【第六】鴉若君遭難の事
果たして、琵琶の音がいつ止んだか——カラスの若君の記憶は定かではございません。気づけばしゃにむに羽を打ちつつ、鴨河を
河面を跳ねる春の光が視界を翔けながら
と云うて、その景色を愉しむ余裕はなく、河風は背後から追い立てるように吹き下ろし、羽をいくら打っても気流乱れて翼は宙をもがくばかり… 風はつかめズ、浮力得られず、若君はいくども落ちかかり、いくども河面を蹴り立てながら、ついに荒神橋の手前の
うららかな春の日和でございました。空高くヒバリが
さいわい若君はご無事なご様子… 河砂利の上に大の字書きつつ、しばらくそのさまを仰ぎ見ておりました。
くちばしから河岸の草やぶに突っ込んだ時には「ダメだこりゃ、
然れどモ、吾が身の無事が心に沁みるにつれ、吾が心のミジメさが身から湧いて参りまシタ。ちょうどそれは日曜日の真っ昼間、新宿伊勢丹前の歩行者天国で、いい大人がスッ転んだ時に憶えるミジメったらしさに似てございます。
この時、キ●ィちゃんがごとき
いかで啼く 涙からすの勝手でせう
(どうして啼くのか、涙枯らすほどに… それはカラスの勝手でしょ。青空を見上げると揚げ雲雀が声を立てて嗤っているよ)
するとまたハクチョウが数羽、空を南北に裁ち切るように飛んでいくのが眺められましたので、そこでもう一首——
白毛鳥 都おほじを飛んでゆく
みなみの空へ あはれあはれに
(♪し~●けど~●、●~ん●●~く●の●~ら~へ、●●●、●●め~)
——なぜ、かようなことになったのじゃ?
若君の脳裡に浮かんだのは、白菊の花開くがごとく立ち上がるシラサギの姿でございマシた。サギは頸を斜に傾げ、こちらを
若君のくちばしから呻き声が痛々しげに漏れました。蘇った羞恥心に「思い出し笑い」ならぬ「思い出し身悶え」をしたところ、石瀬にぶつけた左脚に激痛が走ったのでございます。
——嗚呼、どうしてかようなことに、と若君は自問をくり返しました。
そもそも何故あの時、逃げ出したのか…? 思い当たるのは、かのシラサギの瞳にございまス。真実、シラサギがなにを想って若君を凝視めたか知る由もないところでございますが、あのまなざしが己の拙い横笛を責めているようで、若君はイタタマレナクなったのでございまス。
——されど、あの琵琶の音を前に、横笛を
もの悲しき琵琶の音に、
あの刹那、カラスの若君の眼には河瀬から
——いま一度あの琵琶に笛の音を重ねてみたい、とさように想い、若君はふだん横笛を忍ばせている羽衣の懐へなんの気もなく手羽を差し入れました。すると手羽先に手応えはない… しばし訝しんだものの、つづけて袂を探ります。されど、やはり横笛は見当たりません。羽衣の
若君は不安に捉われ、左脚を引きずりながら横笛を求めて辺りを這い回りはじめました。
——どこじゃ、どこで失くした? 河原のヤブか? 鴨河のなかか? まちがって吞み込んじゃったか…?
羽衣乱れ、砂埃にまみれるのもかまわず、若君は辺りを探し回りました。鴨河に飛び込む勢いで
じつはかの横笛、兄・
その後、横笛は母からの形見として真玄に受け継がれましたが、「わしは管絃に向かぬゆえ…」と腹違いの弟へ預け託したのでございます。それを失くすなどということがあってよいものか… 若君は両の手羽でなんども汀を打ちました。
横笛は銘を「
「
もとより、くちばしの黒いトリと云うのも
では、この「黒嘴囀」と云う銘の由来はなんであるか…? どのような由緒のある名笛であるか…?
ひとつ、禽界で
【第七】につづく——
◆参考文献
叶内拓哉・安部直哉・上田秀雄『山渓ハンディ図鑑7 新版 日本の野鳥』山と渓谷社 2016年
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