第7話シックシックミッシング

 身体が怠い。風邪だろう。もともと風邪をひいていての行動だったのかも分からない。布団の中で目覚まし時計を見つめる。仕事を辞めたばかりで目が覚めたと当時に時刻を確認する癖が抜けない。予定が狂って生きているがあと3日なら再就職も考えにない。

「飲んでいいってば」

 初音が落ち着かない様子だ。空腹なのだろう。人間に化け続けるには吸血が必要なのだそうだ。

「貧血が3日後の死因に響いたらどうする」

「貧血の薬飲もうか?初音くんがそわそわしている方が気になるんだけど」

 葛藤しているようだ。暫く初音は吸血していない状態で人間に化けている。

「アンタ、もう怒ってないのか」

「怒ってたのは初音くんの方でしょ」

「…そうだったか?」

「仮に私が怒ってたとしても…そういうのは常に怒ってるものじゃないから」

「出た」

 次に来る言葉は分かっている。

「面倒臭い女」

「面倒臭い女」

 初音と声を揃えて続きを言う。

「私は休みだけど、バイトあるんでしょ、飲みなさいって」

 そういうと同時に視界が変わる。空気も変わる。寝ていた布団の感触も変わる。いつもと違うのは寝間着に身を包んでいるところだ。けれど身に覚えのないこれも薄手の派手なローブのような寝間着。

「これ、着るイミ、ある?」

 胸元が大きく開いている。毎回変わる派手な下着が見える。

「脱ぐか?」

「着させていただきます」

 初音なりの気遣いなのだろう。シーツを寄せて肌を隠す。室温は丁度良いが、今の体調では身体を冷やしてしまいそうだ。

「なぁ」

「何?気、遣ってくれてるの?」

 今までは背後からだったが今日はベッドの上で膝立ちで向かい合い、初音は正面から抱き留める。

「初音くん!」

「嫌なんだろ、こういうの。分かってる」

「だったら…」

 真剣みを帯びた初音の声に拒否することを忘れた。

「アンタは悪くない。俺が無理矢理こうしてる」

「急にどうしたの。早く飲みなさいよ。バイト遅れるでしょ」

 抱擁の力が強くなる。

「だからアンタは何も裏切っちゃいない。俺が巻き込んでるだけだ」

 いつの日か言った、宛てのない誓い。言い訳。呪い。初音の意図が読めない。

「本当、どうしたの。あなたもどこか悪いの?」

 抱擁を解かれ、僅かな間お互い見つめ合った。蒼白い顔にガラス玉を嵌め込んだような黒い瞳に、窓から差し込んだ光が反射する。

「アンタとあと3日しかいられないコトが惜しくなった」

 初音は素直にそう口にしてから首筋に頭部を埋める。正面からは初めてだ。初音の背に回しかけた腕は途中でシーツの上に落ちた。すでに回された初音の爪が背に刺さる。

「私が死んだら」

 3日。実感はない。信じきれてさえいない。

「初音くんはどうなるの」

 人間になりたがっている。アルバイトも見つけた。けれど契約相手は死ぬ。その後初音はどうなるのだろう。聞きたくなかったが、同じくらい気になった。

「アンタからもらってる生気が尽きたらまた、死神に戻るだけだと思う」

「じゃあ初音くんは」

「アンタのいなくなった世界を見るんだ」

 首筋から口を放して初音は言った。息が首にかかると擽ったかった。

「良かった」

 躊躇した腕が初音の背に回る。

「何だよ」

「あなたも消えちゃうのかと思った」

「バカじゃないの」

「うん。バカみたい。あと3日で死んじゃうんだって思ったら、急に…ッ」

 初音の動きが止まって、それからまた首筋に歯を立てる。

「ありがとう、初音くん」

 背骨が浮いた背中は広く固い。悲しくはない。少しだけ満たされたような気分になって、瞬くとぼろりと眦から熱が零れた。

「ごめんなさい」

 誰の背に縋っているのだろう。誰に抱き締められているのだろう。意識は遠退いて。誰とも分からない名前が頭に浮かぶけれど、声は口まで届かずに。


 清算と精算は今後があってからこそ役に立つ。だからすでに死期が近い身でそれをして、何か満たされるだろうか。

 気付くと「いつものところ」へ足が向く。大きな駅に隣接したデパートたちに繋がる立体横断施設。思い出の場所。出会いの場所。身体のだるさも忘れていた。望んでいたはずの「死」を目前にした時すでに自らそこに行く気が失せた。疎遠になった家族や友人が思い返される。少しの間1人にさせておく、が4年経っている。

「お姉さん」

 片岡だ。ビニール袋を下げて薄いブルーの上下揃った服を着ている。仕事中か、これからか。

「あ、おはよう」

「やっぱり元気ないです。オレの…せいですか?」

「ううん。違うよ。元気ないかな?」

「…そうですか。顔色悪いですから。でも思ったよりは元気そうです」

 相変わらず胸ポケットに有名なキャラクターのマスコットがついたボールペンが挿さっている。

「これから出勤?」

「はい。今、まどかを幼稚園に預けてきたところで」

 片岡は笑う。ここは片岡の死地なのに。

「仲直りできました?」

「う~ん、多分」

「そうですか。よかったです。なんかちょっと残念な気もするんですけど」

 利用できるわけがない。片岡は片割れなのだ。自分自身なのだ。

「あの」

 またひとりの世界に入りかけて、片岡の声で我に返る。

「迷惑かけませんから…!」

 腕を取られ、握り締められる。温かい。半分渡した命で冷えた指先が温かくなっていく。

「迷惑かけないようにしますから、まだ好きでいていいですか」

 諦めないと以前言われた気がする。迷惑ではない。何よりも3日後に死ぬ。片岡も後を追ってすぐに。セミなのだ。土から出てきた、羽化したセミ。

「オレのこと、好きになってもらえないの、分かってるんです」

 セミの鳴き声と比べるほうがおかしいくらいの小さな声。割り切れない感情だろう。本能と錯覚なのだから。そしてそのような業から解放したい気持ちは確かにあるが、やはり出来ないのだ。

「でも、好きなんです」

 あと3日。長くて5日。初音の言葉を思い出す。その間に片岡は何か見つけられるだろうか。

「好きです。オレ、貴方のために何もできないけど、好きなんです」

「落ち着いてよ。片岡くん、私は…」

「ごめんなさい。迷惑かけないって言ったのに…」

 何故なのか。人好きのする片岡が好いたのが態々自分を受け入れない女。答えはすでに出ている。命を分け合ったから。

「迷惑、とかじゃなくて」

 片岡を泣かせたくない。悲しませたくない。分身として。寿命を分かってしまった相手として。

「困らせたいワケじゃ、なかったんです。ごめんなさい。情けなくて。カッコ悪くて、ごめんなさい」

 ここに来る度探し続けたものを一気に拾い集めたかのような、脳髄を揺さぶるような感覚が入り込んでくる。情けなくて、カッコ悪くて。

「ありがとう、好きでいてくれて」

 よく見知った男がよく言っていた。いつも言っていた。「カッコ悪くてごめんな」。出身地の訛りを直さない人だった。その度に返すのだ。「気にしないで」と。

「時間、ほら、大丈夫?」

 片岡の両肩を軽く叩く。

「はい。もう行きます。また今度」

 片岡は目元を気にして、会釈をして去っていく。律儀な子だと思った。

「あと3日…」

 呟いて、戻ることはない時間軸に思いを馳せる。

 出身地の訛りを直さない「よく見知った男」は先輩にも後輩にも好かれ、慕われていた。けれど叱られることも多かった。後輩に集られてもいた。約束に遅れることもあれば、約束自体取り消されることもあった。けれどそれが誇りのように思う部分もあった。埋め合わせに期待もして。それが即物的であったり、精神的なものであったり。「よく見知った男」は必ず傍で話し合うことを忘れなかった。趣味は合わなかった。食の好みも。だが互いの違いに、理解しあえない価値観に興味を示し合えた。意地っ張りでよく笑う、情けなくて格好悪い人。

 この場所で「よく見知った男」は昼休憩に座っていた。ここでその「よく見知った男」はメールを打っていたのだと思われる。おそらく。多分。もしかしたら。あの日も稲荷寿司をここで食べていたのだろうか。何度その空想を繰り返すのだろう。あと何度。多くても3度。

「何してんの」

 隣に初音が立つ。

「バイトは」

「辞めてきた」

「なんで。せっかく片岡くんが…」

「あと3日5日すれば俺だって人間じゃいられなくなる。いきなりいなくなったら混乱するだろうが」

 初音にしてはよく考えている。

「なら働きたいなんて…私の寿命、分かってたんでしょ」

「…アンタの寿命に焦ってきたんだよ」

 言うか言うまいか迷っているようだ。けれど言うことを選んだ。

「俺、こういうの向いてるみたいだし、まだ続けたいけど。アンタに言ってみて、実感した。3日って何だよって。どういうことだよって」

「初音くん何だか今日変」

「変なのはアンタだろ。3日だぞ。半分にしなくても1週間ないじゃん」

 初音はどこか遠くを見ている。鉄柵を強く握って。

「ルール違反だったんでしょ。大丈夫なの」

「アンタは自分の心配してろよ。あと3日、何が出来んだよ」

「自分の心配って言われても、あまり実感、私はないからさ」

 片眉を吊り上げて一瞥される。

「バカみてぇ」

「ひどいなぁ」

「違ぇよ、俺が」

 死神にも情があるのか。それとも契約の際の不都合か。初音も忘れたと言っていた内容を思い出せていないようだが、それに関わる、何か不都合。

「初音くんの事情はよく分からないけど、ありがとう、寿命、教えてくれて」

「気持ちわりーな」

「後悔する前に言っておきたかったんだ。今なら素直に言えそうだったからさ…だって、結構、あの海で…本気、だったから」

 口にするのを一度止めてしまう。

「元カレか」

 初音の口から出た言葉。頷いた。隠すことでもない。

「何となく合点が行った。今までのコト。どういう経緯までかは知らないし…興味も…まぁ、無いといえば無い」

 強要するつもりもないのだろう。晴天のどこかを見つめている。

「すごくつまらない話だから」

 鉄柵に鳩が止まる。初音が手を伸ばすと、逃げてしまう。

「そうか」

 言いたくない訳ではなかった。けれど言うほどのことでもない。

「でもよ」

 一瞬風が強く吹きすさぶ。初音の髪が艶めきながら靡いた。

「アンタは怒るかもしれない。反対するかもしれない。憤るかもしれないけどよ」

 前置きが長い。人の感情など気にするような者だっただろうか。

「アンタは生きてるんだからな」

 この男は知っている。どこかまで知っているのだろうか。かまをかけただけかもしれない。

「あと3日だけど、ね…」












 端末の画面が光る。メールだ。突然遠方への出張が決まり、これから出ることを告げる旨。昼頃だった。稲荷寿司に炭酸飲料を併せて、大型のデパートが入った駅隣接の商業施設の前のベンチで昼食を摂っているのだろう。立体横断施設には疲れたサラリーマンや外国人観光客、ホームレスが休みに来ている。空が拓けて日の光をよく浴びられるから。

“行ってらっしゃい”

 明日誘おうと思っていたミュージカルは行けないようだ。

 送信ボタンを押した感覚だけはよく覚えている。

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