小倉金魚姫一首

錦戸彩

第1話

「むね、小さいね」

悪気なく言った言葉が、宙に消えて、多聞は、びくとした。しまった。波結(はゆわ)は、涙目になり、ついそっぽを向いてしまった。多聞は慌てた。

「いや…あのさ…」

初夜だった。多聞と波結は、三か月付き合って、入籍した。新婚だが、遠距離の夫婦である二人。出張の多い多聞と、うつ病で、家から出られない波結は、少しずつ距離を縮め、クリスマスイブの夜に結ばれる…はずだった。しかし、食べかけのケーキも、波結お手製のローズマリーのハーブ添えチキンも、ローストビーフも冷たくなって、ベッドさえも冷え冷えしている中、波結の胸は鳥肌が立ち、Hカップの胸は形(かた)無しだった。

ぎゅっと目を瞑り、耐えている波結は、鼻をすすった。「ちいさい」「むねちいさい」心の中で、今しがた、多聞に言われた言葉が、往来する。ショックだった。波結は、胸しか取り柄がないと思っていた。Hカップの胸、それだけが、波結の唯一自慢できることだった。男性に、胸を見せるなんて、波結にとっては、清水の舞台から、飛び降りるくらいの勇気を振り絞ってしたことだった。せめて、小さくても「形綺麗だね」くらい、言ってくれてもいいのに…。

多聞は慌てていた。多聞は、見た目はいい男だ。茶髪に、切れ長の一重、今風の遊びを知っていそうな二十八歳、なのに、童貞だった。それだけが彼の、大事にしつつも自信のない原因だったのだが、彼には彼なりのポリシーがあった。本当に好きな人と、初めてをしよう。結婚してから、操を解こうという固い誓いだった。ところが、こじれてしまったのだった。

波結は、涙をごしごし拭いて、電気を消しに、バスタオルを巻いた。

「電気消していいよね?もう寝る」

結婚式はまだしていない。入籍のお祝いに、友人からもらったバスタオルが、折跡をつけて波結の身体に巻き付いた。波結は、つま先立ちで、電気スイッチまで行くと、

「多聞…さむい」

と言った。多聞は理解した。暖房をつけていなかった。男だって、寒ければ縮むのだ。どうりで寒いと思った。波結はうっかりさんだということを、すっかり忘れていた。節約癖のある波結は、暖房を切っていたのだ。それもこれもお母さんが、波結に、こまめに暖房器具を消すようにしつけた厳しい掟の所為だった。しまった。

「ごめん、今つけるよ」

多聞は、暖房器具のリモコンに、手を伸ばすと、今更ながらに、赤くなった。俺が赤くなるなんて!寒いはずなのに、多聞の気持ちは高ぶって、体が熱かった。汗すら搔いている。波結は、電気を消すと、多聞の隣に帰ってきた。そして、毛布にくるまると、丸くなって目を閉じた。多聞は、両手を頭の後ろで組むと、少し、茫(ぼう)とした。自分が入籍するなんて…。

六月十四日。お見合いの日、多聞はダブルのスーツで、波結は、水色とピンクと白の点の散った胸が少し開いたワンピースを着ていた。多聞は、その谷間に釘付けになりながら、ぱっと、目を逸らした。赤くなっていた。波結は、下を向きながら、彼が自分の胸を視たので、

「男の人って、みんなおんなじ」

と、彼を軽蔑する気持ちになっていた。茶髪で、切れ長の一重、きっと、遊び人だ。

二人は黙っていたが、母親同士は気が合ったらしく、話が弾んでいた。

「うちの子は、これと言って取柄もなくて…」

「うちの子は見た目はこうなんですが、女っ気がないんです…もう絶望的な女嫌いで…」

実は女嫌いと聞いて、波結は、多聞を見る目つきが変わった。

「え…」

多聞を見る。多聞は、視線を感じると、ふと、胡坐の足を、正座に直して、両手を握ると、下を向いた。

「女性、嫌いなんですか?」

初めて波結が口を開いた。

「いや…どうも苦手で」

波結は、目から星が出た!女性が苦手!にっこりすると、急に口が軽くなった。

「私は百人一首が好きで、…」

多聞が波結を視た。

「え…歌が好きなんですか?」

「はい、うちの子は和歌が好きで、」

波結の母が口を挟む。なんでも、お正月に、母親と二人で百人一首をするのが習わしで、子供のころから慣れ親しんでいたらしい。多聞は、京都の宇治の小倉出身だ。京都の宇治には、平等院鳳凰堂、源氏物語ミュージアムと並んで、百人一首の時雨殿がある。よをうじ山と人はいうなりの宇治だ。小倉百人一首の小倉出身なのだ。

「自分で詠んだりもします」

「僕も、和歌を詠みます」

「瀬を速み岩にせかるる滝川の」

「割れても末に逢わんとぞ思う…崇徳院ですね」

「崇徳院さんは、大変な一生を送られて、また、元から激情家だったと思います」

「はい、ロマンチストというか…」

「はい、はい!それから、割れても末にというのは、」

「絶対にあきらめない」

声がユニゾンして、二人は見つめ合った。和歌がつないだ縁だった。多聞の苗字は縁煌(えにしら)と言った。縁煌多聞(えにしらたもん)。

ほどなくして結納が済み、二人は同棲を始めた。波結は、蓮経波結(はすきょうはゆわ)から、縁煌波結(えにしらはゆわ)になる予定だ。と言っても、多聞の仕事が落ち着くまでは、結婚式は後にしよう。来年を待たないかと家族間で話が出た。二人は、異性と住むなんて初めてだったので、どきどきの共同生活を始めたのだ。しかし、出張が多い多聞は、地方から波結にメールを送り、波結もメールで応える、このパターンが、多かった。同棲しているのに、遠距離恋愛のような二人は、少しずつ少しずつ、距離を縮めて行った。

出張に出かけて、初めての夜、多聞は、ぽつと呟いた。

「うちの金魚姫は元気かな」

多聞は、波結を金魚姫と呼んでいた。人魚姫ではなく、家で飼っている金魚みたいだなーと思っていたからだった。波結には内緒だ。赤い金魚を思わせる波結は、可愛らしく、肩までの耳元でウェーヴの掛かった髪が目の前をちらつく。大きな目に小さなはな、形のいい唇、少しふっくらしている。体つきも、ふっくらしていて、抱き心地がよさそうだ。そんなことを考えながら、多聞は、出張先の一人寝をしながら、波結に、早速、メールを書いた。

「足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」

山鳥の尾のように、長々しい夜を、ひとりで寂しく寝ています。それだけなのだが、この二人のメールは百人一首だった。

彼を待つ身の波結は、多聞からの和歌メールが待ち遠しかった。昼間は仕事で忙しいので、夜の寝る前が二人のメールタイムだった。人麻呂だ。初めてのメールが人麻呂。これはなかなか、さすがというべきだった。しかも、山鳥は、雌雄谷間を分かれて眠る習性があるので、私達にはぴったりだ。山鳥は、どんな声で鳴くのだろうか?多分、百人一首だ。なんて、自分たちのやりとりを山鳥のお互いを呼ぶ声に見立ててみる。波結は、王朝時代の山鳥になったつもりになり、ほーほーかな?それは梟?みーみーは猫?山鳥はぼーぼー?などと考えながら、なんと返事するのか、頭を巡らせた。

「夜をこめて鶏の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」

清少納言だ。まだ夜が深いのに、そんな山鳥の鳴きまね、と言っても、ここでは本当は鶏鳥(にわとり)ではあるが、のようなひとりかも寝むなんて送ってきても、あなたとはえっちしない、男女の関はゆるさじ、としたのだった。清少納言と藤原行成との機知に富んだユーモアのある男女の友情をほのめかした。二人は恋人だが、まだ友達ですよ、というわけだ。籍を入れていないので、関はゆるさじ、とでもいいたげだ。関は掛詞にした。

「これは手痛くやられたな…」

多聞はたははと苦々しく笑うと、ごろんと寝返りを打った。たはは、多聞は苦笑いする時、いつもそう笑う。それで、

「何し負わば逢坂山のさねかずら人に知られで逢う由もがな」

あなたに逢うという名前を負ったさねかずらのように、人に知られないであなたに逢う術がない、と三条右大臣の歌を送った。

君に会いたいが、夫婦になるので知られてしまうね、と夫婦になることを強調している。逢うに、逢坂を重ねて、関を超えたい、山を越えたいと、「越える」の意味を隠して伝えた。

「これでどうかな」

すると、すぐに返歌が来た。

「由々しとて忌むとも今はかいもあらじ憂きをばこれに思いよせてむ」

これは百人一首ではない。しかし、三条右大臣、つまり、藤原定方の女の歌だ。賀茂の祭り、葵祭、逢う日祭は、男と女が会う、つまり、逢う、寝ることを意味する祭りの日である。牛車には、ハート形の葵の葉を二つばかり、セットにして飾り、賀茂御祖(みおや)神社、すなわち下鴨神社から、賀茂別雷(べついかずち)神社、すなわち上賀茂神社に向かって詣でる祭りだ。

そこで、藤原定方が、昔の女に扇を一つ所望し、女が秋の扇のようにお捨てになって、恨めしいと扇に歌を書いてよこした。ここでは、三条右大臣を出汁に、三条大臣の女を引き出して、あなたも三条大臣のように、そんなお歌を送ってきてもわたしを秋の扇のようにお捨てになるのね、というわけだ。多聞は、また、たははと笑った。そこで、その歌を知ってるよ、という意味で、

「由々しとて忌みけるものを我がためになしとは言わぬは誰(た)がつらきなり」

と送った。忌むような扇を送る行為を嫌とも言わずに成してくれるあなたは心優しい。秋の扇のようにお捨てになってと恨み言を言われた私ではなく、誰が、あなたがつらいだろうというわけだ。秋の扇のようにお捨てになると僕に話す君がつらいね、と言ってみた。

多聞は今日はこれで返って来ないだろうと思った。返事はないだろう。多聞は、このやりとりが当たり前になるのだと感じながら、歌をこんなにも、やり取りできる喜びに浸った。手痛くやられたが、気持ちがいいのだ。知っているという共通の感覚、が、心地いい。

多聞は電気を消すと、目を閉じた。すると、るるっと、携帯が鳴って、

「おやすみなさい、多聞」

と書いてあった。多聞は自分の名前が好きである。多聞と呼ばれるのは、何となく、こそ映ゆかった。さん、を付けて、多聞さんと呼ばれると思っていたのに、波結は、初めから、

「では、夫婦になるんだし、多聞と呼びます!」

と、宣言した。多聞とは、多聞天の多聞、四天王で、帝釈天を守護する守り神だ。多くを聞く、多聞は、ずっと、人の話をじっと聞いてきた。職場でも、人の話ばかりを聞いて、自分の話は、後回しにしてきたのだ。

そこで、多聞が、通ったのがキャバクラだ。キャバレークラブ、お金を払って、女の子に話を聞いてもらう場所だ。童貞の多聞は、女性と話すことがなかったので、最初は緊張した。しかし、それなりに、若く、切れ長の一重、格好よく細身の多聞は、髪を整え、茶色く染めてみると見違えた。ホストと言っても過言ではないくらいに、男前になった。遊んでいる風体が醸し出され、生来の真面目さが影を潜めた。

多聞は、これなら、キャバクラに行っても、笑われないし、女の子慣れしているように見えるだろうと自負した。そこで、手っ取り早く、歌舞伎町の一番最初に目に入った店に入ることに決めた。店に入ると、女の子の写真がいくつも掛けてある。話を聞いてもらうのだから、清楚な子がいいのだが、なかなか、みんな髪を染めて巻いているので、軽い女に見えた。それでも、多聞は怯まなかった。

自分も髪が今は茶色いのだから、それなりに、軽い男になった気になった。そこで、勇気を振り絞ると、一番、若そうな女の子を指名した。指名料が入るのではないかと思ったからだ。女の子を応援したかった。席に通されると、まず、ボーイが飲み物を聞くので、シングルのウイスキーを頼んだ。氷が丸い。これが、キャバクラの飲み物かと、多聞はまじまじと、丸い氷をグラスの中で、転がしてみた。キラキラと輝くグラスは、バカラなのだろうか?そんなに高いグラスを使うはずはない?多聞は女の子を待つ間、いろいろ考えた。

周りを見渡すと、はやい時間なので、まだ客はまばらだ。一人で来ている者、二人で来ている者、大勢で遊びに来ている者など、いろいろだ。ダーツか、ビリヤードでもしに行くのだろう。それか、歌舞伎町の飲み屋やキャバクラを梯子するのかもしれない。

多聞は塩が欲しかった。飲むのに、つまみはあったが、せっかくの旨い酒を飲むのだから、つまみは塩が良かった。メニューには、塩はないので、ボーイを呼ぼうとした。声を掛けようとすると、そこで、女の子が来た。多聞は、二十五歳だった。女の子は、二十歳くらいだろうか、まだあどけない表情が目についた。ニコッと笑うと、

「こんばんは早雪(さゆき)です」

と言った。

雪か…早春の雪で早雪かと思った。訊いてみよう。

「こんばんは、こういう店は初めてで…慣れてないんだ。教えてくれない?」

「慣れてないんですか?わたしも、今月入ったばかりで、髪をセットするのも、まだ面倒です。でもキレイになれるから…」

早雪、早幸か…そんなに早く幸せになりたいのか。どんなに不幸なんだ。多聞はその早雪に同情した。若い身空で会話を売る、仕事をしているのだから、家はどんな家か想像がついた。

「格好いいですね」

多聞は、お世辞だとは思いつつも、勝ったと思った。その返事は無視して、早雪に尋ねた。

「いつ生まれなの?」

「いつ生まれ?」

「秋?冬?」

「冬です」

「それで、早雪?」

早い雪なのだから、霜が降りる秋に生まれて早雪なはずだ。それで、両親のセンスがわかった。

「雪の日に生まれたので」

「何月?」

「十二月です」

多聞はがっかりした。早い雪で早雪だと思ったが、紗雪か沙雪かもしれなかった。指名する時に、ひらがなだったので、期待したのだ。

「塩あるかな?」

「お塩ですか?」

若く、不慣れな女の子には、つまみに塩はなかった。塩と言われても、何するんだろうという目で見てくる。がっかりだ。少なくとも、歌舞伎町に店を構えているのだから、それくらいの教養があってもいいはずだ。仕方ないのかな。若いんだし。二十歳だから、お酒は飲めるはずだが、バーには行ったことがないのか?ソルティードッグを飲めば、塩が酒を旨くするとわかるはずだ。酒が甘くなる。そう、ネクターのように。ネクターとは、ギリシア神話のオリンポスの神々の飲む酒だ。色はそうだな、多分、桃色で、不二家と書いてある。多聞は、うくくっと喉元で笑った。

不二家のレモンスカッシュが好きだった。よく家族で不二家に、食事に行った。子供にとっては、不二家は遊園地だ。好きなものが、なんでもあって、ハンバーグでも、ナポリタンでも、好きなものを頼んでいいのだ。しかも、ケーキもある。多聞は甘党だった。男で甘党なんてと言われそうだが、多聞はそれは違うと思っていた。武士だって、茶店で御手洗団子を食べたはずだ。茶を啜って。

「お塩もらいますか?」

さゆきは、なおも聞く。もらってくれ。多聞は、チェンジという制度を思い出した。金は持ってきた。チェンジしてみようか?でも誰に?ナンバーワンっていくらくらいするんだ?指名料高いのか?ちょっと興味があった。酒が回って、気が大きくなってきていたので、

「チェンジしていい?君つまんないから」

と言ってのけた。女の子はびっくりして、傷ついた顔をしたが、多聞は少しも申し訳ないと思わなかった。僕をがっかりさせた罰だ。

「ナンバーワンっているの?」

「さくらさんですか?」

「櫻っていうんだ」

どんな桜か、観てみたかった。一重か八重か、牡丹か枝垂れか?

「さくらさんを指名したい」

「待っててください」

女の子はぶっきら棒に言うと、すっくと立ち上がって、ボーイに

「さくらさん、指名です」

と言った。さっさと、引っ込む彼女の目が赤かったので、多聞はさすがに、胸が痛んだ。

「ごめんね、さゆきちゃん」

「いいえ」

さゆきは、さっさと引っ込んだ。ナンバーワンって、どんな女だろう?枕営業するような、そんな軽い女を想像する。美人かな?ボーイが、小皿に塩を載せて出したので、塩化ナトリウムを出されなくて、ほっとした。まさか科学塩で酒はない。旨味がないのだから。

「こんばんは、さくらです」

マーメイドドレスが、キラキラ光っている。腰からおしりのラインが素晴らしかった。ふっくらしていて、女性らしい。身体は、細すぎず、太すぎず、中肉中背で、ただ、ハイヒールを履いているので、多聞と同じくらい背はあるようだった。マーメイドドレスは、白というか生成りがかっていて、髪は赤毛に染めているようだった。胸までの髪は、巻いてあってウエーブしている。さすがに、美しい。なにより、上品だった。

「お綺麗ですね」

多聞が褒めると、にっこり笑って、顔を、わずかに右に傾けた。多聞より年上だろうが、それを感じさせない少女らしさがあった。淑女だな。多聞は、指に塩を付けて舐めながら、酒を飲んだ。

「何処のお塩かしら?」

「伯方じゃない?」

「は、か、たの、しお」

ナンバーワンって、こんな女なのか!多聞は驚いた。上品な面持ちをしているかと思えば、伯方の塩のCMを歌って見せる。なんでもするな!多聞は、女に興味があった。個人としては興味はない。キャバクラなんかで働く女と、多聞は思っていた。しかし、会話を売る女というのがどんな女なのか、観てみたかったのだ。

「枕営業とかするの?」

「枕営業はしません」

きっぱりと言い切るのがナンバーワンなのか。それはたまになんて、余裕をかましたりしないのだ。

「なんで?」

「早く寝たいんです」

多聞は呆気にとられた。

「早く寝たいって…」

つい、素が出る。

「いやだ、笑うトコ」

「あ、なんだ」

「アナンダ?」

「アナンダを知ってるの?」

「仏様の最後の弟子で息子ですよね」

この女!やっぱり、ナンバーワンって、違うんだ。

「なんで、さくらなの?」

「櫻が好きなので」

「なんで櫻が好きなの?」

「同期の桜」

「同期の桜?」

「知りません?」

「いや」

「歌ですよ」

多聞も、同期の桜は聞いたことがあった。多分、戦争の歌だ。日本空軍か何かの特攻隊の歌だ。貴様とは、昔は、尊敬語だったことを思い出す。

「俺と貴様は同期の桜、見事散ります国のため、みたいな歌です」

「なんで好きなの?」

「人を待ってるから」

「人を待ってる?」

「お国のために、散ってしまう人を待ってるから。彼と私は同期の桜なんです」

多聞は驚いた。男を客にして商売する女が、自分の男の話をするものなのか?しかも、待ってるだって?

「アメリカにいます」

「アメリカの何処?」

「ボストン」

「寒いとこだね」

「はい」

「君を買いたい」

「高いですよ」

「花園神社に行きたいんだ」

「嫌いなんです。花園神社」

「フラれたな」

「ごめんなさい」

「なんで、嫌いなの?」

「どうも、気持ち悪くて、だめなんです」

「出口が二つあるから?」

「私は逃げません」

それでわかった。逃げるのが嫌いな女だ。出口が二つもある花園神社が生理的に嫌いなのだ。多聞は、もう言うことはなかった。この店には二度と来ない。ナンバーワンって、こういう子なんだ。ほかの店のナンバーワンにも、会ってみたかった。その店の名前は、アトランティスと言った。あ、で始まるから、次は、い、だな。何となくそう考えて、多聞は

「チェック」

と、言った。

「チェックメイト?」

「いや、ただのチェックだよ」

「チェックされた。チェックだったんだ。酔ってらっしゃい、酔ってらっしゃい、お兄さん」

「宇多田ヒカルのお母さんだ。藤圭子。酔ってないよ、寄ってかない」

「よく知ってますね。酔ってる。ふふっお呼びでない。こりゃまた失礼しましたぁ。」

多聞は喉元でうくくっと笑うと、指名料と、席料と、ウイスキー一杯分の代金を払った。塩はサービスらしい。清々しいかった。それからというもの、多聞は歌舞伎町に通った。一つの店に、一度しかいかないという約束のもとに。また、ナンバーワンを必ず指名するという約束のもとに。武者修行みたいなものだ。これも、社会勉強だと自分に言い聞かせて、納得させた。二十五歳の春だった。桜が咲き始めた暖かな春の夜、多聞は、歩きながらYOUTUBEで同期の桜を聞いた。コートがいらなくなって、少し経っていた。肌で空気の暖かさを感じて、同期の桜を鼻歌で歌った。桜は満開とは言えなかったが、五分ほど咲いていた。雨が降らなければいいが。冷たい雨は嫌だった。櫻を散らすなよ。櫻、散るな。

波結は、幼いころから、人を見る子だった。人がどう考え、どうしたいのか、何となくわかって、それに逆らうことができなかった。駄菓子屋へ祖父と行った時のこと、その古ぼけて汚らしい店内を見て、お店の人に、

「綺麗なお店ですね」

と言ったので、店主は喜んで、

「いい子ね」

と、にっこりした。祖父はその様子を見て、波結を保育園に入れた。

しかし、波結は、繊細でありながら、気の強い子だった。隣の子が、波結のクレヨンを、貸しても言わずに、奪(と)った。波結は赦せなかった。

「なんで盗るの?盗ったらどろぼうなんだよ」

「あい、どろぼうじゃない」

「返してよ」

「やだ」

波結は、自分のクレヨンを、掴み取った。赤いクレヨンだった。お気に入りなのだ。大事にしていたのに、そのクレヨンが折れた。波結は泣きたかったが、泣かなかった。女の子は、波結のクレヨンを、折ったとは思わず、赤いクレヨンを自分のものだと思って、盗られたと泣いているようだった。

「わたしがつかってたのに」

折れたクレヨンを、女の子が波結の手から盗った。波結は、手が赤く染まっていくのを感じながら、つねられた痛みを感じていた。

「いたい」

波結はやり返した。女の子の手をつねってやった。

「はゆわちゃん、いたい!」

そこからは、もう覚えていなかった。つねったり引っ掻いたり、顔中、傷だらけになりながら、喧嘩をした。その顔を見た両親は、保育園の先生に言った。

「うちの子が何をしたんですか」

波結は自分は悪くないと主張した。しかし、向こうも、顔に傷があるのだ。

喧嘩両成敗で、波結も悪いことになったが、波結は自分は知っていると思っていた。自分は悪くないのだ。親や先生は、大人は知らないけど、自分は知っている。何が悪くて、何が悪くないか、ちゃんと知っていると思っていた。

「私は引っ搔いてない」

「相手の子にも、顔に傷があるのよ?波結がやったんでしょ」

「やってない」

「お母さん、恥かいたのよ。波結はやってないって言うから」

波結は悔しかった。一番わかってほしいお母さんは、波結を悪者にしたのだ。波結は、それ以降、母に相談はしなくなった。何を言っても、悪者にされると思ったからだった。波結は、保育園をやめた。

家にいると退屈なので、外に出たり、テレビを視たり、一人遊びの得意な子になった。スーパーの遊び場では、その場限りの友達ができる。女の子と遊んだり、男の子と遊んだり、名前は憶えていなかったが、その場限りの友達はできていた。波結、本来の社交的な気質は、なくなりはしなかった。母は、波結の強さには気が付いていた。この子は放っておいても大丈夫だ。母親は愛することを放棄したようだった。波結は敏感に、その愛の陰ったのを感じ取っていた。母が自分に興味をなくしたのを。

両親が離婚したのは、間もなくだった。父を失くした波結は、冷めた母親と、二人で暮らした。高校受験は、塾に通って勉強した。周りがそうであるように、なんとなく、勉強して、なんとなく成績を上げ、なんとなく受験した。

高校一年生の時の担任の先生は、英語の先生で、英語が苦手な波結は、よく赤点を取った。放課後の補習で、よく質問しているうちに、担任の先生に恋をした。三十五歳、バツイチで、市役所で働いていたのだが、教師になる夢を捨てきれずに、夜学に通って教員免許を取り、先生になった人だった。そんな話を聞くうちに、「せんせい」が特別になった。高校教師が再放送されると、胸が痛んだ。許されない恋だ。気持ちを打ち明けることはできないが、波結は、ずっと彼が好きだった。萩尾望都を教わったのも彼だった。一緒に帰る電車の中で、

「知らないの」

と、ポーの一族やトーマの心臓を借りた。少女漫画が好きな男性教師。波結は家で読みながら、彼がどんな気持ちで読んだのか空想した。微笑みながら、お菓子を食べるみたいに、ちょっとずつちょっとずつ、味わって読んだ。ロードオブザリングが好きな彼のために、地元の図書館で指輪物語を借りて読んだ。

指輪物語のJRRトールキンは、波結が好きなナルニア国物語のCSルイスと友達で、仲が良かった。教授同士で、気が合ったようだ。波結は、彼はトールキンで、自分はルイスのような、仲の良い、いい間柄になりたかった。指輪物語は、ナルニア国物語とは似て非なる物語で、なかなか面白かった。ただ、波結は、女の子だ。やっぱり、雪の女王のようなナルニア国物語が好きだった。中でも、悪いフォーンなんですよう、という、「よう」という訳がとても好きだった。悪いと思って嘆いているのだから、あなたはちっとも悪いフォーンなんかじゃないわ。波結は、ルーシーになったつもりになって、いつもフォーンを慰めた。心の中で。

大学受験を控えた寒い日、波結は、「せんせい」と約束をした。第一希望に受かったら、一緒に映画を観に行く。指輪物語を。波結は、楽しみに勉強した。しかし、その約束が仇になった。彼への気持ちが高ぶり、

「先生が好き」

と告白してしまったのだ。彼は返事をよこした。

「君は生徒だ」

波結は、傷ついた。ばらばらになって、地面が崩れたような衝撃を受けてしまった。勉強が手につかなくなり、第一志望を逃した。落ちたのだ。ただ、波結は、現代文、古文、漢文は勉強しなくてもできた。そこで、母が苦肉の策として打ち出したのが、国語だけで受験できる大学への入学だった。三月に入って、遅い受験日、波結は、受験した。受かるかどうかはわからなかったが、初めて見直しをして、マークシートを直した。受かった時は、嬉しかったというより、ほっとした。

大学が始まって、波結は、初めての大学生活を始めた。波結は、髪を伸ばして、染めたり、パーマを掛けた。お化粧もした。着たい服を着ることにした。大人になりかけていた。形だけ。少し無理していた。休みたかった。

波結は、人目が気になるようになっていた。髪を染めてみたけれど、変ではないか?パーマは人と違って浮かないか?化粧はこれで合っているのか?違うのか?神経衰弱から、うつ病になるまで、さして時間は掛からなかった。折角、受かった大学だったが、休学するには、籍を維持するのにお金が掛かる。波結は、泣く泣く大学を中退した。母に迷惑を掛けたくなかった。泣きたかったが、涙が出なかった。勉強が好きだった。専攻は百人一首で、高校時代、彼のために覚えた歌を、頭の中で反芻した。

「君がため惜しからざりし命さえ長くもがなとおもひけるかな」

あなたのために惜しくはないと思う命でさえ、あなたに逢った今は、長くなれ、長くなれと思えることです。長くなれ、長くなれと…死にたい。

死んでしまいたい。命なんていらない。死ぬことなんて怖くなかった。自分はもう魂(たま)抜けなのだから、死ぬことなど怖くはなかった。波結は、家から出られなくなった。引きこもりとは言わないが、人目が怖かった。どう思われるのかが極端に気になり、人目を避けて、電車にも乗れなくなった。電車が怖かった。通路を挟んで向こう側の席がとても近く感じ、膝がかち合うのではないかとさえ思えた。波結は、病んでいった。ご飯が食べられなかった。食べたくないのだ。

ご飯が汚いものに感じられ、水と牛乳ぷりんと、イチゴ、林檎を食べた。赤い食べ物を食べると元気が出る気がした。綺麗だった。綺麗なものを食べたかった。それ以外は、あまり食べたくなかった。波結は、痩せた。そんな中、薬を飲み始めると、過食に走った。夜中に、パチッと目が覚める。すると、導かれるように、足が勝手に、冷蔵庫に向かった。冷蔵庫にあるもので、口に入るものなら、何でも食べた。手あたり次第たべた。汚れていくのだった。そして、吐いた。トイレで吐いた。苦しかった。何の罰かわからなかった。自分が愛することが罪なのか、だから罰を与えられるのか、何もかもわからなくなって混乱した。何もわからなかった。

「君がため惜しからざりし命さえ」

短くなれと思った。もう生きていたくない。何のために生きているかわからない。何のために生かされているのかわからない。死にたい。河を見つめていた。橋から落ちたら死ねるのか?この苦しみから楽になれるのか?愛が欲しい。愛が欲しい。愛を乞う人はわたしだ。河を見つめていると、突然、食べたくなって、家に帰った。波結は、太った。七十三キロあった。薬太りだった。向精神薬は、脳内でドーパミンを作り出し、食べたい欲求を喚起した。そういうわけで、波結は、痩せたり太ったりを繰り返した。摂食障害だった。

気が付くと、二十三歳だった。二十六歳までに、だいぶ症状は落ち着いてきていた。自分で自分を愛する術を身に着けたからだった。自分を愛することで、母親を許せた。父親を許せた。自分は父ナシ母ナシっ子だったが、両親はもう良かった。自分が自分の親になろうと決めた。

高校の先生は、父親が欲しかった波結にとって、若い父親で、恋ではなかったかもしれないと思うようになった。自分はまだ恋を知らない。愛も知らない。波結は、恋愛しようにも病気持ちで表にも出られないので、見合いをすることにした。

気が付くと二十八歳だった。同じくらいの年の男性で、きちんとしたところにお勤めの人。和歌が好きだといい。結婚紹介所には、母が心配して登録した。初めて、母と緩解したような気がしていた。写真を見ながら、この人どんな人かな?なんて顔を寄せていると、親子になれた気がした。そんな折、薬が少し減った。

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