スナック パサージュ

赤根好古

第1話

高校時代、突然いなくなった彼女がスナックのママをしていて、半世紀振りに男の前へ。


1

その街は、東の新宿二丁目、西の堂山と言われ、LGBTの街だ。

スナックパサージュにもその手の客がよく来るし、さとみママも土曜は一週間働いた褒美として、朝までLGBTの店に行って騒ぐ。いわば持ちつ持たれつの仲である。

今日も、店の常連となってしまった健一が、U字形の座席の隅から二番目の席に腰掛けている。頭の毛は、もう八割ほどない。

「ねぁ、健一君。あの二人、どういう仲だと思う?」

「えっ、さっき帰った二人連れ?」

健一のグラスの氷が溶けて、コロッと音が店内に響いた。

「そう」

「身体つきといい、顔といい、よく似てたから兄弟とちゃうの?賑やかな二人やったけど」

「それが、あの二人。できてるのよ」

「えっ」

「つまり夫婦」

「えっ、けどそんな仲やったら、もっと男前がおるやろ。二人共、なんかゴツゴツした感じやったけど」

「それが違うのよ」

「何処が」

さとみママは、両手で髪を掻き分けて

「うーん、何というのかなぁ、顔じゃないのよね」

さとみママは、健一のグラスに付いたしずくを、おしぼりで拭き取りながら言った。

「そんなもんかな。もし俺がそういう立場やったとしたら、可愛い子か男前を選ぶけどな。あの二人、それにはほど遠かったけど」

そこへLGBTの翔子ママが

「いらっしゃい」

さとみママが、ささやくような声で健一に

「来たわよ。例のママが」

健一が翔子ママを見ると、ひとめで男だとわかる。筋肉質で肩幅が広く、ワンピースを着て化粧をしているが、目が鋭く彫りが深い顔をしている。

「こんばんわ。わ、男前」

「駄目よ、私の彼氏なんだから」

「あっ、ママのよく言ってた健一君?」

「そう」

翔子ママは、健一を見て

「よく聞かされたわよ。さとみママに健一君のこと」

「えっ、悪口?」

「そんなことないわよ。若い時の思い出。けど私には、ぜんぜんなかつたわ。過去は生ゴミ」

健一は、さとみママを見ながら

「そうやろうな。昔は、男が女に、女が男に惚れるのが当たり前やと思ってたけど。その頃からママは、男を見てたんや。しかし、それがゆるされん時代やったんやな。おかしな奴と思われて」

「そうなのよ。それが今では市民権を得て、テレビでコメンテーターしてるし」

「時代なんかな。けど時代って言うだけにしたら悪いんやろうけど」

「そうなのよ。すごくいじめられたわ、オカマって」

「だから、過去は生ゴミか」

「あの頃のことは、もう思い出したくないわ。もう捨てたの。生ゴミのようにポイって」

「けど、今のような時代が来ると思ってた?」

「思ってなかったわ。やっと店を持って、客が来てくれたらそれで良かったの。今の若い子たちは楽ね。自分からゲイと告白して、思うように生きられて」

さとみママが

「それも、ママたちが頑張ってきたからよ」

「そう言えば、うちの中学は坊主でな。ひとつ年下で女の子とばっかり遊んでる奴がおって、俺らオカマ、オカマとバカにしてたけど。そいつが、あとで聞いた話しやけど、毎日のように、夜遅くまで先生方に掛け合ってくれて、校則を変えて、坊主をせんでもエエようになってん。あいつのお陰で、俺もスポーツ刈りができるようになったんや。まぁ、今は見るも無残やけど」

さとみママも、翔子ママも、思わず健一の毛の少なくなった頭に視線が。

健一は、自分の頭をツルッとなでて

「まぁ、そういうこっちゃ」

翔子ママが

「今日、呑むわ。さとみちゃん」

「うん」

「健一君みたいに、わかってくれるひとばっかりやったら、あんな苦労はしてなかったんやろうけど」

「けど、俺も若い頃やったら、考え方変わっないかもしれん」

「それでいいのよ。やっぱり時代ね」

「泣いて、笑って、怒って。それでええんと

ちゃう?」

「あれっ、健一君って、悟ってるのね」

翔子ママは、さとみママを見て言った。

「健一君も、たまにはいいこと言うの」

「おいおい、たまにはって何や」

「だってそうでしょう」

「まあ、その通りやけど」

二人のやり取りを、じっと見つめていた翔子ママが

「いいわね。二人はいい関係なんだ」

「健一君が店に来るようになって、張り合いが出るようになったわ」

「まあ、のろけてる」

「けど翔子ママは」

「私?振られてばかりよ。それなのに若い子が悩みばっかり持ってきて」

「そんな事言って。悩みを打ち明けてくれたら、嬉しいんでしょ」

「そうなんだけど。私もさとみママのように健一君みたいなひと、現れないかしら」

「現れるわよ、絶対」

翔子ママは、水割りをぐっと呑みほして

「さとみママ、お代わり」

「今日は、ペース早いわね」

「二人の、のろけてるの見せられちゃ、呑まずにいられないわ」

翔子ママは、天井を見ながら

「さとみママ。この明かり、気のせいかしら、まぶしいわ」

「えっ、いつものままよ。ママの店の明かりと、あまり変わらないわ」

「そうなの」

そこへ、三人連れの客が来て

「いらっしゃい」

翔子ママは、じっとグラスを見つめてから

「私、帰るわ」

「いいじゃない。もっといれば」

翔子ママが、席に着いた三人連れの横を通ると

「オカマか」

「何よ」

睨み付けた翔子ママに

「こわー」

翔子ママは、いつにもない怖い顔をして、帰っていった。

健一は、小声でさとみママに

「まだ、あんなことを言われるんやな」

「たいへんだと思うわよ。理解してくれないひとには」

「そうやな」

「今度、健一君も行く?翔子ママの店へ」

「うん、連れて行って」

「喜んで」

健一は、パサージュの店の時計が10時を差しているのを見て

「俺も帰るわ」

「えっ、もう」

「さとみママを、独占できなくなったから」

「まぁ」


2

スナックパサージュは、堂山通りに面したスナックが多く入るビルの一階で、奥から二件目にある。

店には、さとみママとゲイのナオミが。

「何か、悩んでるみたいね」

「わかる?」

「そりゃそうよ。いつも元気なナオミがそんな顔してたら」

「ママに話しちゃおうかな。その方が楽だし」

「もったいぶるわね」

「そんなつもりではないんだけど。実は惚れられて困ってるの」

「いいじゃない。うらやましい限りよ」

「それがねぁ、女の子なのよ相手は」

「えっ」

水割りの氷の溶ける音が、店にこだました。

「だから。私はゲイだから、勿論男が好きなのに決まってるでしょ。それなのに相手はずっと男の格好してたから、私は男前だと思って、密かに憧れてたわけ。そしたらさぁ、そのひとから突然告白されたときなんか、天にも昇るような気持ちでもう、舞い上がっちゃたんだけど。けど、けどよ。女だと打ち明けられたときは奈落の底よ」

「・・・」

さとみママは、返す言葉が見つからなかった。最初に話しを聞いたときは、とってもいい話しだと思ったのに。何でこんなことに。ナオミのことが、まるで自分のことのように思えたのに。知らぬあいだに、さとみママは腕を組んでいた。さとみママのいつもの癖だ。

「相手は、おなべだったの」

「へぇ、そりゃ困ったわね。けどナオミの本当の気持ちは?」

「そりゃ、憧れてたひとだから、告白されたときは、全身の血が逆流するんじゃないかと思うくらい、ものすごく嬉しかったんだけど。だけど、女だと知ったとたん、冷めちゃったの」

「それなら別れたらいいじゃない」

「そうなんだけど」

「そうよね。けど自分の気持ちに嘘をついて付き合っても、遅かれ早かれ、結局ダメになると思うの。私からはアドバイスしか出来ないけど、最後に決めるのはナオミ自身よ。このままずるずるいったら、お互いもっとつらくなるわよ」

「そ、そうよね。わかったわ、今日ハッキリ言うわ」

「そのグラスに入ってるの、呑み干していきなさい」

「うん」

ナオミのグラスを持っ手が、さとみママが見ても、ハッとするほど美しい。

ナオミは、水割りをぐっとあおって、店を出ていった。

さとみママは

(ナオミ。自分のことは、自分で決めなきゃ)


3

早朝、パサージュの店のそばで火事があった。さとみママはというと、昨日の夕方からの客の相手をして、酒の呑み過ぎで、雨が降ろうが槍が降ろうがの心境である。勿論、消防車のサイレンが聞こえているのに、気にも止めない。

幸い、ボヤで済んだが、夜が明けきらぬ中、消防車が堂山の街に何台も来ていて、消防士たちがホースを片付けているところへ、さとみママが自転車で家路へ。

しかし、ものすごく酔っぱらっているさとみママは、うっかりしたのか、酔い過ぎていたのか、そのホースに引っ掛かって転んでしまった。

「痛っ」

「あっ、さとみちゃん、大丈夫か」

「さとみちゃん」

「ママ」

「・・・」

消火活動をしていたのは、パサージュの常連客である消防士たちだった。その連中が駆けよってきたのだ。さとみママは、あまりの恥ずかしさに、膝から血が出ているのに、自転車を起こすと痛さも忘れ、消防士たちを無視して帰宅した。

「・・・」

あっけにとられた顔の、消防士たちを無視して。


4

今日も、スナックパサージュの指定席に、健一が座っている。靴を脱いで。

「ママ、相変わらず客、おらんな」

さとみママは、健一のグラスのしずくをお手拭きでぬぐいながら

「いいでしょ、そのぶん二人だけになれるんだから」

「その通りやけど、この店がつぶれたら、さとみママと、会えなくなるかもしれんやろ」

「大丈夫、何とかなるの。実はね、健一君が帰った後、結構お客さんが来るのよ。本当の話し」

「へぇ、つまり俺はこの店にとって、福を呼ぶ客やな」

「言うと調子に乗るから、黙ってたの」

「そう言えば若い頃、読書好きでよく行ってた本屋の主人が、俺が来たら、忙しなるって言ってたわ」

「ねぇ、以前約束した翔子ママの店に行こうと言ってた話し、覚えてる?」

「忘れてへんよ」

「じゃあ、来月の4月4日に行こうか」

「4月4日って、何の日?」

「当ててみて」

「えーと」

「ヒントはね。3月3日はひな祭り、5月5日はこどもの日でしょ。じゃあ」

「わかった、オカマの日」

「当たり」

「けど面白いな、そんな事考えるの」

「そうでしょ。その日、堂山の街はいろいろな店でイベントが行われるの」

「へぇ」

「コスプレもあるのよ」

「けど、髭面の男が、女の格好するんやろ」

「そう」

「なんか、げんなりするなぁ。ここでさとみママと二人でいる方がええんやけど」

「そう言わないで」

「そうやなぁ、翔子ママにも会いたいし」

そこへ四人連れの客が。

「ママ、帰るわ」

「4月4日、忘れないでね」

「うん」

健一は、帰っていった。


5

スナックパサージュには、いろいろな職種の客が来店する。消防士に新幹線の運転士、公務員、アパレル関係にスイミングスクールのインストラクター等、男が多いが、たまにガールズバーの女性も。そして勿論、ゲイも。

それぞれみんな、仕事を終えて、アルコールが五臓六腑にしみわたることによって、一日のストレスが発散出来るのか、カラオケを歌いに来るのか、それともさとみママに悩みを聞いてもらうためか。

人間というものは、ひとに悩みを聞いてもらうだけで、幾分か気持ちがスッキリするものだ。酔うと余計に、ひとにしゃべりたくなる。そして、さとみママがそういう雰囲気を醸し出している。

今日もガールズバーの女性が、いつもは三人一緒に来ているのに、五人連れの男性がカラオケを歌っているなか、正美という子が一人で来店した。細面の、目がパッチリとした色白の女性だ。

悩みでもあるのだろうか?

「いらっしゃい。今日はひとり?」

「うん。ねぇママ、話しを聞いて欲しいの」

さとみママは、カウンターから身を乗り出して

「うん、いいよ。水割りでいい?」

「けど、今騒がしいし。出直そうかな」

「もう帰るわよ」

「そう?」

「このお客さんたちは、最終電車が早いから、いつも11時に帰るわ。その時まで待ってられる?」

「もう11時よ」

正美が店の時計を見て言うと

「あの時計は20分早くしてあるの。初めて見るひとはびっくりするけど、最終電車に遅れないようにしてもらうため」

「そうなの」

「もう少し待って」

「うん」

20分ほど経って

「ママ帰るわ」

「ありがとうございます」

「また来るね」

「お待ちしてます」

さとみママは、店の玄関から半分ほど身を乗り出して、客を見送った。

五人連れの客が帰ると、店はさとみママと正美の二人きり。有線のムードミュージックが流れるだけ。さとみママは、片付けをしながら

「どうしたの、正美ちゃん」

「私ね、結婚しようと思うの」

「いいじゃない。もう30歳でしょ」

「そうなの、私もいい年だと思うんだけど。相手は子連れなの」

「子連れ?いくつくらいなの」

「彼は40歳で、奥さんは9年前に亡くなったんだって。子供は女の子で10歳。奥さんは子供が生まれて一年で亡くなったそうなの」

「子供と会ったの」

さとみママは、正美のグラスに付いたしずくを、おしぼりで拭き取りながら言った。

「何度が会って、私に懐いてくれてるの」

「じゃあ、いいじゃない。悩む理由なんて何もないでしょ」

「彼はとても優しくて、非の打ち所がないの」

さとみママは、腕を組んで

「じゃあ、言うことないじゃない」

「だから悩んでるの。彼はIT企業に勤めていて、私みたいなガールバーにいて、酒の相手をしてる女には、もったい無さすぎると思って」

「彼とは、何処で会ったの」

「職場の忘年会で、娘さんを、その日だけ親類に預けて、私の店に来たの。それからの付き合い」

「彼も、正美ちゃんのことをわかったうえでのプロポーズでしょ。子供に嫌われてるなら別だけど。10歳の女の子って、結構難しい年頃なのに、その子が懐いてくれるんだつたら。彼はねぇ、正美ちゃんの人柄に惚れたんだと思うの。だって、女の私から見てもいい子だと思うもん」

「ママは、本当にそう思ってくれるの?」

「嘘は言わないわ。もっと自分に自信を持って娘さんに会わないと。お母さんになるんでしょ」

「そ、そうよね」

ちょうど有線で、世界でひとつだけの花が流れている。

「こんなチャンス、二度とないかもしれないわよ」

「・・・」

「今度、彼氏を店に連れて来てよ」

正美は、店に入って来たときとは打って変わった輝く瞳で

「うん、ママに相談して良かった。また来るね」

「今度、彼氏を連れて来るのよ」

「うん」

正美が帰った後、さとみママはひとり、自分のグラスにウイスキーを注いだ。


6

健一が珍しく、手土産を持ってスナックパサージュに現れた。

さとみママと健一は、高校時代に恋人の仲だったが、夫の暴力に耐えかねたさとみママの母が、さとみママを連れて失踪し、二人の関係は終わってしまった。そして偶然、健一が入った店にさとみママがい、二人はほぼ半世紀振りの出会いとなったのだ。

「ママ、土産」

「あら、家に持って帰らなくていいの」

「ちゃんと家にも買ってあるよ」

「ありがとう、何?」

「高菜。博多への出張で買ってきたんや。酒の当てにピッタリやで。他のお客さんにもあげて」

「出張なんて、珍しいわね」

「そうやろ、自分も最初言われたときは、もっと若い奴おるやろうと思ったんやけど」

「けど?」

「どうせ行くんやったら、楽しもと思って」

「うん」

「博多の豚骨ラーメンに高菜や」

「それで買ってきてくれたんだ」

「ご飯に乗せて食べても、旨いで」

「美味しそうね」

「若いときは、よく行って泊まったりしたら、もつ鍋に焼酎や、絶対。今回は、日帰りやったから、ママにも買って帰ろと思って」

「悪いわね。ちょっと待ってて。小皿出すから」

さとみママは、小皿に2つ高菜を適量入れて健一の前へ。二人は高菜を口に入れ

「旨い」

「美味しい」

二人は顔を見合せ

「これは、お酒に合うわね」

「そうやろ。白ご飯でも、いくらでも食べれると思うで」

「しかたないなぁ」

と、さとみママは、ボトルが並べてある棚のいちばん下の引き出しから、さとうのごはんのパックをひとつ持ってきた。

「何や、あったんかい」

「あとで、ひとりで食べようと思ったのに」

「なんちゅう奴や」

さとみママは、健一に向かって、ニッと笑った。健一は

(その笑顔に弱いんや)

「さとみちゃんのその笑顔見たら、許したるわ」

「そう言えば、付き合ってたとき、食い物をよく一人占めしてたっけ」

「嫌だ、私。そんなにいやしくないけど」

「たった今も、やってたくせに」

「そう言われてみれば」

「やっぱり」

急に、さとみママが健一の肩をたたいて

「痛」

「やだ、そんなに強くたたいてないわよ」

さとみママは、グラスをじっと見つめ

「私たち、一緒になってたらどうだったんだろう」

「そのことは、言わないようにしようと言ったのは、ママのほうだぜ」

「そうだったわね」

「翔子ママのように、ここでは過去のことは、生ゴミみたいにパッと放らな」

さとみママは、ハンカチで目を拭いて

「そうよね。ちょっと感傷的になっちゃったかしら」

「いつものママらしくないぜ」

「うん」

「健一君、一杯ちょうだい」

「いくらでも」

さとみママは、マイグラスに健一のボトルからウイスキーを注いで

「ありがとう」

さとみママは、健一にウインクをして、水割りを口に含んだ。グラスを持つさとみママの指が美しい。

そこへ浜ちゃんという馴染みの客が現れ

「浜ちゃん、いらっしゃい!

小声で、さとみママが健一に

「うちの四天王よ!

「あー、そういうこと」

健一は、浜ちゃんに頭を下げると、浜ちゃんと言われるひとも頭を下げ、5曲ほどカラオケを歌って、一時間ほどで帰っていった。

「ママ。あのひと、いつもあんな感じ?」

「そうよ」

「四天王のひとり。と言うことは、常連さんがあと三人いるんや 」

「あのひとたちのお陰で、この店が持ってるの」

「じゃあ、拝まなあかんくらいやな」

「なかには、来てほしくないひともいるけど、仕事だから」

「そうやなぁ」

「来てもらいたくないひとが来る日に、健一君が、来てくれたらいいのよ」

「こればっかりは、ふところと相談せなあかんし」

「やっぱり、そうよねぇ」

「毎日でも、来たいくらいやけど」

「ありがと。その気持ちだけ、もらっとくわ」

健一は、グラスを持ち上げ

「ママ、お代わり」

「はい」

健一のグラスに、ウイスキーを注ぎながら、さとみママが

「健一君が顔を見せてくれるだけで嬉しいの」

「しかし、同窓会の帰りに帽子が風で飛ばされてなかったら、俺

違う店へ入ってたかもしれんもんな」

健一が、同窓会の帰りにひとりで呑み直そうと思って、スナック街を歩いていると、健一の帽子が風で飛ばされて、落ちた帽子を拾ったところが、昔の彼女であるさとみの店、スナックパサージュであった。

「不思議よね。このそばには、沢山のスナックがあるのに」

健一は、時計を見て

「うん。あっ、もうこんな時間や。帰るわ」

「もう。また、来てね」

「うん」


7

「:ママは、花見なんか行ってる間ないやろ。呑むのに忙しくて」

ここは堂山の、スナックパサージュでのやり取りである。常連の客である長井という60代の男性客がひとり。

「それがね。今日、行ってきたの。ゲイの仲間と」

「ゲイの仲間って、ママもゲイか?」

「冗談言わないでよ。この店によく来てくれるゲイの連中よ」

「仲間って、言うからや」

「嫌ね。言葉のあやよ」

「今日は天気が良かったから、桜

きれいやったやろ」

「そうよ」

「ほんまに桜見てたか。花見にかこつけて、一杯やるほうにちから入ってたくせに。ママ、めっちゃ酔うてるで」

「そう。まあ酒さえあったら、別に桜は散ってても関係ないけど。そんなに酔っぱらってるかしら」

「めっちゃ、ハイテンションやで。鼻歌歌ったりして」

「そう言われてみれは」

「そうやろ」

「トイレ」

さとみママが、カウンターからトイレに行くとき、つまづいて危うく転びそうになり

「危ない、ママ」

さとみママを支えたひょうに、長井の片方の手がさとみママの尻に触れ

「ケツ触るな」

「あのなぁ、ママ。あんた仮にも女やろ、女がケツなんて、ゲイの連中の言葉が移ったんとちゃうか。俺が支えてやったのに」

「支えてくれたんは、ありがたいけど、お尻を何度もさするから」

「あー、バレた?酔ってるから大丈夫やと思ったのに」

「やっぱり確信犯や」

その後、ママがトイレに入ったまま、10分経っても出て来ないので、長井はトイレを叩いて

「ママ、トイレで寝てるんとちゃうか。ママ」

さとみママが、トイレから出てきて

「やっぱり寝てたやろ」

「ちょっと、目をつぶってただけ」

「何、嘘付くなよ。客をほっといて10分もトイレ入ってたで。クソやったら、しゃあないけど」

「やーね。レディに対して。いやらしい」

「本当に寝てたやろ」

「ちょっとだけ」

「やっぱり」

「長ちゃん、もっと呑も」

「大丈夫か。俺がママを介抱することにならんやろうな」

「介抱する振りして、私の身体を触るんちがうの」

「それだけ言えたら、大丈夫やな。それじゃあ、ジャンジャンやろうか」

「いよっ、待ってました」

長井は

(ほんまに、大丈夫かいな)

と、心の中で思いながらも、さとみママに合わせてアルコールのペースを上げていき

「あー、酔ったわ、ママ。そろそろ帰ろかな。おあいそ」

「もっと居てよ」

「電車、無くなるわ」

「しかたないわね」

ちょうどそこへ、ゲイのボンバーが現れたので

「ボンバー、ちょうどええわ。ママの相手したって」

と、長井は小走りで、最終電車に乗りに。

「こんばんわ」

「あれっ、ボンバー。田舎へ帰るんじゃなかったの?それで花見来てなかったんじゃ」

「やめたの。迷ったんだけど、田舎へ帰ったって説教されるだけだし。私のこんな格好としゃべりを、聞いたら」

ボンバーは、濃紺のブレザーにジーパン姿である。

「格好は、普通の男よ」

「しゃべると、わかるのよ」

「だってお母さん、病気で入院してるんでしょ」

「そうだけど」

「だったら、今日はもう遅いけど、明日の朝の一番電車で帰りなさい」

「けど」

「ボンバーの元気な顔を見せたら、それだけでママは喜ぶわ」

「どうせまた、ぶつぶつ言われるに決まってるんだから」

「それでいいじゃない。お母さんだって、病気なんかしてる間ないわって思ってくれたら」

「・・・」

「花見で、みんな心配してたわよ」

しばらく考えて、ボンバーは

「じゃあ、そうするから。朝までここに居

らせて」

「いいけと。私、勝手に呑んでるわよ」

カウンターの向こうで、両肘をついて半分目を閉じているさとみママに向かって

「ママ、私ね。男兄弟の三番目に生まれたの。父も母も、女の子が欲しかったみたいで、幼い頃私は、女ものの服をよく着せられたわ。髪も切らずに長く伸ばして。それで私も、その気になってしまって」

「それじゃあ、両親が悪いんじゃない」

「そうなんだけど」

「そうねえ。病気の親に文句を言ってもね」

「私ね。それで親と喧嘩して、家を飛び出したの。この街に来て、初めて私のことをわかってくれる仲間がやっと見つかったの。この街に居れさえすれば、私は素直に生きて行けるの。お互いに助け合って」

「長い間、悩んでたのね」

「うん。ママ、ありがとう」

5時になってボンバーは、まだ暗い朝もやの中、田舎へ帰っていった。


8

ひとりの男が、スナックパサージュに訪れた。ひどく感慨深げな顔をしている。

さとみママは、お手拭きを差し出しながら

「いらっしゃいませ。どうか、なされたんですか」

左隅から、二番目の席にいる健一も見つめている。

「いやぁ、何でもないよ。水割りを一杯下さい」

「はい」

さとみママは、グラスに氷を入れながも、その客の様子を気にしている。

そして、客に水割りを差し出すとき、

「店に入ってこられたときから、様子がへんでしたので」

「そうか。初対面のひとにも、わかってしまうくらいなら、ダメやな」

健一の方を見て、その客は言った。健一は、

その客に頭を下げて

「どうか、されたのですか」

「とうとう会社から、引導を言い渡されてね。もっとも、私の方から若い者に道を譲ってやってくれと言ってたんだが。いざ言われたら複雑な気持ちで」

「そうですか。言いたくなければいいんですが、どんなお仕事を」

さとみママは、両手で髪をかき揚げながら言った。

「高校時代からの友人と、子供服のブランドを立ち上げてね。右肩上がりで急成長して、今では押しも押されもせぬ会社になって。もう私も、60を半ば廻ってね。重役のポストを若い者に譲る気になって、友人に相談したんだ。自分で言うのも何だけと、家族を旅行にも連れて行かずに、かなり頑張ったつもりやったんやけど。ひとつの俺の時代が、終わったっていう感じかな」

「団塊の世代のひとは、そんなひとが多いですものね」

「心の片隅で、おまえはこの会社には無くてはならないひとなんだと、言ってもらいたかったのかもしれん。自分から言い出したことなのに」

健一が、カウンターの隅で

「そんなものですね。すいません、全部聞いてしまったんですが、今まで会社のために一生懸命頑張ってきたのに理解してもらえない。何だか、寂しいんですね」

「そ、そうなんですよ。寂しいんだ、ほんと」

その客は、両手でグラスを握りしめ、水割りをあおった。

さとみママも

「私も、何だかわかるような気がするわ」

と、健一の方を見て言った。

「この店に来て、良かった。わかってくれるひとがいて。水割りのお代わり、頂けますか」

「はい」

さとみママが、グラスにウイスキーを注ごうとすると

「ちょっと待って下さい。水割りじゃなくてロックで下さい」

「はい」

さとみママが、グラスを客の前に置くと、その客が健一の方を見て

「私と一緒に呑んでくれますか」

その客は、店のウイスキーの並べてある棚を見て

「山崎をください。そしてこの方にも」

「私もいいですか」

と、さとみママが、マイグラスを差し出すと

「いいですよ。私に付き合って下さい」

さとみママが、3つのグラスに氷と山崎を注ぐと、三人で

「あらためて乾杯」

「そうですね。私の第二の人生に」

「これからですよ」

「女房に迷惑ばかり掛けてきたから。今度、一緒に旅行に行こかなと思って」

「その意気ですよ」

やがて、山崎が一本空いてしまって

「いやぁ、付き合ってもらえて、ありがとう。酔った、また来ます」

その客は健一に

「付き合って頂いて、ありがとうございました」

と、帰っていった。健一は、さとみママに向かって

「ずっと走り続けてきたんやな、あのひとは。俺なんか、とても真似できんわ」

「いろいろ犠牲にしてきたと思うわ。奥さんとか、子供さんとか」

「そうやなあ、俺みたいな人間の方が、嫁さんにはええやろうな」

「そうよ。絶対」

「あのひとの第二の人生が、成功するように祈るしかないな」

「うん」

二人は、グラスとグラスを重ねた。


9

その日は、スナックの中まで聞こえるほどの雷雨が。さとみママは思わず店のドアを開けて、外の景色を見たほどだ。すると外は、凄い霧雨にそして雷。

(帰る頃までに、雨がやんでくれるかしら。せめて雷だけでも)

そこへ健一が。

「まあ。この雨の中、よく来てくれたわね」

「JRが、人身事故で止まってしまったから、時間潰しやと思って」

「パサージュに来ることが、時間潰しなの」

「いや、ママの顔が見たくて」

「まぁいいわ。許してあげる。入って、雨に濡れなかった?」

「大丈夫。それにしても、いつもこの店はガラガラやな」

健一は、店の中を見回してから、指定席の左隅から二列目の席に。

「健一君が来てくれると思ったから、他のお客さんに帰ってもらったの」

健一は、さとみママからおしぼりをもらって

「ママは相変わらずやな。けど俺としては、二人きりの方がええけど」

「まあ嬉しい。いつものでいいわね」

「うん、いや今日は、ロックにするわ」

「はい」

さとみママは、コースターのうえにグラスを置いて

「どうぞ」

「ありがとう」

「私も頂いていい?」

「うん、いいよ」

健一は、自分の指定席に座って、必ず靴を脱ぐ。

「健一君の隣りに座ってもいい?」

「勿論」

さとみママが、カウンターから出て行こうとしたとき、店のドアが開いて

「あっ、田辺ちゃん」

「久しぶり」

「本当に久しぶりね。すごい雨でしょ、濡れなかった?」

「もう降ってないよ」

さとみママは、健一の方を見て

「健一君、田辺ちゃんは空手の先生をしてるの」

「へぇ」

田辺と、さとみママに言われた客は、中肉中背で目が細く、優しそうな顔をしていて、とても空手の先生には見えない。

「久しぶりやから、俺のボトルはもう無いんとちゃうかな?」

「一年以上前なら、もう整理したけど」

「それ以上、空いてると思う。じゃあ新しいボトル入れるわ」

「何にする。ウイスキー、それとも焼酎?」

「焼酎にするわ」

「いも、麦?」

「いも」

「じゃあ、黒霧島か赤霧島」

「赤にする」

「了解」

さとみママが、棚からボトルを取り出して、グラスと氷を用意しているあいだに、健一が田辺を見て

「ちょっとお聞きしたいんですが」

「何ですか」

-「いや、あの。空手の先生って、どうしてなれるんですか。自分も若い頃ブルースリーの燃えよドラゴンを見て、空手やりたかったけど、とうとう道場の敷居をまたげなかったもんで」

田辺は、しばらく考えて

「継続は力なりですかね」

「そうですよね。ずっと続けることが、いかにたいへんなことか」

「あら健一君。わかったようなこと、言うじゃない」

「それくらい、俺にもわかるわ。俺も高校野球やってたから。子供の頃から、毎日バット振ってたもんな」

「空手も同じようなもので、突き蹴りを、練習のたびに何十回、何百回と繰返しているうち、極めが出来て来るんです」

「ママ、ほらな」

「ふーん」

「けど、俺も空手はやりたいと、ずっと思ってたけど、二の足踏んだもんな」

さとみママが

「ブルースリーの影響ね。覚えてる?健一君、一緒に燃えよドラゴン、見に行ったもんね」

田辺は、ビックリして

「えっ、二人はどういう仲なんですか?」

「昔の恋人」

「へえ。あっ、空手の話しですが、今からでもどうですか」

「いや、もう十歳若ければ、その気になったかもしれませんが、六十歳越えてしまっては継続出来ないと思うんです。気持ち以上に、身体が付いていかないかなと」

「そうかもしれません。私もずっと身体を動かしているから、やれるんだと思います」

「東京オリンピックの正式種目になったから、生徒は増えたんじゃないですか」

「それが、思ったほどには増えてないんです」

「そうなんですか。けど、最近の陰湿ないじめなんかの防止策にはなるんじゃ」

「そうですね。空手を習ってると言うだけで、いじめられはしないですからね」

さとみママが、

田辺の前にグラスを置いて

「どうぞ」

「ありがとう」

「どうされたんですか。急に店に来なくなったんで、心配してたんですよ」

「お袋が、ボケてしまってね。ずっと介護してたんだ。そして、先月とうとう亡くなってね」

「それは御愁傷様でした。たいへんだったんですね」

「誰でも、越えないといけないことやねんやろうけど、本当にしんどかったよ」

「私にも、たったひとりの母が居るんですけど、最近ボケできて」

「そうやなぁ、順番なんやろうけど」

「こんなときに、空手で汗を流したら気分転換になって」

「そうかもしれないわね。健一君、最近汗流してないでしょ」

健一は、ただ頷くだけ。

「二人の関係は?」

田辺は、さとみママが健一君と呼んだ相手が気になって

「昔の恋人」

「それはさっき聞いたけど、どれくらい昔?」

「もう45年になるかな」

「高校生くらいのとき?」

「そう、そんな頃やね」

「うん」

「いいですね。昔の恋人が、会いに来てくれるなんて」

「いいでしょ」

さとみママは、健一を見て言った。

「私にも、いたことはいたんですが」

「・・・」

「若いときに、亡くなりましてね。交通事故で」

「えっ」

「将来を約束してたんですが、そんな事、今の嫁さんも知らないことです」

「そうなんですか」

「田辺ちゃん、以前よく来てくれてたとき、そんな話ししてくれてた?」

さとみママは、両手で髪の毛を掻き分けながら言った。

「いや、誰にも話してないよ。今が、初めて」

「辛かったのね」

「その頃、若かったから。空手も初段くらいやったかな。毎日のように喧嘩ばかりして、自分を忘れさせてたわ」

「どんな」

「チンピラ相手に、どついて、どついて。喧嘩相手探して、街を歩いてたこともあったわ。今やったら、殺されてたかも」

「そりゃ、好きな彼女が、突然死んだら俺も、そうなっかも」

健一は、さとみママを見て

「突然、おらんようになったし」

さとみママは、夫の暴力に耐えかねた母と一緒に突然、逃げたのだった。だから健一の前から、いなくなったという訳だった。

「えへっ」

さとみママは、笑っている。

「まだ俺

は、偶然にしてもさとみママに会えたけど、田辺さんは絶対に会うことが出来ないんですもんね」

「そうなんです。いや、古い話しをしてしまいました」

「田辺さんの心の中に、彼女は生き続けてるんですよ、きっと」

「そうよね」

「お二人の前で、ついつい話してしまいました」

「私も聞けて良かったわ。田辺ちゃんの違う一面が見れて」

「田辺さん、改めて乾杯しましょう」


10

「いらっしゃいませ」

スナックパサージュのさとみママが、ひとりの若者を店に迎え入れた。ジーパンにカジュアルシャツ姿、髪を真ん中で分け、細身で大きな瞳をしている。

その若者は、店の中をキョロキョロと見回してから椅子に腰掛けた。若者の手には一輪の花が。

「あのう、初めてスナックに来たんですけど。料金のしくみがよくわからなくて。オ、俺。4千円しか持ってないんですけど、それで呑ませてくれますか」

「3千円でいいわ。帰りの電車賃もいるでしょ」

「何、呑みます?ウイスキーか、焼酎か」

「じゃあ、焼酎で」

さとみママは、焼酎を棚から出して

「水割りでいいんでしょ」

「はい」

さとみママが、水割りを作りながら

「今日は?」

「はい。俺、お袋に迷惑ばかり掛けどうしで。俺が子供の頃、親父とお袋が離婚して。それから俺、家にも帰らんと遊んでばかりで、親不孝しまくって。そのあいだも、お袋は朝から晩まで働きどうしで。お袋が熱を出して、寝込んだときに初めて、お袋がたった一人で苦労してきたことに気付いて。それから俺、一生懸命働いてお金貯めて。お袋の誕生日に、最初は花を買おうと思ったんですけど、花持っての、電車の行き帰りが恥ずかしくって。安いけど指輪を買うことにして。お袋に、いざ渡そうもなると気が引けてしまって。それで、一杯引っかけて行こうと思って、この店に来たんです。一度、スナックに来てみたかったし。他に、お客さんもいないのも、ちょうど良くて」

「あら、お客さんがいなくて、すいませんね」

「い、いや。そんなつもりでは」

「お母さんの素晴らしさが、やっとわかったんですね。つくさないひとが、つくされることはないんですよ」

「えっ」

「だから、お母さんがあなたにつくしたから、あなたもお母さんにつくすんですよ」

「やっぱり、親子だから」

「親子だから、当たり前だと思ってるでしょうけど、しないひとはしないわよ。まあ、一杯やりなさい」

「はい」

その若者は、焼酎をチビチビ呑み始め

「すいません、本当に3千円で、いいんですか?」

「いいわ、また来てくれたらいいのよ。つまり、先行投資ってわけ」

「はあ」

さとみママは、両手で髪の毛を掻き分け

「お母さんのありがたみがわかって。一生懸命働いてどれくらい?」

「ちょうど一年です」

「よく頑張ったわね」

「はい、酒も呑まずに。だから今日、これが一年振りです。美味しい」

その若者は、グラスを見ながら言った。ふと店の時計を見た若者は

「あっ、もうこんな時間。あんまり遅なったら、お袋寝てしまう」

その若者が帰ろうと席を立つと、さとみママが

「忘れ物はないわね。お母さん、絶対涙を流して喜ぶわよ。花も持った?」

「はい」

「また、この店に来てね」

「はい、絶対来ます」

「約束よ」

若者は、足早に店を後にした。


11

「いらっしゃいませ」

いつものように、さとみママが来店した客に挨拶すると、その客は元気なくため息をついて席に腰掛けた。

「どうしたの。元気ないわね」

さとみママが、いつもと様子の違う常連客の近本に聞くと

「今まで30年連れそってきた嫁に、別れようと言われたんや」

「えっ、何か悪いことしたの。浮気とか」

「それ言うやろ。俺、全く身に覚えがないんやけど」

「けど、何かあったからでしょ。近ちゃんがまもなく定年になろうとしてるのに、別れ話しなんて。熟年離婚っていうやつね 」

「俺が、暴力振るったって言うんや。それが原因やって」

「近ちゃんが、知らず知らずのうちに、さりげなくしている、例えばこついたりすることが、奥さんには耐えられなかったのかもしれないわよ。だから、近ちゃんには、わからなかったんじゃない?」

「そうなんかなぁ。こついたりした覚えはあるけど。そんなんやったら、全然悪気はないんやけど」

「それが奥さんには、たまらなかったのよ」

コロッと、グラスの氷の溶ける音が。

「俺には、スキンシップのつもりやったんやけど」

「どうなんだろう、女の気持ちとしては。身体だけじゃなく、心まで痛かったんじゃないの」

「心まで痛いか。そう言われると辛いな」

「・・・」

「俺、結婚して30年、あいつのこと、何もわかってなかったかもしれん」

近本は、水割りをグッと呑んで

「ママ、お代わり」

「はい」

さとみママは、近本のグラスにウイスキーを三分の一ほど注いで、水で割って、かき混ぜてから、お手拭きでグラスを丁寧に拭き取って、近本の目の前にある、スナックパサージュと書いたハート形のコースターのうえに置いた。

「30年という月日は、いったい何やったんやろう。嫁と共に生きてきたつもりやったのに。出会った頃は、あいつから声掛けてきたんやで、ママ。アイツの方から」

「それは昔の話しでしょ」

「それはそうやけど」

「けど」

「男のエよ。きっと」

「男のエゴか」

「男は、昔の話しをしたがるのよ。武勇伝とか、スポーツで頑張ったこととか。女は未来」

「それでか。あいつは、俺と別れて未来を考えてるのかな」

と、近本は天井を見た。

「子供もみんな片付いたらと、前々から思ってたんじゃないの、奥さんは」

「じゃあ、確信犯?」

「近ちゃんも、未来を考えたらいいのよ」

「そんなこと言ったって」

近本は、グラスを置いて考え込んだ。そのとき、10時を示す時報が。

「そうよね。そんなときは、おんなの方が強いのよね」

「そうかもしれん。俺、ショックやもん」

近本が、またグラスを持って、ウイスキーをグッと空けると

「もう呑むの、やめたら」

「えっ」

「今日は、それくらいにした方がいいわ」

「何で。俺、酔いつぶれたいんや」

「近ちゃんの今日の酒、身体によくないわよ」

近本は、さとみママをじっと見つめると

「酒では解決しないわよ」

「そうやな。今日は、帰るわ」

「近ちゃん」

「ん」

支払いを済ませ、パサージュの扉からでるところで、近本がさとみママに振り替えると

「近ちゃん、明日があるさ」

さとみママが、にぎりこぶしを作った手を、夜空に向かって突き上げると、近本も急にニコッとして、さとみママのようににぎりこぶしをを突き上げて、そして、帰って行った。


12

ゲイのみどりが

「ねぇママ、最近よく来る健一君とは、どういう関係?」

「昔の恋人」

「へぇ、それで二人はどこまで行ったの?」

「高校時代だったから、手を繋いだくらいかな」

「キスも無かったの?」

「うん」

「なんだ」

「何、期待してるのよ」

「じゃあ、今は」

「今なんか、特に。健一君には家庭があるし」

「昔の恋人なんでしょ、奪っちゃえば」

「この店に、たまに来てくれるだけでいいの」

その時、みどりのグラスの中の氷が溶ける音が店内に響いた。

「なーんだ、残念」

「やっぱり、変な期待してた」

さとみママが、みどりのグラスのしずくをお手拭きで拭いていると、偶然、健一が来店し。

さとみママとみどりが

は、顔を見合せ笑ってしまった。

「どうしたの」

「なんでもないわ。いらっしゃい」

健一は、いつもの指定席である奥から二番目の席に、いつものように靴をを脱いで座った。

みどりが健一に

「こんばんわ。みどりと言います」

「健一です。どうも」

と言って、健一が頭を下げると、みどりも頭を下げて

「ママの昔の恋人なんだって」

「まあ、そうだっなよな」

健一は、さとみママの方を見て言うと

「だったって?」

「今は俺、所帯持ってるし。家庭、壊したくないし」

「じゃあ、何で店に来るの」

「何でって、言われても」

「ママがかわいそうじゃないの」

「そうかな」

「そうよ。絶対」

「やめてよ、みどりちゃん」

「だって私、ママの代わりに言ってるつもりなのよ」

「だからやめて」

「どういうこと?」

「このままでいいの」

「何で」

「今更、高校時代に後戻りは、できないでしょ」

「そりゃそうだけど」

「もうこの年になって、面倒なことはいいの」

「二人共、このままでいいの」

「うん」

さとみママと健一は、お互いに顔を見合せて頷いた。

「年なんて、関係無いじゃない」

「昔の思い出は思い出として、大事に取っておきたいんや」

「そうなのよ」

みどりは、水割りをグッと呑んで

「よくわからないわ」

「だったら言うよ。仮にさとみママと一緒になって、いい日ばかりやったらええけど、喧嘩なんかした日には、思い出も何もかも、ふっ飛んでしまうやろ」

「喧嘩しなけりゃいいのよ」

「それじゃあ、残りの人生、俺もさとみママも、お互い我慢して、気を使って、言葉選んで生活せなあかんのやで。今やったら、ママに家のこと、仕事のことを、この店でママにボヤいて発散できるんやで」

「そんなものかな?」

「そんなもんやねんて」

「あんたも、私らくらいの年になったら、わかると思うわ」

「ふーん」

みどりはまだ、納得していない。

そこへ、消防士の常連客が5人連れで現れ、店は急に、賑やかになった。

「みどりも早く彼氏を作らなきゃ」

さとみママの一言に

「そ、そうよね」

健一は、ひとりで頷いている。


13

「ねぇママ、隣りの店は何の店?入ったひとがいるので、何気なく見てみるとえらい暗かったけど」

スナックパサージュは、堂山通りに面したビルの一階で、奥から二件目である。スナックパサージュの常連客となった健一が、指定席から尋ねた。

「それがねぇ、アルコールを呑みながら、女のひとのオッパイを触れる店らしいの。そしてねぇ、暗いからわからないかもしれないけど、店員さんは、おばあちゃんが多いの」

「えっ」

「けど、おばあちゃんやったら、オッパイもしぼんでんのとちゃうの」

「やーねぇ、そんなおばあちゃんじゃないけど。最近は男のひとも女のひとも、60代でも70代でも若いでしょ」

「確かに若いけど」

「私、見たのよ。隣りの店に入って行く、女のひと」

「へぇ、何も知らんと年寄りのオッパイ触って、男の性やな」

「そしてねぇ、この店のお客さんで隣りの店に行くお客さんがいたから、案内する振りをして付いていって、覗いてみたの。そしたら中真っ暗。だから、女のひとの年齢も分かりにくいの」

「ママも好きやなぁ」

さとみママは、健一のグラスのしずくをお手拭きで拭きながら

「だから、年取ってても、分かりにくいの」

「今度、この店来るときに隣りの店へ入る客おったら、注意しとこ」

「健一君もオッパイ星人じゃないの」

「俺はお尻派」

「そうなんだ」

「ママ、ええお尻してるな」

「あら、いやだ。いつもそういう目で見てたの」

「ええやろ。俺の物になるとこやってんから」

「やめてよ」

「冗談、冗談」

さとみママは、健一のグラスのウイスキーが少なくなってるのに気付いて、新しい水割りを作りながら

「最近、よく来てくれるけど、家の方は大丈夫なの」

「うん、子供も無事ひとり立ちしたから、もう大丈夫」

「寂しいでしょ。奥さんと二人切りじゃ」

「まあ、ひとりでチビチビやる酒は、寂しいな。せめて嫁さんが付き合ってくれるんやったら、別やろうけど」

「あら、奥さんは呑まないの」

「そうや、だからついつい」

「そうなの。じゃあ、私ももらおうかな」

「どうぞ」

さとみママは、マイグラスに健一のボトルのウイスキーを入れ、水割りを作りだした。

「奥さんを大切にしてるのね」

さとみママと健一が、乾杯したあと

「勿論、二人になったので、これから気軽に旅行でも連れて行こうかなと思ってる。けど、ママからそんなこと聞かれると思わんかったわ」

「私も年取ったのかな」

と、さとみママは髪を掻き分け

「ここでは、高校時代の二人の思い出を話す場やと思ってた」

さとみママと健一は、高校時代の恋人同士だったが、別れてしまい、スナックパサージュで偶然の出会いがあったのである。

「そ、そうよね。現実的な話しは抜きにしましょうね」

そうして、時は過ぎてゆく。


14

さとみママは、週末に一度、スナックの当ててを買いにスーパーへ寄って、するめやおかきなど色々なお菓子を買って帰る。

(健一君は、ラムネが好きだから)

と思いながら。

昔はスナックと言えば、必ずグリコのポッキーがあったものだが。今は時の流れか。

(そうでもないかな)

さとみママが、レジで支払いをしていると

「あっ、さとみママ。久しぶり」

と、店の常連だった田中が、声を掛けてきた。

「あら、久しぶりじゃないの。ちっともお店に来てくれないし」

「いやぁ、中々忙しくて。実は俺、結婚したんだ」

「それは、おめでとう」

「嫁さんの名前、何と言うと思う?」

「わからないわ」

「さとみと言うんだよ」

「ウソ、そうなの」

「君に、憧れてたからね」

「嬉しいこと、言ってくれるのね。けど、結婚してしまったら、・・・。お幸せに」

「ありがとう」

「機会があれば、奥さんを店に連れて来てちょうだい」

「うん」

店へ帰ったさとみママは

(私は、いつになったら、結婚できるんやろう・・・。そんなこと考えちゃダメ)

下を向きそうになった、さとみママだが

(頭を上げて、真っ直ぐ前を向いて生きなきゃ)

さとみママは、髪を掻き分け

(そう、上を向いて歩かなきゃ)

さとみママは、グラスに入ったウイスキーをグイとあおった。

ちょうどそこに健一が

「まいど」

「いいところに来てくれたわね」

カウンターの中で、腕を組んでるさとみママの顔を見た健一は

「いいところやないみたいやけど」

と言いながら、いつもの左端から二列目の指定席へ腰掛け、いつものように靴を脱いだ。

そして、さとみママに

「どうしたの」

「何でもないわ」

「そんなことないやろ。俺にものすごく挑戦的な目をしてるけど」

「何でもない」

「そうかな、俺の気のせいかな」

「そうよ」

「けど、何かいつものさとみちゃんやないみたいやけど」

「そう」

「そうや」

「深呼吸させて、それで治ると思うから」

「それやったら、ええんやけど」

さとみママは、カウンターの中で深呼吸をしてから

「夫婦生活はどう?」

「どうして急に、そんなこと聞くの」

「今日ね。以前よく来てくれたお客さんにスーパーで会ったんだけど、私に憧れてたんだって。そして、そのひとが結婚したって言うから」

「それでナーバスになってたんか。さとみちゃんらしくないやないか」

「健一君が、私をもらってくれなかったから」

「そんなこと言ったって、俺の前からいなくなったのは、さとみちゃんの方やで」

夫の暴力に耐えかねたさとみの母は、さとみを連れて失踪したのだった。

「そうね」

と、さとみママは舌を出して笑った。

「そうや、その笑顔が、さとみちゃんなんや」

そして、今日も堂山の街は賑やかさを増して行く。


































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スナック パサージュ 赤根好古 @akane_yoshihuru

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