零言葉

小狸

短編

 時には媒体を変えて小説を書こうと思い立ったのは、つい先日のことであった。


 うだつの上がらぬ小説家の分際でどうしてと思うやもしれぬが、私はタブレットを所有している。何のために購入したのかとえば、ノートパソコンを外に持ち出したくないから、である。外で試筆活動を行う際に必要だと思ったのだ。ノートパソコンという精密機械を、たとい重厚なケースに入れて持ち運び、もしどこかにぶつけたら、などと余計な想像をして、頭が痛くなってしようがない。そういった思索の末の話である。


 まあ、丁度その時期に、新型コロナウイルスによる感染症が流行し、不要不急の外出は控えるようにという指示が、政府直々に出されたのだが。


 執筆業というのは、基本的には座って行うものである。実際、直接的な影響はそこまでではなかった。担当編集とのやりとりが全て電子となり、最初こそ齟齬そごがあったものの、今では「リモートワーク」という働き方が世に知れ渡ったのだから、所詮その程度のものである。故にウイルスが猛威を振るっている間、私は、家に引きこもって小説を執筆していた。それが許される職業であったというのが大きい。ただし冒頭でも述べたようにうだつの上がらない、つまり別段売れ行きが良いという訳ではないので、そのあたりのプロデュースには艱難かんなん辛苦しんくした(担当編集にはツイッターを勧められたけれど、絶対に炎上するので断った)。


 そういう経緯があってか、出先での執筆作業用に購入したタブレットは、そのまま役に立つことなく、使われることなく、本棚の隅に収納されていた。収納というか、隙間に埋められていたと言うべきか。私の本棚は、いつだって崩落寸前なのである。


 それを見つけたのが、実に三日前のことである。


 せっかく大枚たいまいをはたいて購入したのだから、さあ使ってみようと思い、文章を打鍵してみる。やはりパソコンで打つのとは訳が違う。視点がかなり下に行く。そのためか、姿勢の維持が、なかなかどうして難しい。かなり机が高くなければ、背が曲がってしまいそうである。まあ、最近の喫茶店は机が高めだから、その辺りの問題はないか。問題は、打鍵である。タブレットに有線で打っているけれど――ここだけは私のこだわりがあった、Bluetoothブルートゥースだと、打鍵速度に追いつかないのである。勿論もちろん、これは暗に私が「打鍵速度が速い、筆の早い作家」であることを誇示している訳ではない。筆が早くとも、面白い小説を書くことができなければ意味がないからだ。


 ただ、普段使いしているパソコンのキーボードとは別のものを使用しているのである。これがまた慣れない。あまり気にしていなかったけれど、「いつもと違う」という状況は、予想以上に私を苦しめた。それでも慣れれば、慣れたもの勝ちであろう。とは言え、である。Bluetoothというものは、もう少し進歩しているものかと思っていたけれど、私程度の打鍵速度に追い越されるとは、案外科学というのも、我々の近くにあるものかもしれない――などと、失礼なことを考えてみたりする。


 タブレット自体は高価ではあったが、キーボード自体の単価は、そこまで高くはなかった。まあ、長期的なスパンで見れば消耗品であるし、そういうものなのだろうな、と思い、打鍵を続ける。


 私が購入したのは、有線の消音キーボードである。元より打鍵音は小さくするように心がけている(自意識過剰なのだ)ので、出先、正確には、駅前のスターバックスにて、こうして小説を執筆している。


 やはり違うなあ。


 と思う。


 有線のキーボードは、自宅で使用しているものを持ち出してきたもので、実質的に違うものと言えばそれこそ媒体、タブレットだけれど、書いているという感覚が違う。


 これは既に私の中に、小説を書くと云えばこれ、というものが染み付いているのだろう。私は日がな一日マイクロソフト社のワードを、縦書き表記の四〇字×四〇字で執筆しているけれど、タブレットでそれをそのまま同期することはできなかった。結局、タブレットのメモ帳同期アプリ(パソコンと文書を同期できるのだそうだ)を利用して、横書きで書いている。縦横の違いが、ここまで如実に執筆に影響するとは、思わなかった。媒体が違えども、また旅先で小説を書く作家先生、というのも存在すると聞くけれど、どうやら私はその枠には入れてもらえないらしい。つくづく、自分の適応能力の無さに辟易へきえきする。まあ、だからこそ、作家になったと言えるのだが。

打鍵を続けていて――ふと、気付く。


 総じて横書きである、ということはつまり、プロットを作ることに特化しているのではないか、と。


 プロットとは、小説のあらすじや登場人物をまとめた構想のようなもの(個人差あり)である。作家先生によってはプロットを作らずに執筆を開始する方もいらっしゃるようだけれど、凡百の零細作家の私は、勿論プロットを作ってから小説を組み立てている。恐らく、使っている脳の分野が違うのだろうなと思う。ただ、総じて共通しているのは、我々は生活のために、小説を書いているということだ。


 私は、今まで打鍵していた執筆を止め、プロットの制作へと転換した。制作と言えば、しばし「製作」との混同が見受けられる。前者は「芸術作品や映画・演劇・放送番組などをつくること」、後者は「道具や機械などを使って、物品を作ること」となる。私の場合は、文学作品の構想を練っているので、前者であろう。ただ、鬼の首を取ったように「言葉の誤用だ! 正しい言葉はこちらだ!」と声高に主張するやからについては、言いたいことがないでもない。例えば、近々人口に膾炙かいしゃして久しい「し」という言葉のも、かつて存在していた「おし」――つまり話し言葉を発することができない状態やその人を示す言葉と同音であり、誤用しかねない状態であった。まあ、この比喩については諸説ある。新しいものを取り入れること、現在の「正しさ」を追及することは決して悪いことではないけれど、時には過去を振り返り、照合することも大事である――という、私なりの現代へのメッセージである。まあ、斜陽作家のただのぼやきが、一体どれだけの人間の目に付くのか、また印象に残るのかは、なかなかどうして定かではないけれど。と、ここまで記述したところで、結局プロットよりも小説の方が筆の進みが早いと思った。変に中断すると何ともわりが悪いので、プロットは一旦置いて、小説の側を終わらせようと思い至った。


 ここまで打鍵をして、ふと、私は気が付いた。いや、気が付くのも遅すぎるくらいである。この短編に、題名を付けなければならないのだ。私は普段小説を書く際、題名は最初に決める。題を決めるところから、小説の執筆は始まっていると言っても過言ではない。さてどうしよう。ぼやき、呟き、その辺りの都合の良いものを探して、数十分が経過した。これだから題名は苦手である。近年はやたら長い題名の小説が世を席巻しているけれど、その気持ちも、一応は作家たる私には少しだけ分かる。作品がコンテンツとして、どんどん消費されていく時代、人々は必然的に「良いもの」を摂取しようとする。これは小説に限った話ではないけれど。そんな中で、長い題名を見る、題名が長いということは、そこまで作品内の情報を開示しているということになる。その開示情報の長短によって、のだ。これは革命的である――と同時に、一作家としては、絶望的なものである。そもそも手に取られない可能性を憂慮しなければならないのだから。作品、コンテンツ、サブスクリプション、電子書籍。少しずつ小説も、時代の時流に流され、変わってきているということだろうか。だとすると、何だか少しだけ寂しい気もした。や、過去の作家先生たちを礼賛するという意味ではない。ただ、何というか、上手く言語化できない――これが、時代に先を行かれる、という感覚なのだろうか。いつの間にか私は、時代の遺物となっていたのか。そんなことを思い、軽い絶望感を覚えながら、仕事に従事しなければならないというのは、なかなかどうして苦悶である。


 タブレットの奥側に置いておいたコップから、暖かい珈琲コーヒーを飲んだ。カフェインが、五臓ごぞう六腑ろっぷに、染み渡る。五七五である。まあ、流石に何も注文することなくスタバに居座る程、人間的常識は崩壊していない。後方から店員が「モバイルオーダーのお客様~!」と、呼ぶ声が聞こえた。注文もスマートフォンで、しかも自宅から行うことのできる時代である。時世は進んでゆくが、自分は進んでいるのだろうか。そんなことを思いながら、私は今日も、小説を書く。




(「こぼれ言葉ことば」――了)

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