第1話『記憶喪失』
──呆然と、空を仰ぐ。
きっと誰もが想像する通り、淡い緑色の空がそこにある。数か所が布を引き千切ったみたいに裂けていて、そこから
どこもおかしくないはずなのに、何かが、違う。そんな気がする。
そんな風に考え事をしていると。
ドン、と背後から肩に衝撃を受け、前のめりにこけそうになりながら振り向く。
「……っ、と、と」
「ちっ……こんな往来でぼーっと突っ立ってんじゃねえよ」
「え、あ……、すみません……」
カツアゲでもされるかと思った。しかし男はこちらの顔を見るなり、「……分かればいいんだよ」と急に威勢を喪失させて、足早に立ち去っていった。
男の反応も気がかりだが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
全身が
きょろきょろと視線を左右に動かし、周囲を見渡す。
多くの通行人の行く手、道の左右には様々な露店が
店先には用途不明の雑貨や、初めて目にする果実なんかが陳列されている。看板や立て札に書かれてある文字は全く読めない。
景色の全てに見覚えがなかった。視界に入る何もかもに違和感を覚える。
「……なんなんだよ、これ」
そう呟いた自分の声にすら、聞き覚えがない気がした。
──どうやら記憶喪失ということ、らしい。
◆
なだらかな斜面を登りながら、見知らぬ街を眺める。
露店の並ぶ商店街らしき地帯を抜けて、短い石橋を渡り大通りへ。
ときどき
視界に入る建物は石造建築が最も多く、次いで木造が多い。
商店街ほどではないが、大通りも人通りは多かった。
視線を感じるのは自意識過剰か、実際見られているのか。多分、後者だ。
でも何より気になるのは、通りかかる人たちのその出で立ちだった。十人に三人くらいの割合で、剣や杖──いわゆる武器を携帯している。
服装も、鎧や
街中を歩きながら、ここに来るまでの記憶を辿ろうとしたが徒労に終わった。
というか、思い出そうとすると激しい頭痛に襲われて、苦悶の声を上げながら頭を抱えることになった。
思い返そうとすればするほど、記憶が指の隙間から滑り落ちていくような感じがするのだ。記憶にない景色が脳裏に浮かび上がり、かと思えば霧散していく。
結局、思い出せたのは自分の名前だけだった。
──リク、だと思われる。確信が持てないのは、証明ができないからだ。
しっくりくるかと問われれば、そんな気もするし、違う気もした。
服や靴についても記憶にないものを着用しているようだったが、襲い来る頭痛に尻込みして、一旦は深く考え過ぎないようにしておいた。
一時間は歩いたと思う。けれど、記憶に引っ掛かる手掛かりは何もない。
なんというか、かなり心細い。不安で視野が狭窄してくる。
一度、街路を行く人に色々聞いてみようとはしたのだ。
なるべく温厚そうな男の人を選んで。だが、声をかけようと近付いた瞬間、明らかに視線を逸らされてしまった。理由は分からないけど、それで心が折れた。
──これから、どうすればいいのだろうか。
記憶喪失いぜんに、迷子だ。
でも、だからといって当面、何をどうすべきなのかが分からない。
自分の置かれた状況を簡潔に整理してみる。
名前以外何も思い出せない。着ているもの以外に金銭も所持品もない。
「……いや、無理だろ。ほんと、どうしろと」
切羽詰まった状況に思わず泣き言を零す。
情けなく周囲を見回して、道行く人に再度声をかけようとする。
でも、話しかけたとして、何を言えばいいんだ?
「すみません。俺のこと知ってますか?」とか、何言ってるんだって感じだし。
結局、もといた商店街に戻ってきてしまった。
露店の前に立っているわけにもいかず、道の隅で突っ立つ。
途方に暮れて再び空を見上げる。
心なしか、さっきよりも空が暗くなっているような気がする。
夜になるのは、まずい。帰る家が分からないと路頭に迷うことになる。
それに、お腹も少し減っていた。ずっと食べるものがなければ餓死するだろう。
──あれ。思っていた以上に、やばい状況……?
「──君、もしかして」
と、斜め後ろから声をかけられて、リクははっと振り返った。
そこに立っていたのは一人の好青年だった。年齢は二十代半ばくらいだろうか。
皮製の鎧を着ていて、背中越しに剣の柄らしきものが見える。
やや
「もしかして……って、俺のこと、知ってるんですか?」
期待を込めてリクが訊くと、青年は申し訳なさそうに首を横に振った。
「いや、すまない。君のことは知らない。けど、困ってるかと思ってね。ここらじゃ見ない服装だけど、君、どこから来たの?」
「……それが、どこから来たのか分からなくて。何言ってんのって思われるかもなんですけど、嘘じゃなく……その。記憶喪失らしくて」
嘘っぽく聞こえるだろうか。だけど、間違ったことは言っていない。
身分を証明できるものが何もないから、正直である以上にできることはない。
「名前は、思い出せる?」
「リクです。それも多分で、自信はないんですけど……」
リクが答えると、青年は納得がいったように笑みを作って頷いた。
これだけの情報で何が分かったというのだろうか。
「うん。リクはきっと、『迷い子』だね」
「迷い子……」
いや、まあ。確かに迷子ではあるんだろうけど。そんな明言されても。
「君が思っている以上に、この世界では意味のある言葉でね。もう一つ質問なんだけど、リク。ミスルトゥ──この言葉に強い聞き覚えは?」
「……いえ」
ミスルトゥ。聞いたことがあるかないかで言われれば、あるような気もする。
けど、その程度だ。強く聞き覚えのある言葉ではない。
単語の意味だって分からない。
青年はさっきまでよりも深く頷いて、どこか意味ありげに微笑んだ。
「なら、覚えておくといいよ。それが、この世界の名前だ」
◇
リクは青年に連れられ、大通りへと引き返していた。
どうやら『迷い子』とやらの面倒を見てくれる施設があるらしい。まさに渡りに船だった。さっきまでの不安が嘘のように解けていく。
彼が騙している可能性は考えなかった。疑ってかかれるほど精神的に余裕がなかったのだ。それに、どう見ても悪い人には見えなかった。
道中、彼は色々なことを教えてくれた。
この街はグレスレニアと呼ばれる君主制の国らしい。
ほとんどの人間種がこの国に住んでいて、中央区画には城もあるのだとか。
ちなみに今いるのは最南東にあるエル・フォートという区画だそうだ。
無論と言うべきか、どの話にも聞き覚えはなかった。
もう一つ重要なこととして、グレスレニアは二百年以上も前から常に、戦争の真っただ中にあるということについても教わった。
人間種という言葉で何となく察していたが、この世界──ミスルトゥには他の種族も存在する。亜人種と魔獣がいて、ほとんどは人間と敵対しているらしい。
「亜人種と魔獣──合わせて魔物、モンスターって呼ばれてるんだけど、魔物と戦ってグレスレニアの外を探索する非正規兵のことを、
「
言われてもぱっとしない。
亜人種とか、魔獣とか。あまり実感がないというか、ピンとこないというか。
魔物との戦争は今この時も続いていると彼は教えてくれたが、リクの目にはこの街──エル・フォートは至って平和であるように映った。
いや、確かに街の端には見張り台らしき塔が立っていたり、胸元に紋章の刻まれた鎧を着た、おそらく正規の兵士なんかが歩いているのを目撃することもあったわけだが、実際に魔物が街中に出ているわけではなさそうだし。
「あと、もう一個気になることがあったんですけど……」
短い橋を渡りながら、リクが訊ねる。
「気になること?」
「はい。なんだか人からの視線を感じるのに、避けられてる気もするっていうか……」
改めて首を動かし周囲を見る。
さっきまでよりは視線を集めていないし、避けられ度合いも低いように感じるが、それはきっと彼に同行しているおかげだろう。
「ああ。リクが避けられてたのは……多分、顏のせいじゃないかな」
「え……」
言いづらそうに発された彼の言葉に、思わず声が漏れる。
人に避けられるレベルの顔って。聞いただけで大分へこむ。
自分の顔ってことは、これまでもその顔と付き合ってきたんだろうけど。
「いや、ごめん。言い方が悪かった。顔は優しそうだし、良いと思うよ。ただ、ちょっと。良かったらそこで、橋の下を覗いてみるといい」
言われた通り、リクは石橋の
ここの水路はせき止められているのか流れがかなり穏やかで、顏が水面に映った。その顔が驚いた表情になるのに時間はかからなかった。
「この、
「うん。火傷みたいに見えるけど。
顔の右下、顎の下から伸びる巨大な痣を指でなぞる。
痛みこそないが、彼が言っていた通り、火傷にも見える。服の半袖を捲って痣を見てみると、肩まで広がっていくようにそれは続いていた。
顔自体は前髪が長い以外にさして特徴のない、冴えない顏だったが、これでは確かに怖がられるのも無理はないかもしれない。
「さて。もうすぐだよ。行こうか」
「あ……はい」
先に歩き出した青年の後を着いて橋を渡り、また舗装路を歩く。
噴水のある広場を抜け、短い螺旋階段を上り、さっきとは別の道から大通りへ。しばらくすると見えてきた巨大な木造二階建ての建物の前で、彼は足を止めた。
両隣には剣や鎧を扱っている店があり、奥には宿らしき建物も見える。
それは横に広い、左右非対称な建物だった。屋根も凝った造形をしている。
言葉での表現が難しいのだが、三角屋根が二つ付いているようだ。
青年の隣に立って、その建造物を下から見上げていく。
ほとんど黒に近い焦げ茶色の外観。
まず目につくのは、建物正面に掲げられた大きな看板だ。相変わらず、書かれてある文字は読めないが。
こちらを出迎えるように両開きに開いた大扉からは、武装や帯剣した人たちが頻繁に出入りしていて、若干気後れしてしまう。
二階には沢山の窓とバルコニーがあって、そこにも人が立っていた。
他に象徴的なもので言えば、黒い竜の首を剣で貫く紋章が描かれた赤地の旗が、ばたばたと風にはためいている。
「ここがエル・フォート
早口にそう言って、彼は手のひらをこちらに振ってくる。
「あ、えっと……」
引き留めるかどうか真剣に迷った。
まだ聞きたいことがあるというか、できれば中まで着いてきて欲しいというか。見知らぬ地でまた一人にされると思うと心細くて仕方がなくなる。
彼はそんなリクの反応を勘違いして受け取ったようで、「ああ。お礼ならまたいつか、今度でいいから!」と告げて、
これはダメだと察し、リクが「ありがとうございました……!」とお礼の言葉を送ると、青年は一瞬こちらを振り返って再度手を振ってくれた。
屈託に引っ張られ、リクはその背が見えなくなるくらいまで見送ってから、ゆっくりとギルドの方へ視線を戻した。
そこで青年の名前を聞きそびれたことにも気付いたが、今更だ。
現状、お礼の品の一つすら用意できないのだから。
ギルドが何をするための施設なのかとか、この世界のこととか。色々と気になることは残っていたが、入ってみれば分かることだろう。
受付があるということは、何らかの案内施設なのだろうし。
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