第3話ワインメアリー

「お姉さん!よく会いますね!」

 夕飯の買い出しに向かう途中でまたあの好青年・片岡と会う。隣にいる初音を気にしながらも片岡は尻尾を振っているようだった。初音は片岡の妹をちらちら見ている。初音の人間に換算すると2歳と同じくらいだろうか、滑稽に思えてしまう。

「片岡くんだっけ」

「お姉さん、オレのことは、その…」

「片岡クン、この子、妹?」

 初音がまた片岡の言葉を遮る。片岡クンがかわいいから、と言っているが意地が悪い。初音に肘打ちする。

「はい!まどか、あいさつは?」

 片岡は嫌な表情ひとつすることもなく、手を繋いでいた妹の顔を覗き込む。

「いわたにまどかです。3歳です」

 まどかと名乗る片岡の妹は親指と小指を折って3本指を立てる。

「え、片岡くん。いわたにって」

「親、再婚しまして。オレの成人後だったので、苗字が違うんです、すみません」

 片岡は謝りながらも笑みを絶やさない。初音は不思議そうにまどかを見下ろす。「再婚」の意味が分からないのだろうか。

「まどか」

 初音は片岡の妹の目の前に屈んで目線を合わせる。片岡も不思議そうに初音を凝視した。

「ごめんなさい…ちょっと変わってる人で」

 片岡の妹は片岡の後ろに隠れてしまう。それでも初音はじっと片岡の妹を見つめていた。

「まどか。こんにちは、って」

「こ、こんにちは」

 片岡に促され、片岡の妹は小さな声で初音に挨拶する。初音はきょとんとしたまま片岡の妹をただ見つめているだけ。

「顔、怖いよ」

 初音は真顔になると怖い。冷たい顔をしているから。初音は言われて、片岡の妹の頭に手を伸ばす。

「ずっと怖い人だと思ってました。カッコいいけど、冷たそうな」

 愛想笑いを浮かべていた片岡の頬が緩む。

「兄ちゃんのこと、好きか」

 片岡の妹は恥ずかしがってもじもじしている。初音が柔らかい笑みを浮かべていたせいで片岡と顔を合わせてしまった。珍しいものでもないのかもしれない。片岡の妹が片岡の手を引っ張った。

「ごめんな」

 初音が素直に謝る。そして立ち上がった。

「片岡くん、ごめんなさい。ごめんね、まどかちゃん」

 片岡とその妹に謝ると片岡は歯を見せて笑う。半分命を渡した相手、それを前提に見ると、他人ではないような親しい感覚がした。

「あの、今度」

 片岡を見つめていると改めて声を掛けられて我に返る。

「何?」

「今度、お茶でも、どうですか」

 何か乞うような、語尾は消えかけて、泣きそうだ。黒目がちな瞳が合った瞬間逸らされて、それから窺うようにまた目を合わされる。

「えっと―」

「いいな。行けよ。暇だろ、アンタ」

 返事は代わりに初音がする。初音を振り向けば、そっぽ向かれる。

「お姉さん…」

 困った表情になったのは片岡で。戸惑っている。

「え~っと」

「俺がその間、まどか見てようか?」

「まどかのことは大丈夫ですけど…」

 三者三様に困っている。

「行ってこいよ。逆らうな」

 初音に背中を押される。触らないで、という視線を送るが届いてはいないだろう。

「不都合なら、全然あの、断ってください…」

「…っ分かった。大丈夫。今度、2人で行こう?」

「じゃあ、あの、連絡先とか…」

「ごめんなさい。解約しちゃって…」

 片岡の顔は赤い。好感を抱いているのはおそらく本能的なものかもしれない。命を半分渡してあるという。

「そ、うなんですか…」

「また買ったら会った時に教えるね、連絡先」

 片岡は小さく笑って何度も頷く。嘘ではなかった。―――の準備として真っ先に解約した。アパートの解約はまだ出来ずにいた。初音がにやにやししてる。何が面白いのだろう。

「お兄ちゃん。お腹空いた~」

 片岡の妹が片岡の手を引っ張る。それを皮切りに初音がそろそろ行くか、と言い出した。

「なんでさっさと返事してやらないの」

「だって、よく知らない相手だし」

「いや、知ってるっしょ。命半分コした相手でしょ」

 初音が立ち止まる。片岡と別れてすぐだった。そして片岡とその妹が向かった方を見つめている。

「それだけ。付き合ってない相手と2人きりでどこか行くの、まずくない?」

 初音に同意を求めるような言い方をしてしまうが、間違いだ。それでもつい、初音に同意を求めてしまう。

「堅いな」

「別に堅くないよ」

「俺が見てきた人間は別にフツーだった」

「初音くんが見てきた人間はアテにならない気がする」

「ディスってんの?」

「そんなつもりは…ただ私が嫌だったっていうか…裏切りかな、って」

「誰に対してさ」

 初音の問いは風に攫われた。ということにした。

「やっぱ片岡クン、かわいいわ」

 小さな呟き。




「私もう死ぬ気ないから、監視要らないよ」

 買い物から帰宅後、一応掃除をしておいたキッチンに買い物袋を置く。当初の目的なら必ず部屋は汚す。そして必ず誰かの世話になる。だからせめて片付けられる場所は片付けておきたかったのだ。

「ツレねぇな」

「でも夕飯食べるでしょ」

「俺、物食わないよ」

「2人分買っちゃったじゃない」

「…じゃあアンタが2人分食って1人分血、飲ませて」

 初音の発言に頭が痛くなりそうだ。

「人間の構造はそういうこと出来ないの」

 冗談だ、本気にするなと初音は楽しそうだ。

「なぁ」

「何」

「食材選んでる間、楽しかった。俺食わないけど」

 顔を逸らして話し出す。ぽつり、ぽつり。降りはじめの雨のように。

「頭打った?どうしたの?何か企んでる?」

「うっざ。違ぇよ。打ってねぇーわ。ただまた行き…また連れて行けよ。どこでも」

 スーパーで初音は品物を見ては目を輝かせ、けれど迷子になることもなくぴたりと身を寄せていた。その度に身体を離したが、すぐにまた寄り添われた。

「あなた本当に死神?」

「人間だろ、今は」

 言った途端に初音は宙に浮かび出す。狭いため胡坐のまま。

「人間は宙に浮かないし、人間の血飲みたがらない」

「俺の言うこと否定するなって」



「そろそろ血、飲ませろよ」

 風呂上りに寝間着に着替えた後、初音が指を鳴らすと共に視界が暗転する。窓とやたらと大きなベッドがある部屋へワープしている。

「私の意思はないワケ」

 初めてここへ来た時と同じ半裸。見慣れない派手な下着姿。それを性別がないとはいえ男と認識している者へ晒すことへの抵抗感。シーツを手繰り寄せる。その手を掴また。背後に居る、初音の気配と感覚。温度はあるけれど体温とは違う気がして。

「力抜けよ」

「抜けてない?」

「まだ肩力んでる。痛いのアンタだけど?」

 初音がそう言った直後に首筋に痛みが走る。身体中に電流をかけられるような、鈍い痛み。そこから痺れに変わって広がっていく。

「ねぇ」

 口を開くと強く歯を立てられる。

「この格好どうにかならないの。それからこの変な場所」

 喋るな、という意思表示なのだろう。さらに強く強く歯を立てられる。血液が漏れているような錯覚。初音が身体に触れる度に、すでに宛てのない罪悪感と謝罪と懺悔が溢れて、どこかに消える。

 視界に映るのは微かに明るい窓の外とかろうじて見える明るさの壁とベッドの端。シーツの皺。身動きを取ろうとすれば初音が封じてしまう。緊張で肩がびくりと突然震えた。

「寒いのか」

 首から歯が抜かれた。直後はもう痛みはない。首を振った。けれど肩に初音の上着を掛けられる。

「んで、質問、何だったっけか」

「何でもない」

「言えよ。下着だっけ?それは俺のシュミ。その方が飲みやすいだろ。それからこの部屋は俺の部屋。ここならアンタに歯型残らないし。痛みも」

「覚えてるじゃない」 

 初音は両手を上げて肩を竦めると、そのままベッドに寝転ぶ。

「気遣ってくれてありがとうね」

「面倒くさい女だからな、アンタ」

「死神でも寝るの?」

「今はどっちでもない。アンタとの契約は疲れるんだよ。簡単だったら困る、アンタならきっとそう言うだろ。人の生き死にのコトだから。色々難しいんだ」

 仰向けになりながら答えている。

「相手のために何でも出来るとか俺、分からないけど」

 呂律が回っていない。眠いのだろうか。その割には饒舌だ。

「守るってコトとか特別って言葉分からないけどさ…」

 ゆっくり開閉していた瞳がとうとう閉じられたままになる。

「少しずつ、分かりたくなってき―」

 続かない。羽織らされた上着を初音に掛けた。風邪などひかないだろうけれど。

「初音くん」

 呼び掛ける。頬をなぞるように撫でる。色の白さが薄暗い中でも分かる。微かに女性的な部分も残しつつ、雄々しく整った顔をしている。

「何だよ、うっせぇな」

「この部屋から出してくれないの」

「…」

 仰向けになった初音が目を開き、暫く見つめ合う。

「一緒に寝とけ」

 2人で寝ても少し広いベッド。初音は横に転がりながらずれて、それからまた目を閉じた。

「困るなぁ」

 掛け布団を折って、外側を内側にして初音に掛ける。初音は男ではないらしいが、認識としては男なのだ。この状況での同衾の意味を知っているのだろうか。

「これだけ借りるね」

 初音に掛けた上着だけを取ってベッドから降りる。殺風景な部屋だがラグを敷いてあるようだ。初音の上着を掛けて柔らかいラグの上に横になる。いつまで続くのだろう。初音との生活は。片岡の寿命は。

「絶対、裏切らないから、さ…」

 宛てのない決意が薄暗い空間に消えていく。

「バカだな」

 床で寝ていた記憶はあるが布団を掛けた記憶はない。ベッドの上で初音が頭を抱えている。

「俺にもアンタにも腹が立つ」

「おはよう」

 朝から辛気臭い面で見つめられたが特に返す言葉もなく朝の挨拶をする。

「人間はバカでもないと風邪ひくらしいな?」

 初音の手が額に伸びる。触れた瞬間身を引いた。

「大丈夫。この部屋すごく温度、丁度いいし」

 ムッとした表情をしていた初音の表情が戻ったところで自宅のアパートに戻される。夢から覚めたような一瞬の切り替わりに頭がついていかず、少しの間ぼぅっとしていた。目の前にすぐに初音が現れる。

「守るってのは難しい」

 すまなそうに目配せをされ、どう反応していいのか分からなかった。

「難しいよ。一歩間違えたら、失うかもしれないし、傷付けるかも知れないもんね」

 唇を噛んでいる。

「アンタは何か守ったコト、あるのか」

「嫌な質問」

「ないのか」

「全部失敗。いつもダメ。結局自己満足で終わっちゃう」

 記憶を辿る。守れた、という達成感はいつもない。

「まぁ、モノによるだろうけど、守りたい、守ろうっていうのがいいんじゃないの。結果どう転ぶか分からないし」

 昔寒い日が続いたからマフラーを買った。寒さから守りたい相手がいた。だからマフラーを贈りたかった。けれど彼はすでにマフラーを持っていた。母子家庭というのもあってか彼は母を大切にしていて。母の手編みのマフラーだった。好きな方を使えばいいそれを、彼は態々相談して、それから贈ったマフラーを巻けない日のことを謝った。そして彼は交互に巻いて、大切に使ってくれた。その話を初音は黙って聞いていた。

「両方巻けばいいだろ」

「マフラー、2本も巻くの大変だよ」

「ソイツ、変なヤツだな」

「そうだよね。変だよね。不器用っていうか」

「もしかして他人事みたいに言ってたケド、アンタ?」

「まさか。彼って言ったでしょ、男だよ」

 あぁそうか、と納得している。

「人間は難しいことをしようとしすぎるな」

 初音は笑うと一気に美青年ではなくなる。

「なんでだろうな。早く死んじゃうのに、俺、人間になりたい気がする」

 外見だけなら人間だ。言うことは幼いが、人間だ。

「今、人間じゃないんだっけ」

「一応、人間に近いけど、まだだ」

「初音くんのいう人間てどういうものなの」

 手があり、足があり、頭があるのが人間。だとしたら猫は。犬は。猿は。手足が欠けた者は。意識があり、言語を操るのが人間。だとしたらその機能を失っている者は。人工知能は。

「もう少し、アンタと居てみて確かめたい」

「う、うん…?」

「だから働きたい」

「うーん」

 順接に首を傾げる。社会に出しても大丈夫なのだろうか。

「残酷なことだけど、身分証明とか、その、人間には色々必要なの。手続きとか。だから…その…」

 唇を噛んだまま、雲っていく表情。

「貯金、あるんだ。何か困ったことあれば崩すし、だから…」

「人間の男はみんな、ほとんど…働いてた」

 イコール人間にはなれない。そう続くのか。

「俺、男なんだろ。人間なら男なんだろ…?」

「今は別に、男だから働くっていうのは少し違くて」

 人間への不要な固定観念が捨てきれないようだ。

「もう少し、もっと、人間を見よう?出掛けようか。何か食べよう」

「俺は…」

「食べられないワケじゃないんでしょ?」

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