11話『赤錆色の地竜』




 エル・フォート探索者ギルド、依頼掲示板の前で。

 夜になるにつれて大きくなる喧騒の中、二人の探索者が会話をしている。




「──あのイホロイ一行が行方不明って話だが、まだ依頼は出てないのか」


「なんでも、飛竜の墓標で死んだって話だぜ? 全滅したってよ」


「飛竜の墓標で? あいつら何にやられたってんだよ」


 新人とは思えない飛躍的速度で成長を遂げるパーティ。

 前衛三人に回復職一人と構成は悪いが、大概の相手には勝てるだろう。

 エル・フォート周辺の魔物であれば尚更だ。


「そこまでは知らねえな。飛竜? なわけないか」


 探索者シーカーの男が冗談を吐き捨て、ははっと笑い飛ばす。

 相方はそれを聞いて、天井を仰ぐと″もしも″の話をしだす。


「──まあでも、確かに竜には勝てなかっただろうな。竜に弱点はない。仮に下位種だったとしてもだ。レベル3の探索者が複数人いてようやく勝てる相手だ。いくらあいつらが新人にしちゃあ強いって言っても、相手にすらなんねえだろうよ」


「なんかあったには違いないがな。……帰ってくるか、賭けるか?」

 財布の口を閉じたまま、男は顎をしゃくってみせる。


 相方は鼻で笑うと、きびすを返し手のひらをひらひらと振った。


「──いいや。賭けになんねえよ」




     ◆




 眼前にぎらりと輝く、ただ一点。

 紅い瞳から一瞬でも目を逸らさないよう凝視する。


 リクの脳が一瞬にして、最大音量の警鐘けいしょうを鳴らしていた。

 指先がひとりでに震えだし、足がすくみ、背中を冷たい汗がつーっと伝う。急激に周囲の温度が下がったような感覚に支配される。


 この感情に似た感情を、リクは抱いたことがある。

 ウェアラットと初めて交戦したとき──その時に感じた感情。つまりは恐怖だ。

 それの密度を超圧縮して一気に全身で浴びた、そんな感覚だ。


 ……それだけ、ヤバい。トログロダイトなんかとは比べ物にならない。

 人間としての本能が、やり合ってはいけない相手だと頭に叩き込んでくる。

 全身が足から地面に縛り付けられたような錯覚におちいる。


 ──地を破って現れた、それの見た目を一言で表すとすれば、巨大な蜥蜴とかげだ。

 ただし、蜥蜴と違って首も四肢も、尻尾も太い。

 大きさで言えばリク二人分の躯体に、長い長い尻尾が付いている。


 竜、という言葉が頭に過る。


 こちらを射竦める深紅しんく双眸そうぼう。大きく裂けた口の端から覗くのは鋭い牙。全身が赤錆色あかさびいろの鱗で覆われており、そこから伸びる四肢には鋭利な爪が生えている。

 尻尾は体長と同じくらい長く、先がむちのようにしなっている。尾先はたわむれのようにひゅんひゅんと音を立てながら振るわれているが、その軌道さえ目では追えない。


「ど、地竜ドレイク……⁉ まさか……なんで、こんなとこに」

 クタチが、有り得ない、といった表情でぽつりと零す。


 それも当然のことであった。

 竜とは伝説上の魔物で、普通のダンジョンにいるものじゃない。間違っても、飛竜の墓標という低級ダンジョンで出くわしていい魔物ではないのだ。


 不意に何かを感じ取ったリクは、ドレイクに近い人影──ハザマサの方を見た。

「グルァガアアアアアァァァッッッ────!」

 ドレイクはたけり空間ごと震わせるほどの声でえ、尻尾を一閃させた。ほとんど目には見えなかった。でも、ハザマサが構えた盾ごと吹き飛ばされた。


 ハザマサが咄嗟に腰を落とし〈身構えスタンス〉の体勢を取ったことは分かった。

 だがその上で、ドレイクの一撃はハザマサの体を宙に浮かせた。

 凌ぐことすら許されずに、その身体が岩に叩きつけられる。


「ハザマサ……‼」

 リクは思わず駆け出す。行っても何ができるでもないんだけど。


 岩に激突したハザマサは何とか立ち上がろうとしているが、ドレイクは既に興味を失ったかのように次は別の集団を見据えた。


 皆の視界でハザマサが再度膝をつき、ガラン、とブロードソードを落とす。

 盾は巨大な戦槌せんついでぶん殴られたように中央からへこんでいて、先の攻撃の威力がどれだけ強力なものだったのかを示す。


 あんな攻撃、喰らったらどうなるのか。一撃で理解させられてしまう。

 リクは既に走り出していたこともありハザマサの元へ駆け寄ったが、他の皆は別だ。


 たったの一撃で、他の誰もが脳内に逃げる以外の選択肢を失くした。

 誰かの悲鳴が洞窟内に響き渡った。

 メイカが腰の抜けたユキを、クタチはルラの遺体を抱えたまま一目散に走り出す。


 全員、隊列を組んで後退することすら忘れてドレイクから距離を取ろうとする。

 それがどれだけ危険なことかは皆理解しているはずだ。


 だが、それでも。

 あまりにも急な強敵の出現。ドレイクの持つ竜種としての圧倒的威圧感、そしてパーティメンバーの中で最も堅く、最も体重のあるハザマサが一撃でやられたこと。それらの理由が複合して、冷静でいられる者は誰一人としていなかった。


 ──否。ただ一人だけ、いた。

「…………」

 カガヤだけは、その場に残ってスタンスを広げ、戦斧バトルアクスを構えていた。


 獰猛どうもうに開かれた大口から牙を覗かせるドレイクの真正面に、カガヤは立っている。

 三白眼さんぱくがんが見据えるのはしなる尻尾、その軌道だ。


 我に返ったエルが、逃げながら危機を知らせようと名前を叫ぶ。

「っ、カガヤさん……!」


 ドレイクがぶんと巨体を捻り、尻尾が岩の地面を削り取りながらカガヤに迫る。常人では対処どころか視認できるかすら怪しい一撃。カガヤは一切退く素振りを見せずに、その軌道上に戦斧を振り下ろした。だが──タイミングを計り間違えたのか、尻尾は戦斧を高々と弾き上げ、それを全力で握り締めていたカガヤの体ごと洞窟の天井すれすれまで浮かす。


 服の裾ががばさりと翻り、括られていた長い髪がほどけ、ふわりと舞う。

 カガヤは傭兵マーセナリーだ。手甲と胸当て以外に防具を着込んでいない。ドレイクの攻撃が直撃すれば──そんな想像をすることすら恐ろしい。

 リクの表情が歪む。やめてくれ、と叫びたい衝動に駆られる。


 そんな祈りが誰に届くはずもなくドレイクの追撃は続く。背中から落下するであろう身動きの取れないカガヤに向け、尻尾に力を溜めて思い切り振り抜く。まともに防御姿勢を取ることもできない人間に向けて、一撃必殺の攻撃が襲い掛かる。

 その後に起き得るであろう惨劇さんげきにリクは目を逸らしそうになる。


「……ぬ、ぐぁああああッ!」

 だが。カガヤはその状況で喉が裂けんばかりに吼える。そこからなんと天井に手のひらをつき、体勢をぐるりと一回転させて戦斧を振り抜いた。

 ドレイクの尾はその戦斧の刃の中心を通り抜けた。


 バチっと電流が流れたような音が鳴って尻尾のごく先端が斬り落とされ、ドレイクの動きが止まる。カガヤはざんばらの髪を振り乱して地面に降り立つと、

「戦えない奴は逃げろ! こいつは俺がやる……!」

 そう言って戦斧を構え直した。


「…………!」

 カガヤの号令にリクは喉奥から声にならない声を漏らすと、弾かれるようにドレイクのいる方を向いて、臨戦態勢を取る。

 ダガーを抜き放って腰を落とし、攻撃に備える。

 ──何をやっているんだ、と心から思う。


 絶対に太刀打ちできない相手と思っていたドレイクに、多少とはいえダメージを与えた。でも、さっきのだってカガヤだからできた芸当で。それも紙一重の攻撃を通したまでだ。たった一瞬の攻防で、カガヤの額にも大粒の汗が流れている。


 それでも、カガヤ一人に全て任せるわけにはいかない。

 ──俺だって、ダメージは与えられずとも撤退の時間を稼ぐくらいはできる。

 攻撃を躱し、いなすのは斥候スカウトの十八番だ。リク程度の技能スキルでどうにかできるものかは分からないけれど、やってみるほかない。


 キッとドレイクを睨め付け、一挙手一投足を見逃さないようにする。

 ハザマサが一度、カガヤが二度受けてくれたので分かった。尻尾を振るうのには予備動作モーションがある。それさえ分かれば、きっと躱せる。


「──全員で撤退します! カガヤさんはギリギリまで俺と、奴の足止めを……!」

 と、張り上げ怒鳴るような声で号令がかかる。ハザマサだ。


 見れば、さっき受けた傷は治っているらしい。エルの【治癒リカバー】を受けたのだろう。

 近くにへたり込んでいるエルは息が荒い。奇跡の使用限界だ。


 ハザマサは這うように逃げるエルを守るように立ち、今度こそドレイクに向けて盾を真っ直ぐ構える。盾は側面からの衝撃は防ぎにくいが、正面からの攻撃には滅法強い。垂直に攻撃を受ければ受け止められるという判断だろう。


 首をこちらに振り向かせ、ハザマサが我に返った強い瞳で叫ぶ。

「リクさん、いけますか……⁉」


「……やるしかないなら!」


 リクが気合を入れて告げると、ハザマサは続けて指示を取る。

「分かりました! あとの皆さんは、どうにか岩の隙間から脱出してください……! クタチさんは先導をお願いします!」


「いや──……俺も少しなら戦える!」

「消耗している今は足手まといです……! 先に行ってください!」


「……分かった、……健闘を祈る!」

 クタチも状況を理解してか、それ以上は食い下がらなかった。


 クタチとユキは前日からダンジョンにいたこともあって、既に消耗し切っている。救助対象というのを加味しなくとも、先に逃がさなければならない。


「っ、りっくん……!」

「メイカはユキを連れて、クタチと一緒に先に行って……!」


 メイカが心配そうに声をかけてくるが、後ろを見ている余裕はほぼない。

 一瞬たりとも気を抜けば、致命傷は必至の攻撃が飛んでくる。そうなれば仮に命は残ったとしても、奴を足止めする人員が減る。

 つまりは誰かが逃げられる可能性が低くなる。

 そうなることだけは何としても避けなければならない。


 クタチが岩の槍を乗り越え、ユキもメイカに支えられて退路へと去っていく。

 エルも少し遅れて岩を潜り道の向こうへと消えて行った。


 これで、ドレイクと対峙するのはリク、ハザマサ、カガヤの三人だ。

 どれだけ足止めできるかは分からない。

 ……でも、やるしかない。


 先ほどまでとリクたちの表情が変わったのに気付いたのか、ドレイクも迂闊うかつには突っ込んで攻撃してこないようになっていた。

 だが、そんな牽制けんせいだけの時間は長くは続かない。


 ──先手必勝。

 リクが選んだのは、ドレイクの動き出しに合わせた全力ダッシュだった。


 尻尾から遠ざかるようにドレイクの側面へと回り込み、鬱陶しげに振るわれた地竜の剛腕をすんでのところで地面を転がって躱す。

 そのまま懐に潜り込みたいところだが、どうせリクのダガーを、あの鱗は歯牙にもかけないだろう。バックステップで再度距離を取り、また走り出す。


 欲しいのは皆が逃げる時間だ。それさえ稼いで、タイミングを見て逃げる。

 ドレイクは尻尾攻撃こそ速いが、本体の動きは鈍重寄りだ。冷静さを取り戻してみれば、逃げるだけならまだできなくはなさそうに思える。


 そう考えたのも束の間、ドレイクはちょろちょろと鬱陶しいだけの人間から、どっしりと構えて徐々に近づいて来る人間の方に標的を変えた。

 体ごと真横を向き、体重を乗せた爪を繰り出す。


「ハザマサ、そっちに──!」

 リクが低く叫ぶ。ハザマサが腕に力を込め、額に血管を浮かび上がらせる。


 バキィン──! と鋼鉄が真っ二つにでもなったような音が鳴った。

 しかしハザマサは、「う、ぉおおおおおおお──ッ!」と裂帛れっぱくの気合と共に、今度は真正面からカイトシールドでその攻撃を受け止めていた。

 盾も攻撃を受けた部分がへこんではいるが、砕けてはいない。


 カガヤもそのまま止まってはいない。身を屈めてドレイクの真下に滑り込むと、鱗の色が薄い腹側に向かって戦斧を振り上げた。金属がかち合うような音が鳴って、鱗の一枚が裂けた。ドレイクの腹から僅かに血が噴き出す。戦斧の一撃ならドレイクにも有効だ。


 カガヤは確かな手ごたえを得て、同時に察する。柔い腹側ですらこの頑強さ。冗談だろうと笑い飛ばしたくなるほどの硬度だ。

 だが、少なくとも自分の戦斧ならば攻撃が通る。

 更に力を込めた一撃なら、背中側の鱗だろうが裂けるはずだ。


「ナイス……! 凄い、カガヤ──!」

 希望が見え、リクは思わず拳をかたく握りガッツポーズを取る。

 いける──と思わず脳裏に過った。その時だった。


 瞬間。ドレイクは痛みにか鬱陶しさにか、天高く響き渡らん咆哮を上げる。

 この時のリクたちは知り得ないことであったが──竜鱗りゅうりんは固く、ほとんどの属性攻撃にも高い耐性を持つ。そのため竜は痛みというものに慣れていない。

 だからこそ、ドレイクは初めて痛みを与えてきた者たちを脅威と認識する。


 ──これまでは遊びだった。戯れであった。そこからドレイクは怒りに呑まれるが如く、リクたちを確実に殺すべき敵だと認識を改めた。


 ドレイクはそのままカガヤを押し潰そうと体を地面にこすりつける。カガヤは既に腹の下を潜り抜け、ドレイクの真横へと移動している。

 そのまま次の攻撃へ移ろうとカガヤが戦斧を振りかぶる。


 ──しかし、その斧が振り下ろされるよりも早く。

 凄まじい速度で地面から斜めに突き出した巨大な石柱が、カガヤの背中に吸い込まれ、その体をボロ雑巾のように吹き飛ばした。


 普通ではあり得ない、想像すらしていなかった攻撃に。

 刹那、リクの思考が完全に止まる。いや──足が竦んでしまったのか。


 何が起きたのかさっぱり理解できなかった。

 だが、ドレイクが出現する前に出口が岩の槍で塞がれたのを覚えている。

 魔方陣こそ見えなかったが、おそらく地属性の魔術だ。理解は追い付いたとしても、カガヤの体が落ちる落下点には間に合わない。


 背骨が折れたんじゃないかというくらいに身体が曲がり、カガヤは地面に叩きつけられる。がは、っと口から少なくない量の血が零れて、そのまま動きを止めた。


「──、あ、あぁああああッ⁉」

 そんな悲鳴じみた声が上がるのにも、時間はかからなかった。


「ハザマサ……⁉」

 リクが呼び止めようとしたのも聞こえていないのか、ハザマサは盾を構え直してドレイクに突進した。従騎士の技能──〈打撃ストライク〉だ。

 しかし〈打撃ストライク〉は自身よりも体重のある相手には効果が薄い。


 動揺によって、突進の姿勢すらままならない状態での体当たりは、当然の如くドレイクの前足に止められる。

「──……っ⁉」ハザマサが盾の裏からドレイクを見上げる。


 ドレイクは大きく裂けた口を最大限まで開き、真横に向けると、ハザマサの握るカイトシールドを器用に摘まみ上げた。


「っ、ハザマサ……! ダメだ……っ、逃げて……!」

 リクが声を絞って叫ぶが、ハザマサは目を見開いたままドレイクを凝視している。ブロードソードを握る手にも力が入っておらず、放心状態だ。

 いくら堅牢けんろうな鎧を着込んでいるからといって、至近距離から繰り出されるドレイクの攻撃を耐えられるものか。


「ハザマサ──‼」

 カイトシールドが吐き捨てられ、重厚な音を立てて地面に落ちる。

 

 それからドレイクがハザマサに向かって再度口を開くと、その口の奥が紅く揺らいだ。ハザマサの瞳が紅い光を映す。

 ──直後。

 轟音と共に爆炎が、ハザマサの全身を覆い尽くした。


「────‼」


 炎の中から聞くにえない絶叫が上がる。炎は魔術的なものだったのかすぐに消えたが、ハザマサはその場に力なく頽れた。

 鎧の下、服の至る所が焼け焦げており、肌も火傷で真っ赤になっている。

 辛うじて浅い呼吸はあるが、どう考えても無事じゃない。


「…………っ‼」

 ハザマサの元へ駆け寄ろうとして、足を止める。

 赤錆の鱗をざらざらと鳴らし、ドレイクがリクの方へと首をもたげる。


 そうして、リクは知ることになる。

 ドレイクが標的とする対象──残されたのが自分だけだということを。



 蛇に睨まれた蛙のように微動だにせず、リクは瞬きすら忘れて立ち尽くす。

 全身が脱力し、手に握るダガーの柄の感触すら曖昧になる。


 ドレイクがのそのそと近付いてくる。全力で走ればきっと逃げることはできるだろう。でも、その爪から、尻尾から逃げたとして、カガヤに撃った魔術はきっと躱せない。ハザマサをいた炎も尋常ではなかった。


 ──きっと、じゃない。ここで終わる。

 急に実感を帯びた″死″の一文字に思わず笑みさえ零れそうになる。


 逃げようにも足は一切動かない。指先ですら固まって動かせずにいる。

 間近にドレイクが迫る。リクには魔術も炎も必要ないと思われたのか、ドレイクはその前足を大きく振り上げる。


 炎よりはマシか──いやでも、物理的なのが結局一番痛いだろうか。

 体が動かない分、頭を働かせてそんな思考を巡らせる。

 ……どっちにしろ数秒後には終わりなんだけど。


 でも、クタチとユキは助けられたのだ。メイカとエルも逃がせた。

 想定外の竜種との戦闘があったにしては被害は少なく済んだ。きっと四人がダンジョンの外に出て、ギルドで報告してくれる。

 リクたちとしては、よくやった方だろう。……それで上出来だ。



 濃縮された時間の中、ドレイクが横薙ぎに止めの一撃を放った。


「────!」


 ──砂時計の砂がオリフィスを通り抜ける時のように、体感的な時間がやけにゆったりとして感じられた。

 視界に長い髪がばさっと舞った。

 想像していた以上に軽い衝撃が前身にあって、リクは背後へと倒れた。


 心臓が一気に正気を取り戻し、煩く騒ぎ立てる。

 喉奥に鉛が詰まったような感覚を覚える。なぜだか目から涙が溢れる。

 顔面から一気に血の気が引いていくのを感じる。


 ……なにが。なんで、そんなはずがない。

 そんなわけがない。そんな必要だってないんだ。

 だって確かに、逃げてもらったはずで──。


 言い訳ばかりが喉を衝く。でも、どれも嗚咽になって声にならない。

 吐き気さえ催してきて、空いた手で口元を押さえる。


 静寂で満ちた中で上体を起こし、横たわる人影の側に這っていって。

 リクは、自分を突き飛ばし、代わりに攻撃を受け、眼前にぐったりと倒れる──その少女の名を、ゆっくりと呼んだ。


「──……メイ、カ?」




 メイカは震える手を伸ばし、リクの頬に触れる。

 指先で溢れてくる涙を拭って、にこっと人懐っこい笑みを浮かべる。


「り……、くん……」

 掠れた声で、メイカがリクの名前をどこか嬉しそうに呼ぶ。


 リクが無事だったことに安堵しているのだろう。

 いつものメイカだ。何も変わらない。……それなのに。


 その脇腹のあたりはローブごと抉り取られ、何も残っていなかった。

 引き裂かれたローブが傷に張り付き、辛うじて傷口を隠しているが、どくどくと止めどなく流れ出る血の勢いは抑えられない。


 それ以上喋るのが苦しいのか、メイカは掠れた息を零した。

 ぐったりとして動きを止め、やがてその目を閉じる。




 ────。


「──……あ、あぁ、あ」

 リクは頭上から糸で吊り上げられたように、ふらりと立ち上がる。


 ……雪崩のように後悔が脳内を埋め尽くしていく。

 リクが諦めずに回避動作を取っていれば、メイカが飛び込んできてリクの代わりに攻撃を受けることはなかった。

 こうなったのは全てが、リクの責任だ。


 ──俺がやるべきことを見誤った。師匠の教えを忘れて、死を目前に諦めた。

 身勝手に死を受け入れようとした結果、仲間を危険に晒した。


 ダガーを握る手に力を込め、師匠のくれた指環ゆびわの感触を確かめる。

 ──足は、何の支障もなく動く。腕も満足に振るえる。


「……はは」

 乾いた笑みを零す。

 なんだよ、俺。まだ戦えるじゃないか。


 激情に駆られるまま、リクは顔を上げ、紅い双眸を横目に流す。


 ──と。

「グガァ……アア」と、ドレイクが怯えるような鳴き声を漏らした。

 竜種という絶対的強者がこれまで感じたことのない感情。──生物的恐怖。

 竜としてではなく、生物としての本能が危機を察知する。


 その、今まで獲物を捉えるだけだった眼に、″深緑の瞳″が映る。


 ──その色は赤錆色のドレイクにとって、初めて目にする恐怖の象徴だった。

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