思い返せば数ヶ月前のこと。


 麗麗れいれいが目を開くと、目の前に広がっていたのは見覚えのない天井だった。


 ──ここ、は……?


 王宮の豪華絢爛な絵天井でもなければ、珀鳳山はくほうざん祝家しゅうけ修行道場の古びた天井でもない。上品な暗色の木材で組まれた天井は、明らかに貴人が住まう邸宅のそれだった。


 意識がおぼろに霞んでいる。何だか随分長い間眠っていたような気がした。


 ──私……?


 頭がうまく回らないまま、麗麗は視線をゆっくり周囲へ巡らせる。


 麗麗から見て右側には、落ち着いた濃緑色の絹布が天井から垂れていた。全身が沈み込むような柔らかな感触が背中にある。恐らく麗麗は上質な牀榻しょうとううやうやしく寝かされているのだろう。掛布こそかけられていないようだが、それを差し引いてでも麗麗の人生で今この瞬間身を横たえている牀榻が一番寝心地が良いと断言できた。


 ──どこ、ここ……


 意識がまだおぼろげではあっても、この状況がおかしいということだけは分かる。


 本能的な違和感の原因を求めて、麗麗はゆるゆると己の記憶を辿り始める。同時にピクリと両の指先が震え、無意識のうちに両手は己の眼前にかざされていた。


 その動きに合わせて、スルリと両の袂が腕を滑る。滑らかな感触は、上質な絹地のそれだ。


 ──あれ? 私、いつの間に絹地を着るような……


 祝家の道場で着ていた修行着は、汚れても破れても問題ない麻であったはず。意識はそう疑問を抱いているのに、体はなぜか妙に絹地の感触に慣れている。


 そんなチグハグさに混乱するよりも先に、ぼんやりとした視界は眼前にかざした両の手元に焦点を合わせた。


 その瞬間、鮮烈な色が麗麗の目を射る。


「……っ!!」


 鋭い呼吸の音を聞いて、初めて自分が息を詰めたのだと気付いた。頭を殴られたような衝撃に、麗麗の意識がようやく完全に覚醒する。


 ──紅。


 悪女としての己を彩るために選んだ色。王宮に身を置いた麗麗の周囲を彩っていた色。最後に己の周囲に燃え盛っていた炎の色。


 が、最期に見つめていた鮮血の色。


 そんな紅に身を包まれて、誅殺されて死んだはずである『りん開国以来最悪の悪女』こと『紅の邪仙女』こう麗麗は、二度と開かないはずであった目を開いていた。


 ──ちょっと待って!? どういうこと!?


 反射的に跳ね起きた麗麗が己の体に視線を落とせば、麗麗の全身は燃え立つような紅の襦裙じゅくんに包まれていた。一目で上等な物だと分かる襦裙は全て紅で揃えられていながら、織りの種類と濃淡の使い分けでひどく上品な作りをしている。


 麗麗が悪女の象徴として王宮でまとっていた装束とは、根本からして格が違う。こんな上質な衣を身に纏える人間など、国の上層部にほんの一握りしかいないはずだ。


 そう、例えば、皇帝一族に名を連ねるような人間とか。


「────っ!!」


 そこまで思い至った瞬間、麗麗は己の首を締めるかのように首に手を当てていた。だがその指先は己の肌に触れるよりも先に首に幾重にも巻かれた紅の絹布に阻まれる。


 領巾ひれのように軽やかな絹布は、左の胸元にかかる形で華やかな飾り結びにされているようだった。顎下あごしたの死角に結び目が来ているせいで、鏡がなければ解くことはおろか全容を確認することさえできない。


 華やかな雰囲気は愛猫に首輪を巻くようなそれだが、ガッチリと隙間なく絹布が首筋を埋める様は、まるで『肌を誰にも見せたくない』という巻き手の執着が具現化したかのようだ。少しでも肌の様子を探ろうと指を潜らせてみても、固く巻かれた絹布は体の主である麗麗の指さえ拒否してしまう。


 ──どうなってるのよ、これ……!!


 麗麗の記憶が正しいならば、この紅絹もみの下にはみにくい傷跡が走っているはずだ。あるいは『傷跡』などという可愛いものではなく『切断面』と呼んだ方が正しい代物か。


 ──私は、首をねられて死んだはず……!


 邪術を極めた悪逆非道の『邪仙』。それが麗麗のあるべき姿であったはずだ。


 琳国王宮に渦巻く悪事、その全ての根本に通じ、王宮を牛耳っていた『紅の邪仙女』紅麗麗は、琳国第五皇子翠熙すいきに誅伐され、全ての悪は成敗された。


 全てはそんな風に『めでたしめでたし』で終わっていたはずだ。むしろそうなっていないならば大いに困る。


 なぜなら麗麗は琳の王宮に蔓延はびこる悪を全て纏めて一掃するために、文字通り命を賭けて悪女を演じていたのだから。


 ──私が死んだこと自体は間違いないはず。あれだけの傷を負っていながら、命を取り留めることなんてできるはずがない。


 今や麗麗は己の最期をありありと思い出していた。翠熙が繰っていた仙剣『琅玕ろうかん』がブッツリとこの首を薙いでいった感触も、一発で綺麗に首を刎ねた翠熙の腕前への感嘆も、完璧に事をし終えた満足感も、全部全部覚えている。


 ここが冥府の底であるというならば話は別だが、こんなに快適な場所が冥府などであるはずがない。


 己が極楽や仙界に召し上げられることは確実にないはずだから、ここが冥府でないとすれば麗麗は何らかの理由で現世に蘇ったということになる。死んだ時に恨み言など一切なく、綺麗サッパリ未練なく死ねた麗麗が幽鬼に身をとすとは考えにくい。ならば誰かに反魂はんごんされたと考えるのが一番筋が通る。


 そこまで考えが及んだ麗麗は、ゾッと背筋に走る悪寒に思わず己を抱きしめるように体に腕を回した。


 ──一体誰がそんな真似をしでかしたっていうのよ。反魂法を用いて死者を蘇らせるなんて、邪道も邪道のド邪道じゃない! まともな人間がやることじゃないわ……!


 ヒトは決して生死の境を越えてはならない。反魂法はその境を越えて死者を現世へ蘇らせる、あらゆる邪術の筆頭にして秘奥だ。


 そんな禁術中の禁術に手を出したということも問題だが、術を成功させて麗麗を目覚めさせたということも問題だ。誰が何を望んでこんなことをしたのかはサッパリ分からないが、このまま流れに身を任せてはマズいということだけは今の状況でも嫌になるくらいに分かる。


 ──私が今どんな状況に置かれているのかは気になるけど、とにかくここから逃げ出した方がいいかも……!


 ならば善は急げとばかりに麗麗は行動を起こした。


 幸い体は問題なく動く。裙の裾を乱すこともいとわず、麗麗は牀榻の上に片膝と片手をついて外へ飛び出そうと身構えた。


 だが麗麗が実際に牀榻を飛び出すことはなかった。


 それよりも先に、牀榻の外で動きがあったから。


 ──え?


 フワリと傍らの紗幕が微かに揺れる。麗麗が反射的に動きを止めて視線を向けた瞬間、絹布は白くスラリとした、だが一目で男のものだと分かる指先に割られた。


 そのまま麗麗が反応できないまま絹布の先を見つめていれば、見知った顔が絹布の向こうから現れる。


 よく最高級の翡翠にたとえられていた麗しい御尊顔は、牀榻の上に片膝をついた姿勢で構えた麗麗を見ると珍しいくらい素直に驚きをあらわにした。対する麗麗もこぼれ落ちんばかりに目を見開いているのが、至近距離から見上げた彼の瞳に映り込む自分の姿で分かる。


 麗麗は反射的に、考えるよりも早く唇を開いて彼の名前を呼んでいた。


「すい、き……?」


 酷くかすれた声は、麗麗の耳でも微かにしか拾えない。


 だがきちんと相対した相手の耳に自分の声が届いたことは、キュッと相手の瞳が縮まったことで分かった。さらに気付いた時には勢いよく伸びてきた腕に麗麗の体はスッポリと抱き包まれている。


 ──なっ、え……!?


「麗麗っ!!」


 聞き慣れた声の聞いたことがない悲痛な叫びは、確かに麗麗の名を呼んでいた。何だ何だ何事だと混乱している間に、麗麗の体を抱きしめる腕の力は全身の骨が砕けそうなくらい強くなっていく。


「麗麗っ、麗麗……っ!!」

「ちょ……っと!」


 元から寡黙である翠熙は口を開いても己の内心を言葉で表すことが苦手だ。普段はそれを鉄壁の理性とキレる頭脳で補填しているが、感情が揺れると途端に語彙が下がる。そんな翠熙の内心をいつだって的確に読み取り、代弁してやるのも麗麗の役割のひとつだった。


 そう、役割のひとつのだ。


 麗麗が珀鳳山を飛び出し、琳王宮の悪女となるまでは。


「……っ!」


 今の状況を思い出した麗麗は、何とか動かすことができる下半身を使って翠熙の脇腹に膝蹴りを叩き込む。


 麗麗からの反撃を予想していなかったのか、麗麗としては手加減したつもりだったのに翠熙の体は一瞬わずかに宙に浮いた。たまらず麗麗に回した腕を翠熙が緩めた瞬間、麗麗はスルリと翠熙の腕の中から体を逃がすと牀榻の奥へ飛び退すさる。


「説明してちょうだい、翠熙」


 きちんと腹から声を張ったはずなのに、やはり麗麗が発する声はかすれたままだった。恐らく驚きのせいではなく、喉を掻っ切られた上に、使せいで様々な機能が退化しているのだろう。


「これは一体、どういうこと? あんた、私に何をしたの?」


 麗麗からの攻撃に拘束こそ緩めたものの、翠熙は倒れることなく悠然と牀榻の傍らに立ち続けていた。光が差し込むと翡翠のように緑を帯びる瞳は今、寝室の暗がりにいるせいで闇を流し込んだような漆黒に満たされている。


 李翠熙。


 琳国第五皇子でありながら、王宮に蔓延る仄暗い諸事情から珀鳳山祝家に押し込められていた男。麗麗と同日入門の同門術師で、一番弟子の座を巡ってしのぎを削りあった相手。麗麗の一番の理解者で、相方で、伝えるつもりがなかった片恋の相手。


 そして彼は、麗麗の人生の幕を下ろしたでもある。何せ麗麗の首を刎ねた張本人だ。さらに言えば麗麗が自ら悪女となってまで琳王宮の悪事を一掃したかった原因の一端が、この李翠熙という男にある。


 ──翠熙になら、できる。


 混乱の渦に叩き落とされながらも、冷静さを残した頭の片隅はジワジワとこぼれ落ちてくる情報にひとつの推論を描き始める。


 その推測に、麗麗の背筋がスッと冷えた。


 ──反魂法の詳細を、私達祝家の術師は禁術として教わる。自らが使うためではなく、使った術師と術師が蘇らせた人間を討伐するために。


 術に対する知識。術を行使するに足る腕前と霊力。それらを兼ね備えた人間は、麗麗が知る限り己の師と、今目の前にしている李翠熙くらいしかいない。今ここに翠熙が姿を現したことから考えれば、こんな事をしでかした最有力候補は翠熙で間違いないだろう。


 それでは一体、何が動機なのか。


 ──こんなことをしでかしたって世間に知られれば、地位も名声も全部纏めて地に落ちる。琳の玉座も、珀鳳山掌門の座も追われるっていうのに……!!


 麗麗がその人生をもって翠熙に贈った全てが水泡に帰す。同じことは翠熙だって理解できているはずだ。


 つまり事を成したのが翠熙であるならば、翠熙はその全てを放棄してでも麗麗を蘇らせたかった強い動機があるということになる。


 だがその『動機』が麗麗には分からない。


「……麗麗」


 麗麗が緊張をみなぎらせて翠熙を睨み付ける中、フッと息を吐いた翠熙は牀榻の中に分け入ってきた。深い緑の袍の裾を割った翠熙の膝が、ギシリと牀榻を軋ませる。後頭部でひとつに纏め上げられた黒絹のごとき髪がサラリとこぼれて、翠熙の身を包む袍の上を滑り落ちていく微かな音が妙に麗麗の耳についた。


 広いと言っても所詮は牀榻の中だ。奥が壁に面しているのもあって逃げ場はない。ギリギリまで体を後ろへ引いた所で、翠熙が左右一歩ずつ膝でにじって腕を伸ばせば、その指先はたやすく麗麗を捉える。


 麗麗がギッと翠熙を睨み付ける先で、翠熙は両腕と奥壁を使って麗麗を囲い込んだ。その上で翠熙は色の薄い唇をゆっくりと開く。


「私の伴侶になってほしい」


 低くよく通る清廉な声は、麗麗の意識に染み込むかのように響いた。


 寡黙な性質たちでありながら、翠熙は声が低く変わる前から、どんな喧騒の中にいても呪歌を貫き通すことができる非常に聞き取りやすい声をしている。今のこの瞬間も、翠熙が口にした言葉は余すことなく麗麗の耳に届いていた。


 しかし麗麗はこう返すしかない。


「何て?」

「珀鳳山の祠堂にて私と三拝を挙げ、私の生涯唯一の伴侶になってほしい」


 麗麗の気の抜けた声に、翠熙は丁寧に己の願いを説明し直してくれた。


 これでは聞き間違いようがない。たとえ飛び出てきているのがどう考えても間違いでしかないトンチキ発言であったとしても。


「麗麗、私は本気だ」

「でしょうね」


『嘘でしょ?』『正気なの?』『何言ってるの?』といったたぐいの言葉を口にするよりも、翠熙がすかさず言葉を足す方が早かった。だから麗麗は気が抜けた肯定の言葉を口にするしかない。


 ──いや、本気なのはあんたの表情を見ていれば分かるんだけども……


 顔に浮かぶ表情が薄いせいで周囲から『何を考えているのか分からない』と言われがちな翠熙だが、何かと翠熙と行動することが多く、最後には二人で一対みたいな扱いをされていた麗麗には翠熙の内心がこれ以上ないほどによく分かっている。


 ほんのりと目元に紅をのぼらせながらも真剣な視線を麗麗に据えた翠熙は、先程から一切目をらそうとしない。これは本気ガチなやつだと、麗麗は顔を引きらせながら考える。


「ちょっと待って、翠熙。状況がサッパリ分からないんだけど」


 とりあえず互いに落ち着こう、と麗麗は自分と翠熙の顔の間に広げた両手を立てる。翠熙の整った顔立ちは、こんな状況であっても至近距離で見つめ続けるのは危険だ。


「まず、ここはどこ?」

「私の隠れ家のひとつだ。お前と私がここにいることは、極少数の人間しか知らない」

「私、あんたに首を刎ねられて死んだんじゃなかったっけ?」

「私が反魂法を行使して蘇らせた。体は生前のお前のもので、刎ねた首と体は私が霊気を注ぎ、一年かけて繋いだが、まだ繋がりはもろいからくれぐれも注意してくれ」

「つまり、今はあの日から一年近くが過ぎているのね?」

「ああ。蘇生が遅くなってすまない」

「ところであんた、今は何してるの?」

「お前に婚儀の申し込みをしている」

「ごめん、訊き方が悪かった。今のあんたのご職業は?」

「無職だ。だがそこそこに私財は持っているし、稼ぐ方法も……」

「はぁっ!?」


 なるべく淡々と、ひとまず諸々の感情は脇にどけて翠熙と問答を交わしていた麗麗だったが、さすがにこの発言には冷静さを取り繕うことができなかった。対する翠熙は麗麗の頓狂とんきょうな声にパチリと目をしばたたかせる。


 そんな『何を一体驚いている?』と言わんばかりの翠熙に、麗麗は思わず指を突きつけた。


「ちょっと翠熙! 私を誅殺したのはあんたなんでしょっ!? 紅麗麗討伐の功績で、玉座も次期最掌門の座もあんたのもんになったんじゃないのっ!?」


 あまりにも叫びすぎたせいなのか、麗麗の喉からは早くもかすれが取れ始めていた。徐々に生来の張りと伸びやかさを取り戻していく麗麗の声を喜ぶかのように目を細めながら、翠熙は小さくあごを引く。


「確かになった。この一年、私は皇帝代理として、また次期掌門最有力候補者として、各方面に注力してきた」

「だったら何で無職っ!?」


 皇帝代理ということは、即位はしていないということか。そうであってもその肩書きは明らかに国政のいただきに座す者のものだろう。どこからどう聞いても『無職』などとはほど遠い。


 状況を整理しようと頭を高速回転させているせいで目が回りそうだった。そんな麗麗の目の前で、翠熙は妙に清々しい顔で麗麗の絶叫に答える。


「お前が目を覚ましたからな」

「はぁっ!?」

「帝位継承権も、珀鳳山次期掌門の座も、現時点を以て放棄する。麗麗、私はそんなものよりお前が欲しい」

「そんっ……!?」

「麗麗、私はお前を失ってから嫌になるほど突き付けられた。私にとってこの世界で最も重い存在は、麗麗、お前であると」


 あんまりな物言いにもはや言葉が見つからない。


 そんな麗麗に畳みかけるかのように、翠熙は肘を曲げて麗麗との距離を詰めた。


 一度翠熙に指を突きつけたせいで、今は翠熙の視線を遮る物が何もない。見慣れていても、美男の顔はやはり美しい。それが片恋の相手ともなれば、見惚れるなという方が無理な話ではないだろうか。


「麗麗の傍にいられるならば、世界の全てを敵に回してもいい。この一年、私がどんな思いで過ごしてきたのか、お前には分かるか?」


 思わずほぅっと見惚れてしまった麗麗は、翠熙の指が己の髪をく感触でハッと我に返った。慌てて翠熙を見つめ返せば、翠熙は一房すくい上げた麗麗の髪に見せつけるかのように口づけを落とす。


「今度こそ私は、世界の全てを敵に回してもお前の手を離さない」


 ──あ、これ、本気だ。


 その言葉に、視線に、仕草に、麗麗の胸にストンッと確信が落ちる。


 甘い甘い、感情。麗麗の片恋が報われる展開。


 だというのに麗麗の胸に満ちたのは、ヒヤリとした恐怖だった。


「馬鹿、じゃない、の……?」


 小さくこぼれ落ちた言葉が微かに震えていた。きっと言葉だけではなく、麗麗自身も震えている。いまだに麗麗の髪から指を離していない翠熙は、そのことに気付いただろう。


「あんた、自分の立場、忘れたわけじゃないでしょ?」


 麗麗は自分の弱さを他人ひとに知られるのが嫌いだ。昔から弱い自分が嫌いで、だからこそ誰よりも修行に打ち込んだ。人前で体が震えそうになっても、その恐怖をまるごと理性と胆力でねじ伏せてきた。


 そんな麗麗をして、体の震えが抑えきれないほどの、恐怖。


「あんたは! 玉座か掌門高座、どちらかの椅子に座ってなければ、身内に殺されるのよっ!? だから私は……っ!!」

「どちらかの座が確実に私に回ってくるよう、自らが悪女になってまでお膳立てをした、ということか」


 翠熙が静かな声で続けた言葉に、麗麗は唇を噛みしめると視線を逸らした。


 ──別に、それだけが理由じゃないわよ。


 珀鳳山を飛び出した時、翠熙とはほぼ喧嘩別れで、最期に会った時は立場が『悪女』と『英雄』だったからろくな会話をしていない。麗麗は己が『紅の邪仙女』となった理由を翠熙に明かしてはいないし、その人生が幕を降ろした後も理由を覚らせるつもりは一切なかった。


 だというのに翠熙は、麗麗があんなことをしでかした一番大きな理由に気付いてしまっている。気付いたからこそ、こんな目で麗麗を見る。


 ──感情を読ませない『氷の貴公子』だったんじゃないの、あんた。


「お前ほど『悪女』という言葉に縁遠い人間も、そうそういない」


 きっと翠熙は今この瞬間も、麗麗が視線を逸らす前と変わらず、苦しそうな感情を湛えた瞳で麗麗のことを見つめているのだろう。


 心に深い傷を負った者特有の、たやすく踏み割られてしまいそうな、薄氷うすらいのような瞳で。


「『仙家政治不干渉』の度が過ぎて、救われない民が無碍むげに命を散らす様が見ていられなくなったのだろうとは思っていた。その全てを把握し、全てを一掃するためには、自らが悪の親玉の座に収まり、全ての根本に繋がるしか方法がなかったのだと。そのために自らを悪女として祀り上げさせたのだろうと。そこまでは予測できていた」


 あからさまに視線を逸らした麗麗から視線を逸らさないまま、翠熙は淡々と言葉を続けていた。その全てが正鵠を射るせいで、麗麗はさらに顔をそむけることしかできない。


「……だがそれよりも先に、『翠熙のため』などというくだらない理由が出てくるなんて」


 だがその一言には顔を背け続けることができなかった。


「くだらないって何よっ!?」


 バッと顔を上げると、翠熙の手から麗麗の髪が逃げた。結わずに下ろされた髪は、麗麗の激情を表すかのように激しく揺れると、翠熙を叱咤するかのように腕を叩く。


「あんた、私にあんたがむざむざ殺される様を黙って見てろって言いたいのっ!?」


 そう、あの時の翠熙は、麗麗が珀鳳山を飛び出していなければ、皇帝の勝手な一存で罪もなく殺されていたかもしれなかったのだ。


 厄介者で、邪魔者の第五皇子。王宮を追われていながら、追放された先でものし上がった目の上のたんこぶ。


 そう翠熙が目されていたことを知っていたから、麗麗は誰の目にも『この御方は世に必要な存在なのだ』と分かりやすく示す必要があると考えた。


 たとえすでに何事にも誠実に向き合う姿勢だけで、功績を喧伝せずとも民から密かに翠熙が支持を集めていたとしても、そんなささやかなものだけでは翠熙の身を守れないと感じたから。


「あんたは誰よりも琳の行く末を憂えていたのにっ!! 性根が腐ったやからの勝手な思惑で幼くして王宮を追い出されて! だからって誰も恨むことなく修行に打ち込んで、次期掌門に一番近い場所まで登りつめたのにっ!! それなのにこんな理不尽ったらないじゃないっ!!」

「では、その理不尽を覆すためにお前の命が散らされたことは、理不尽ではないと言うのか?」


 麗麗は全力で翠熙を睨み付ける。だが翠熙がその視線に押し負けることはなかった。それどころか、翡翠の煌めきを秘めた瞳は、麗麗が見たことがないほどの激情を垣間見せながら麗麗を睨み返す。


「お前が私のために死ぬ必要なんて、どこにもなかったはずだ」

「そん……っ」


 その瞳に一瞬、畏怖の念が募ったことは事実だった。


 だが麗麗からの反論が途切れたのは、その畏怖に身がすくんだからではない。


「惚れた女に惚れた女自身を殺させるお膳立てをされて! 私に理不尽な目しか合わせない世界の行く末を押し付けられて、私が喜ぶと、お前は本気で思っていたのかっ!?」


 ダンッと体に走った衝撃に息が詰まる。反射的に閉じていた目を慌てて開けば、麗麗の体は牀榻に押し倒されていた。麗麗の体を引き倒した翠熙の腕はいまだに麗麗の右手首を握りしめている。キリッと骨が軋むほど翠熙が力を込めて麗麗の手首を握りしめているのに、麗麗はその痛みを一切感じていない。


 ──あぁ、私、本当に。


 押し倒された衝撃に痛覚が麻痺したわけではなく、体が痛みそのものを感じていない。触れた翠熙の手が燃えるように熱くて、その熱を感じて初めて、自分の体が熱を纏っていないのだと気付いた。


 衝撃に息が詰まっても、苦しさを感じない。これだけ翠熙に詰め寄られても、跳ねる鼓動を感じない。今の麗麗は生前の名残で呼吸をしていても、生存するために呼吸を必要とはしておらず、心臓は動きを止めている。


 ──本当に……死んでいるんだ。


 反魂法によって蘇らされた死者。僵屍きょうしと呼ばれる妖魔。


 かつて珀鳳山祝家の一番弟子として名を馳せ、後に『紅の邪仙女』と恐れられた紅麗麗は、かつての好敵手の手によって、本当にこの世に呼び戻されてしまったのだ。


「私は……っ! お前が隣にいてくれれば、世界なんてどうなっても良かったんだ!」


 目覚めた瞬間から理解していたはずの事実が、この瞬間ようやく麗麗の胸にストンと収まった。


 どんなに信じられない状況であろうとも、一度それが現実なのだと心に収まれば、思考は冷静に回り始める。


 片恋の相手から熱烈に告白されている最中であるはずなのに、麗麗の頭はここからどう事を運ぶべきかを考え始めていた。このを終わらせて、翠熙の人生を軌道修正するために、自分はどう身を振るのが最適かという算段が頭の中で回り始める。


 ──こういう時に、素直に相手の言葉に酔うことができる性格だったら、世間一般の女の子みたいな人生が送れたのかしら?


 一瞬、そんな考えが浮かんだが、そんなものは自分が望む道ではない。それを誰よりも分かっている麗麗は、無駄な感傷を意識から切り捨てると今考えるべきことに意識を向け直す。


「たとえ伴侶となることができなくても、世界に命を狙われようとも! あの穏やかな場所で、お前とずっと一緒にいられれば、私はそれだけで……っ!!」

「……無理よ」


 なるべく穏やかに言葉を紡いだつもりだったが、底ににじんだ冷たさは翠熙に隠せるものではなかった。常の冷静さをかなぐり捨てた翠熙がギッと麗麗を睨み付ける中、麗麗は真っ直ぐに翠熙を見上げて言葉を紡ぐ。


「あのまま二人揃って珀鳳山に閉じ籠もっていたら、琳王宮は何かと理由を吹っ掛けて祝家もろとも全てを焼き払っていた」

「ならば今度は私が世界の全てを焼いてやる」


 怨嗟えんさの声は、およそ麗麗が知っている翠熙が紡ぐものではない。だがそれが偽らざる翠熙の本音なのだと、目の前にさらされた瞳を見れば嫌でも理解できてしまう。


「お前と私を引き離すものは、今度こそ全て消してやる。たとえお前自身が私の手を拒もうとも、もう二度とお前の手を離してなどやるものか」


 ──一体何があんたをそこまで追い詰めたわけ?


 どこまでも翠熙らしくない言葉にそんな戸惑いの声が湧いたが、答えは分かりきっている。


 麗麗自身だ。


 麗麗が勝手に自分の道を決めて、勝手に翠熙を一人残して死んでしまったから、こんな訳の分からない状況になっている。さすがに麗麗もそれくらいのことは理解できていた。


 ──だったら、きちんと責任を取らないとね。


「……分かった。分かったわよ」


 麗麗は小さく溜め息をつくとスッとまぶたを閉じた。負けん気が強い麗麗が自ら視線を逸らすのは『負けました』という意思表示に等しい。


「そこまで熱烈に口説かれちゃ、仕方がないわ。……まさか冥府の底にいる私を現世に呼びつけるなんてね」


 諦めとともに半ば本心を口にしてから目を開けば、翠熙は不服そうにしながらもひとまず口をつぐんでくれた。『不服』に関する部分は、恐らく麗麗が翠熙の申し出を快諾せず、『仕方がない』と返したことに端を発しているのだろう。


「挙げよう、三拝」


 だが翠熙の瞳にぎった不服は、麗麗が笑みとともに紡いだ言葉を聞いた瞬間喜色に塗り潰された。幼い子供のように瞳を輝かせる翠熙に苦笑をこぼしながら、麗麗は囚われていない左手を翠熙の頬に添える。


「珀鳳山に、一緒に行こう。三拝を挙げに」

「麗麗……!」

「ただし、三拝を挙げて本当に夫婦になるまで、そういう意味で手を出されるのは嫌だからね」

「分かった」


 大人しくコクリと頷いた翠熙は、満ち足りたような笑みを浮かべるとスリッと麗麗の手に頬を擦り寄せる。


 そんないつになく無邪気な翠熙に微笑を向けながら、麗麗は内心で固く決意していた。


 ──珀鳳山に三拝を挙げには行くけど、到着までに必ず私は死んでみせる。


 翠熙の人生を軌道修正するには、もはやそれしか道がない。


 僵屍は術者に使役されるしかばねだ。翠熙は必ずどこかに麗麗の核となった呪具を隠し持っている。その呪具を砕くことができれば、麗麗は再びただの屍に戻るはずだ。あるいはそれ以外にも何か解呪の方法があるかもしれない。


 だが呪具を暴くにしても、他の解呪の方法を探るにしても、時間が必要だ。ひとまず翠熙を落ち着かせ、麗麗自身を消滅させる機を計るためにも、今は翠熙の話に乗るしかないだろう。


 三拝を挙げに行く旅には出るが、己と三拝は挙げさせない。


 ひとまず道を決めた麗麗は、いつになく無防備に微笑む幼馴染に、呆れとも諦観ともつかない複雑な笑みを向けたのだった。

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