おとぎ話は、夢のままで。

ハル

第1話 舞踏会

『運命』というものに憧れを抱くようになったのは、いつだっただろう。


もうずっと幼い頃から漠然とあったそれの始まりは、祖父の若い頃の恋愛話を聞いたときだったが、それとも両親のなれそめを聞いたときだったか。


とにかく俺はもうずっと、探し続けていた。


俺だけの運命を。


俺だけの、アルファを。


ーーー


「それでは最後に生徒会長からの挨拶で終わりにします。日々の勉学の疲れを癒やし、忘れられない夜にしましょう」


大階段の下、ホールに整列する生徒たちを見下ろしながら、視線を右往左往させる。


小さく手をふるクラスメイトたちに頭を横に振り怒った顔をすると、こっちだよと右の方に指をさされた。その方向を真っ直ぐ追うと、口角が上がるのを抑えながらこちらをじっと見つめる彼と目が合う。途端ににやけが隠せなくなりじっと見つめ返すと、耳元で名前を呼ばれ、袖を引かれた。


「会長、挨拶呼ばれてます」


「あぁうん、ごめん」


「予定になかったのに急にごめんね。適当に楽しみましょ〜とかでいいから」


「あは、はい大丈夫です。任せてください」


「会長かっこい〜」


マイクを受け取って、階段の踊り場まで歩く。自分を見上げる生徒たちのほとんどはアルファなのだと思うと、緊張はせずとも不思議な気持ちで心音が早まった。


「今日は今年度初めての舞踏会です。お互いをいたわり、尊重し、出会いの場という名が付いているとはいえ決してハメを外さずに……楽しみましょう」


ーーー


「楽しみましょう〜」


「楽しみましょう!」


「もうお願いからかわないで…」


お皿に乗ったエッグタルトにフォークを突き刺して、両側から責め立てるように先程のスピーチを繰り返すクラスメイトへ体当たりをする。


アップテンポなバイオリンやピアノの音が響いていて、数日前から学内のあちこちで練習していたワルツを踊る生徒たちが多く、ホールの中央は賑やかだった。


俺はダンスが苦手なのでそこには加わらず、準備に時間を割いたせいでありつけなかった夕食を並べられた軽食たちで済ませながら、ホールの端っこでクラスメイトたちと談笑していた。


「あっくん、俺呼ばれたから行くね」


「うん。寮に帰らないなら連絡だけしてね」


「はいはいわかったよ母ちゃーん笑」


新調した燕尾服を着ながら思いっきり腕を振り上げて走っていく姿に、愛おしさが込み上げて笑みが溢れる。同い年で物心ついた頃から一緒にいる同級生。だからこそ、幸せそうに笑っている姿を見るとこっちまで幸せになる。


「お淑やかじゃないな〜あれは休憩で帰ってくるな」


「紘…わかんないよ、小久が約束してた子包容力ありそうだったし」


「お世話好きな変態かもよ〜アルファなんてみんなそうだけど」


相変わらずキレの鋭い偏見に、三人で声を上げて笑ってしまう。舞踏会には見合わないその笑い声に周りに居た生徒たちが振り返り、三人で萎縮しながら笑いをこらえて小刻みに震えた。


「朋哉も約束してなかった?先輩と」


「キープ含めて五人も約束してたのに誰も連絡してくれないの!おかしくない!?」


「キープ作ったのが間違いでしょ…こっちがオメガ同士で情報交換してるんだから向こうもアルファ同士で交換してるってあれだけ言ったのに…」


俺のスピーチを散々からかっておきなから今は約束していたアルファから連絡が来ない!と嘆いているのは、親友の二階堂朋哉。卒業後は然るべき貴族家のアルファと結婚することが決まっていて、せめて学生のうちに大恋愛がしたい!と張り切っているが最近はその頑張りが裏目に出ている。


舞踏会が始まってからずっと俺のそばにいるのは、もうひとりの親友、七瀬紘。学年で唯一のベータだけど、だからこそクラスのオメガたちのお父さんのような存在でなにかあったらアルファでさえも仕留めてしまう頼れる存在だ。


「篤生は?小野くんから連絡きてる?」


「いや…」


スマホを取り出して、スリープを解いてすぐに現れたトーク画面に食い入るように顔を近づけられる。


「“人が多いので外にいます”って…追いかけなよ!」


「いや、どこにいるかもわかんないし…」


「普通に聞いてみれば?」


エッグタルトを食べ終えて、空になったお皿を近くのテーブルに置く。スマホ画面をじっと見て、再びスリープ状態に戻した。


「りゅう、人混み苦手って前に言ってたし…。一人になりたいかも、だから…今はまだいいよ」


「今はまだって、あんなにワルツ練習したのに」


「…本当にいいのか?」


「うん」


口角を上げてから、二人を安心させるように笑顔を作る。それが作り物かなんて二人から見たら一目瞭然だとわかっているから、誤魔化すように近くにいるクラスメイトの方へ歩いていった。


「大丈夫?なにか食べるもの貰ってくる?」


「だいじょうぶ!……あ、七瀬!ぼく踊りたい、いっしょに行こ」


「いいじゃん、行ってきなよ」


なんで俺が、なんて呆れたような顔をしながらも手を引かれたらお前がこっちだろなんてリードしてあっという間にワルツを始める紘に、もはや尊敬してしまう。


ふと振り返ると朋哉が渋い顔でトーク画面と格闘していて、わざと体重をかけるように抱きつきながら頭をわしゃわしゃに撫でた。


「あんまり焦んなくていいんじゃない?」


「篤生にはわかんないよ。…俺には、“今”しかないの」


「…ごめん」


「……ごめん。今の八つ当たり。可哀想だと思ったなら生徒会のアルファ紹介して」


「え〜どうしようかな〜」






「だから龍はどこなのって聞いてるの!」






ホールに響き渡った声に、周囲に居た生徒たちの視線が集まる。壁沿いのソファに座っていた彼は、侍らせているアルファたちの手を払いのけて地団駄を踏んでいた。


「ごめんね千枝さん、まだ探してて…」


「見つかってから千枝のとこに戻ってきてっていったよね?そんな事も忘れたの?」


「違うよ。千枝さんが不安になってるかなって思って僕だけ戻ってきたの。許してくれる?」


細身だけどびっくりするくらい足が長くて背も高いアルファがオメガに跪く、異様すぎるその光景にわかりやすくざわめきが生まれる。彼を知っている朋哉は「またやってるよ…」なんて呟きながら、俺の腕にぎゅっと抱きついた。


「むかついた。龍也はもういいよ。その代わり甘いもの!とびきり甘いもの貰ってきて!」


鋭い目つきで命令されたひときわ背の低い男の子は、深々と頭を下げて小走りでこちらへやってくる。スイーツの並ぶ机の前であたふたするその姿を見過ごせず近寄ると、あまりに焦っていたのか足がもつれて転んでしまう。お皿の割れる甲高い音が響いて、男の子はとっさに先程の集団の死角に隠れた。


「…だいじょーぶ?切れてない?」


こういう時にずばっと話しかけに行ける朋哉はすごいなあなんて感心しながら、涙目になっている男の子に手を差し伸べる。胸元に光る黄色いブローチに「一年生か、じゃあ初めての舞踏会だ」なんて事実を口にしながら乱れた髪の毛を整えるように優しく撫でた。


「そのチョコレートケーキ美味しかったよ。エッグタルトが一番美味しかったけど…とびっっきり甘いものが食べたい時は、断然チョコケーキかな」


「……ありがとうございます」


鼻をスンと鳴らして俯いたまま小走りで戻っていく彼の背中に、「またアルファ増えてるよ。羨ましくて嫌になるわ」と朋哉が呟く。


「てか、彼氏の篤生も知らない小野くんの居場所をあいつが先に見つけるのむかつくな」


「んー…連絡、してみようかな」


もう一度スマホのスリープを解き、メッセージ画面を開く。キーボードの上で指を彷徨わせていると、ふと朋哉のスマホから音が鳴った。「あ…えぇ!?」なんて大声を出した朋哉に、焦ってスマホを閉じる。


「なに、どうしたの」


「いや…一番可能性ナイと思ってた奴から返信きてた…“トイレ混んでてこれから向かうね”って…」


確かにトーク画面には同じ言葉が送信されていて、ふたりであんぐり口を開いてもう一度トーク画面に視線を落とす。そわそわしながらスマホをしまった朋哉は、「行ってくるから、帰ってこなくても探さないで!」なんて家出するみたいなセリフを吐いて小走りでいなくなった。


「…朋哉、よかったね」


「うん。葉月は踊りに行かないの?」


「実は…」


耳を貸すように手招きをされて、自分より少し背の高い葉月に合わせるように首を傾ける。恥ずかしそうに耳まで赤くした葉月は、視線をうろつかせながらぼそっと「トイレ行きたいんだけど…朋哉が混んでるって言ってたから、アルファに会うのが…怖くて…」と俺に伝えるためだけの小さな声を出した。


「わかった。いっしょに行こ」


「え…いいの?」


「うん。俺だけが心もとないなら生徒会のアルファでも呼ぼうか?」


「んーん、だいじょぶ…ありがとう」


教えてくれてありがとう、と頭を撫でてやると、葉月の顔はもっと赤くなって、思わず吹き出してしまう。早く行こうと手を引いてホールから出ようとトイレに一番近い扉へ歩いていくとソファにはもう彼らの姿は無くて、先程まで一緒に居たアルファたちのうち数人がホールの端っこで拙いワルツを踊っていた。


ーーー


「混んでなかったね、トイレ」


「これは騙されたな朋哉…」


「僕、先輩と約束してるからここまででいいよ。小野くん外にいるんでしょ?早く行かないと、舞踏会終わっちゃう」


頑張ろうね、お互い。と手を握った葉月は、「癖ついてない?」と髪の毛を手ぐしで整えて唇を舐めた。いつもの緊張している時の仕草に、「荒れちゃうよ」とリップクリームを差し出す。


「ついてないよ。んーってやりな」


「んーっ…かっこいい?」


「かっこいいから、自信持って」


「…うん」


 




「お?会長じゃん」




 


「……」


飛び上がりそうなほど驚いたのを、足を踏みしめて耐える。自分より何センチも背の高い二人組を交互に見て、詰められる距離に葉月を庇うように立って後退りをした。


「…誰ですか」


「相手いないんでしょ?俺らと遊ぼーよ」


「てか隣の子もかわいーね」


俺を素通りして葉月に伸ばされた手を払いのけると、力が入りすぎていたのかひりひりと痺れる。震えながら服の袖を掴む葉月の手を撫で、二人組を見上げた。


「そんな警戒しないでよ笑さっきからホールで見てたけど、踊るの苦手なんでしょ?」


「だから外出て遊ぼーぜ。オレらは善意で言ってんだけど」


「…葉月、もう行っておいで」


「え、でも…」


「せっかく約束してたのに待たせちゃダメでしょ」


「……うん」


パタパタと急ぎ足でホールに戻っていく葉月の後ろ姿が見えなくなるまで見つめるていると、ぐっと胸元を引っ張られ身長差を縮められる。本当は今すぐにでも大声を出して助けを呼びたかったが、皆が待ち望んだ特別な日をたちの悪いナンパごときで後味の悪い思い出にさせたくなかった。


「…なに、まさか本気なの?公爵家のアルファと付き合い始めたって」


「そんなお坊ちゃまより“同じ伯爵家”のオレらのほうがよくね?肩肘張んねえし、気楽じゃん」


彼らのブローチを見る。紫色、三年生のブローチだ。大方噂話で聞いたのであろう話をまるで自分で見聞きしたかのように話されたのが不快で、少し強引に胸元を掴まれていた手を捻り上げた。


「ブローチ、紫色だから…三年B組。小霧先生のクラスだ。二人ともアルファで伯爵家。後で先生に報告しとくから。それと……あぁ、小野誠と同じクラスだから知ってるんだ、龍也と俺の関係」


「……いやいや、B組とは限んねえじゃん。三年は全員この色だろ」


「なんのためのブローチだと思ってたんだ?お前らみたいな“出会い”の意味を履き違えた奴らがやらかした時のために全部わかるようになってるんだよ。周りの装飾、円の部分が二時の方向に少し欠けてるだろ。だからお前らはB組所属だ」


たじろぎ始めたふたりに逆に距離を詰めると、今度はふたりが後ずさる。


「それで、誰と誰が同じ伯爵家だって?俺の父は由緒正しい辺境伯だ。お前らなんかと一緒にするな」


「…っ、あーそうかよ。悪かったな勘違いして!」


顔を真っ赤にして走り去る二人に、深呼吸をして首元の蝶ネクタイとシャツを整える。手で軽く汚れを払うと、大きすぎるくらいのため息が漏れた。

 

「何やってんだろ…俺」


ふと一緒に漏れたそんな呟きに、自分を叱りつけるように頬を叩く。自分を律するように深呼吸をして、スマホを取り出した。『どこにいるの?』と一言だけ返信をして、すぐにスマホを仕舞う。頭を振って、ホールとは反対側へ振り向いた。


「は?何だよお前らっ!」


「千枝さん、こいつらどうしますか?」


「どーでもいいよ。空気が汚いから森にでも捨ててきて」


「……」


…かなり、面倒くさいことになったかもしれない。


見なかったことにして一旦ホールへ戻ろうとするものの、ヒールの音に進路を阻まれてしまい仕方なく立ち止まった。


「あの二人組のことはありがとうございます。どうぞ森にでも捨ててきてください。…それじゃ、俺は予定があるので」


「龍也がどこにいるのか知りたいんでしょ?」


お前もだろ、と口に出かかった言葉を飲み込み、できるだけの笑顔を見せて肩の力を抜く。頭に血が上ったら負けだ。


「いま連絡したのですぐ返信がくると思います」

 

「ふーん…アタシは知ってるけど」


いつの間に、だのマウント取るな、だのと頭の中に言葉が浮かんだが、なんとか飲み込んで笑顔を保つ。勝ち誇ったみたいな笑顔を向けられていることがわかり、目は合せられなかった。


「へぇ、よかったですね」


「それであんたは?ホールでクラスメイトと談笑して、年上のアルファに絡まれて、もう舞踏会が始まって30分は経とうとしてるのに…」


「聞く勇気がなかったんだよ。探そうにも、千枝の侍らせてるアルファたちが中々見つけられなかったのに俺に見つけられるはずがないだろ」


自分でも後悔していた痛い部分を付かれ、彼のペースに乗せられてることが自分でも理解できる。それでも頭に上った血はなかなか冷めなくて、笑顔を引きつらせながら深呼吸をした。


「まぁしょうがないか。だって婚約者のアタシが龍也のこと1から100まで知ってるのは当然でも…あんたはぽっと出の泥棒猫だからまだ知らないことの方が多いよね。大丈夫。千枝がぜーんぶ教えてあげるからね」


「その泥棒猫にまんまと“元”婚約者をとられたのは誰だよ。海外に逃げたかと思えばまた戻ってきて…散々嫌がらせして龍也に怒られておいてまだ理解できない?龍也の運命は俺なんだよ」


「はっ、逃げたんじゃない仕事よ。あたしは世界的なモデルよ?こんな狭い世界に留まってていていいオメガじゃないの」


「はっ、どーだか」


「まぁあんたには理解できないわよね。王子様がいないと何もできないオメガには。あたしは独りだからなんでもできるし、どこにでも行ける」


「よく言うよ。7人もアルファを侍らせておいて」


「はっ、あれはあの子たちの意思に決まってるじゃない」


「ならなんで泣いてたんだよ。一番小さかった一年生の子。相当お前に怯えてたけど」


「あぁ、あれはたぶんアタシじゃなくて結人よ。よく怒られてたから。…それと、あの子が泣くのは転んだ時くらいだわ」


「っ、」


「図星」


唇を噛んで、深呼吸を繰り返す。案の定勝ち誇ったような顔をする千枝の顔を見て「…龍也がどこいるか、本当に知ってる?」と小さな声で吐き出した。


「なに、教えてほしい?」


「そーだよ。…悪いか」


「いいえ?」


いっそう口角を上げた千枝は、距離を縮めて頬に指を突き刺してくる。相変わらず武装された爪をしていて、ピリッとした痛みが走った。


「人にお願いする時は“教えてくださいお願いします”でしょ?…辺境伯はそんな事も教えてくれないのね?」


「………」


やっぱり大嫌いだ。



ーーー



土で薄汚れた石畳が人ひとり分だけひっそりと並ぶ道を歩き続けて、真っ暗な森を抜ける。来た道を振り返ると舞踏会の行われていた講堂はその明かりが森の隙間から小さく見える程度で、その喧騒からは切り離された別の世界に迷い込んだようだった。講堂の隣にそびえ立つ時計塔だけが森を突き抜けて頭を見せ、こちらを見下ろしている。


「…篤生?」


ふと自分を呼ぶ声がして、石畳の続く方へ振り向く。そこにはどこに隠れていたのか森に飲み込まれるようにガセポが建っていて、身をかがめるようにして出てくる姿はまるで王子様みたいだった。


「りゅう」


「舞踏会はいいの?」


「龍也がいなきゃ意味ないよ」


必死で整えていた身だしなみも忘れて、飛びつくように思いっきり抱きついてしまう。大好きな甘い香りを目一杯吸い込むと、「可愛い」と優しく頭を撫でられた。


「よくここに居るってわかったね」


「悔しいけど…千枝に聞いて」


「あぁ…さっき煌牙が来たよ。千枝が龍也のこと探させてるから戻ってこいって。…断ったらものすごい顔された」


「断っていいよ」と頬を膨らませて、龍也の手を引く。ガセポには中央に机とそれを囲むようにベンチがあった。机にはペットボトルと薬とエッグタルトに付いていたクッキングシートが置いてあって、握っていた手にぎゅっと力を込める。


「次はちゃんと、俺の口でどこにいるか聞くから。だから龍也も、教えてね」


「うん。…篤生もね」


握られた手の甲にちゅっと口づけを落とされる。これも公爵家の息子だからなのか…!?と勝手に衝撃を受けて、ごまかすように照れ笑いを浮かべた。


「…人がいるところは、やっぱり苦手?」


「苦手だけど…今日ここに来たのは、篤生と二人きりになりたかったからだよ。篤生はクラスの子と居たいかなって思って、連絡できなかったけど」


「していいのに。してほしいことは全部やるよ。…りゅうには笑っててほしい」


肩に頭を乗せると、そっとキスをされる。顔が熱くなるのがわかって、ただでさえ気分が高ぶって身体がほてっていたのに、これ以上は顔に出てしまいそうだった。彼にバレないくらいの深呼吸を繰り返していると、ふと机の上の薬が気にかかって龍也を見上げる。


「…また発作があったの?」


「……薬のことなら気にしないで。人がたくさんいたからじゃなくて…たまたま兄さんと鉢合わせて、飲んだやつだから」


「気にするよ。…苦しくなったら俺を呼んで?りゅうが一人で苦しむところは、もう見たくない」


「やさしいね、篤生は」


二回、三回とキスを繰り返すと、身体がいっそう熱くなる。イスに押し倒されるようにして何度もキスを受けているとぶわっと龍也の香りが強くなって、あぁ今は俺の身体からもフェロモンが出てるんだろうな、とどこか他人事のように思った。


「篤生、口開けて」


「ん、ぁー…」


「いいこ」


顎を掴まれる、口内に舌が入り込む、距離を縮めるように頭を抱えられる、いつもされるその仕草が、今日は何だか背徳的で背中に電流が流れるように痺れた。


「りゅ…や」


「ん?」


「………もっ、と……」


ダメってわかってるのに。


今日は年に三回しかない舞踏会の日で、


俺はクラスの子たちがハメを外しすぎないように見守らなきゃいけなくて、


生徒会長としてどさくさに紛れて悪いことをしようとしてる生徒がいないか見回りに行かなきゃいけないのに。


なのに、身体に纏わりつくように這う龍也の匂いに頭の中までおかされるようで、何も考えられなくなってしまう。


「学生のうちは、最後までしちゃだめなんでしょ?」


「…もっとしたい」


「だーめ。今日もキスまで」


開ききっていた口から覗く舌先をぢゅっと音の聞こえるくらい強く吸われて、ぼーっとしているうちに口内を犯されるようにキスをされる。身体が密着していて彼が興奮してるのはまるわかりで、それでも紳士にリードする姿勢を崩さない姿にはもはや尊敬してしまう。


「…篤生、頭痛くない?イス硬いからもっと寄っていいよ。俺が支えてるから」


「……うん」


羨ましいくらいの冷静さが今は少し悔しくて、龍也の首筋をそっと舐める。そこに吸い付くと、「何してるの?」と諭すような優しい声が振ってくる。そこに色づけられるまで吸い続けてから顔を上げると、龍也は今にも溶けそうな笑みで俺を見ていた。


「…篤生にも付けてあげる」


蝶ネクタイとシャツのボタンを器用に外されて、ひやりとした空気が肌にしみる。春とはいえ山奥のこの地域は朝夕はまだ肌寒くて、龍也にぎゅっと抱きついた。


「ん…もういっこ」


「え、ちょ…っと。まって」


「やだ。先に誘ったのは篤生でしょ」


「でも…っ」


「なにか言われても堂々としてればいーじゃん。彼氏に付けられましたって」


三つ目のボタンがきしんだ音をたてるくらいシャツの襟をぐっと引っ張られて、鎖骨のあたりにぴりっとした痛みが走る。噛まれたことを自覚した途端、うなじに悪寒が走ってとっさにそこを隠した。


「おこっ…てる?」


「……だって篤生、今日変な匂いする」


匂い?と首を傾げて袖の匂いを嗅いでみる。自分では何の匂いなのかわからなくて、朋哉に借りた香水の匂いを鼻いっぱいに嗅いだ。………あ。


「もしかして…っ、香水?」


「そう。いつもの匂いじゃない」


「朋哉に借りて……っ、つめた」


ガセポの屋根を見上げると、その外から雨粒が降ってくるのがわかる。顔に水滴が垂れたと思えばどしゃっとそれこそバケツをひっくり返したような雨が降り出して、龍也に抱きしめられながら身体を起こした。


「あー…ごめん、二階堂に借りたやつか」


「…?」


「いや、ちょっと…」


距離は縮まったのに視線は合わない龍也に「…嫉妬した?」と呟くと、「いや…二階堂なら、嫉妬するのも悪いし…ごめん。早とちりした」と口ごもってしまう。


「あはっ、嫉妬するのが悪いって何?嫉妬していいのに。…少し思ったもん。いつもと違う香水つけたら、どう思うかなあって」


ちゅっと唇が重なるだけのキスをして、頬を両側から挟まれる。「いけない子」と叱りつけるような顔をしながら、おでこにもキスをされた。


「雨凄いね…戻れるかな」


「片付けも点呼もあるし、もう戻らなきゃいけないのに」


「じゃあ、今日はもう戻って…明日また会おうか。そっちのクラス、明日は授業ある?」


正面から向き合って、龍也よりも小さい俺の手を弄ぶように捏ねられる。爪にやすりをかけるように指を擦られたのがくすぐったくて、思わず笑ってしまった。


「んふっ授業はないよ。午前中に健診があるだけ」


「健診?」


「うん。環境が環境だから、その…そういうことに奔放な生徒も多いでしょ?特にオメガは…きっと今が人生で一番自由だし。だから、いろいろ調べてくれるの。身体のこととか」


俺の手で遊ぶのを辞めた龍也に顔を上げると、普段の姿からは想像できないくらいの笑顔でこちらを見ていた。思わず恥ずかしくなって、「見すぎ」と少し威嚇する。


「俺らは午前中だけ授業だから、午後会おうよ。俺の部屋でもいいし…また図書館とか、植物園に行ってもいいし」


「うん!あ、明日カフェテリアにサンドイッチのお店が来る日じゃない?ピクニックしてもいいね」


「うん。じゃあ、授業頑張らないと」


二人で手をぐっとガッツポーズにして笑い合う。龍也の手を掴んで真似するように手の甲へキスをすると、下から掬うように唇へキスをされた。


「まだ、もう少しだけちゅー…する?」


「……したい?」


「龍也がしたい、くせに」


言葉よりも身体で示そうと距離を近づける。こちらをじっと見つめる龍也から少し目を逸らしてキスをしようとすると、高らかな鐘が鳴り響いた。飛び上がる程驚いて龍也に抱きつきながら音が繰り返す方を見ると、時計塔の二本の針が一日の終わりを告げていた。口をあんぐり開けていると人差し指で顎を閉じられて、顔を見合わせて笑い合った。





 

「戻らないと。魔法が解けちゃう」






ーーー






「もー!風邪引いたらどうするの龍也っ!」


龍也の顔が左右からタオルで潰されて吹き出してしまう。「お前もだぞ」と紘に頭からタオルを被されて、今度は龍也が吹き出した。


「あっくんどこいたの!?探したのに〜」


「野暮なこと言ってやんなよ〜彼氏のとこだって」


「あー!キスマーク!」


点呼を待って集まっていたクラスメイトから群がられ、襟を引っ張られて首筋を触られる。くすぐったいと笑いながら手を跳ねのけるものの、「ここも!」「ここにも!!」と声が大きくなるばかりで体当たりをして「やめろってー!」と叫んだ。


「…お淑やかじゃないな」


「千枝、もう拭けたか」

 

「まだだから…帰ったらいっしょにお風呂入る?」


聞き捨てならない言葉が聞こえて、龍也の頭を拭いていた千枝の手を掴む。タオルを取り上げて龍也の顔を拭くと、くすっと鼻で笑われたのが聞こえた。


「そうやって拭くと肌が荒れるから辞めてくれる?」


「は?…知ってるし」


イライラして少しがさつになっていた自覚があったので、きまり悪く唇をきゅっと結んで顔をぽんぽんとタップする。龍也はにこにこしながら俺の頬に手を添えて、「篤生も拭かないと」と濡れた髪の毛の束を指で擦り合わせた。


「はいはーいなに騒いでんだお前らー。もう王子様たちは帰っちまったぞー」


「ほら、お前らもう帰るぞ。篤生も彼氏にバイバイしなさい」


朋哉に後ろから抱きつかれ、手首を掴まれて「ばいばーい」とその手を振られる。俺の背中からぴょこっと飛び出した朋哉は、いたずらっぽく笑って「早く帰ろ!」と手を引いた。


「りゅう、また明日」


「うん。風邪引かないで。明日迎えに行くから」


「お、デートするの?」


腕に抱きつかれ、羨ましいわ〜と体重をかけるように寄りかかられて龍也とは反対側、オメガクラスの宿舎がある時計塔の裏側へ向かう。通り雨は止んで空気はからっと乾燥している。日付が変わりもう外は真っ暗で、先に歩いていたクラスメイトたちに「あっくんが先行って!」と急かされて背中を押されながら歩いた。


「そういえば小野くんと何してたの?」


「言わないよ。りゅうとの秘密」


「キスマ見ればだいたい分かるけどな。お前ちょっと唇赤く腫れてるし」


呆れたように笑う紘だったが、肩を組み「仲良さそうでよかった」と頭を撫でてくれる。ありがとう、とその肩に頭を乗せると、あっという間に宿舎に着いていた。


「明日健診だから早く起きてね。おやすみ」


「おやすみーみんな」


「おやすみ!」


ぎゅーっと擬音語を口にしながら目いっぱいの力で抱きついてくる葉月の頭を撫でて、セットが崩れて落ちてきたもみあげの毛を耳にかける。「進展あったから、明日また話すね」と耳元で囁かれて、寝坊しないでね。とその頬を撫でた。


「葉月、エレベーター来てる!」


「うん。…おやすみ、篤生。朋哉と紘も」


「おやすみ」


「おやすみ〜」


「ちゃんと休めよ。疲れたろうから」


しんと静まり返ったロビーで、三人で「終わった〜」だの「時間過ぎるの早かったくない?」だのとため息をつく。施錠と消灯を告げに来た警備員さんにお礼を言って、葉月たちとは反対側の棟へ続く渡り廊下を歩いた。


「てか着替える元気残ってる?」


「まったく無い。なんなら風呂入る元気も…」


「俺は濡れてるから風呂入って着替えなきゃ…」


それでも舞踏会の話で盛り上がりながらなんとか部屋へたどり着くが、既に二人はもう限界だった。そのままベットへ直行ダイブインして、紘に至ってはもう寝息すら聞こえてくる。


「今日楽しかったね〜篤生」


「うん。あの後お目当ての人とは会えたの?…トイレ、混んでなかったけど」


「会えた、けど…本命が来るまでの時間潰しだった…。約束してくれたじゃんって言ったら向こうのオメガに「人のアルファに手を出すなよ!」って大声出されちゃって…あは、すげえ恥かいた。紘が来てくれなかったら…そこに穴掘って、セルフで埋まって…たかも、はは」


段々と弱くなっていく語尾に、朋哉のベッドに座り、うつ伏せの状態で丸くなる背中を撫でる。すぐに鼻を啜る音と押し殺した泣き声が聞こえてきて、「頑張ったよ。朋哉は」と消え入りそうな声を絞り出した。


「だから言っただろ、その先輩番いるって。嘘つけって言って信じなかったのはお前だぞ」


いつの間にか身体を起こしていた紘がスリッパを履いて洗面所に向かいながらそう吐き捨てる。


朋哉だけが悪いわけじゃない。知っていながら止めなかった俺も悪い。でもそんなのは、今の朋哉が欲しい言葉じゃないはずだ。


「……俺だけ必死で、バカみたい」


「…バカなんて言わないで」


隠すように顔を覆う左手を握って、ぎゅっと力を込める。涙目でこちらを睨みつける朋哉は、その手を振り払って反対側へ寝返りをした。


「俺には今しか…無いのに」


「何、おっさんからまたなんか言われた?」


「…来週、こっちに婚約してるアルファが来るから麓まで会いに来いって。相性が良ければ…“もう頑張らなくてもいい”って」


歯ブラシを咥えた紘が包囲するようにベッドの反対側に座り、メイク落としシートを少し乱暴に朋哉の目元に擦り付ける。


「…アイライン濃すぎだろ。だからお前小せえのに気が強そうで近寄り難いとか言われるんだよ」


「聞いたことねえよそんな陰口…」


「マジ?悪ぃ口滑った」


武装を解いて少し幼くなった目元に柔らかいティッシュをあてて、少し強い力で頬をつねった。朋哉が「いてーわ!」と飛び起きて、乾ききった目元を鋭くこちらへ向けた。


「なに弱気になってるんだよ。言ってやれ、「何言ってるかわかんねぇから人間の言葉で喋ってくんねえ?」って」


「ぶっ」


紘はベッドに歯磨き粉を吹き出し、「きたなっ!」と笑うと、力の入っていないビンタを受ける。

いつだったか、クラスメイトの一人を中退させ見知らぬアルファと婚姻させようとした子爵に紘が告げた言葉。当時少しイキり気味だった紘のドヤ顔も相まり、今ではすっかり“内輪ネタ”になっているそれに「久しぶりに聞いた笑」と朋哉も口元を抑えて背中を震わせながら笑いを噛み殺していた。


「はー、泣いてスッキリしたわ。俺も歯ブラシして寝よ」


「おー。アイメイク以外もちゃんと落とせよ」


「篤生ーメイク落としと洗顔借りるー」


んー、と気の抜けた返事をして、勢いづけるように両膝を叩いて立ち上がった。クローゼットを開けて燕尾服を脱ぎ、蝶ネクタイを取ってシャツのボタンを外す。胸元のぎりぎり見える位置に色づくキスマークを見つけてしまい、ふとその手が止まった。


「…何、次はお前?どしたん」


紘に後ろから覗き込まれて、ぼーっとしているうちに頬を左手で掴まれる。「どしたー」と頬をふにふにされながら、ふと気がついてとっさにキスマークを隠した。「何でもない」と笑いながら「結構濡れてるな〜」とシャツを脱いで洗濯カゴへ入れると、俺のベッドへ座った朋哉がガバっと両手を開いた。


「話聞いてくれてありがと。お礼にハグさせて」


「朋哉〜!」


「お前じゃねえよ!」


ハグをしたまま小競り合いをしてベッドでもつれ合う二人に笑顔を見せながらも心はどこか別の所にあるようで、小さくため息をついた。紘はそんな俺に気づいて、クローゼットの中に畳んであった無地のTシャツを頭から被せる。 


「…不安になってきた?明日の健診」


「……少しだけ」


「だいじょーぶだって」


ぎゅっと優しく抱きしめられ、頭を撫でられる。鼻がツンと痺れて目頭が少しだけ熱くなり、目元に力を入れて紘の肩に顔を埋めた。「お?泣き虫さんか?」「泣き虫あっくんか〜?」なんて二人に囃し立てられ、少しだけ肩の力が抜ける。紘の背中に手を回すと「こんこーん入るよー」と日付の回った深夜にそぐわない大声が扉の向こうから聞こえてきて、首を傾げて扉の方へ振り向いた。


「…お?どしたー方喰」


ノックと同時に入ってきた来客に、朋哉の「ノックしろよせんせー!」というこれまた時間にそぐわない大声が耳をつんざく。「みんな寝てるから静かにしろ」ともっともなことを言うお母さんみたいな紘に、鼻をすすって身体を離した。


「大丈夫?泣いてた?」


「いや…」


「教えときたいことあったんだけど…今はキツい?」


「いえ、大丈夫です。…明日の健診のことですよね」


二、三枚程度の書類を渡され、眠気と疲労でピントの合わない視界に、それでもはっきりと見える文字を目で追った。意味はわかるけれど頭には入ってこなくて、ただぼーっとそれを見つめる。紘に肩を抱かれ、優しく拍を取るように叩かれた。


「……投薬許可書、早いですね」


「あぁ。先生が早く見つかってさ。うちの学園に通ってる生徒の親御さんで実績もある方だから、俺からもぜひって早めに話通してもらってたんだ」


「…ここにサインすればいいんですか?」


「あと保護監督者に俺の名前と…経過観察者のところにはこいつらの名前書いといて。…明日から投薬するらしいから、午後から予定入れるなよ。お前らも方喰がどっかいかないよう見張って、何か変化あれば逐一知らせて」


「飲むのって誘発剤とフェロモンの薬?」


二枚目に手を伸ばした朋哉が、「こんなに飲むの?1つぐらい飲まなくてもいいんじゃない…」と顔を曇らせる。「不安にさせること言うなよ」と口を尖らせる紘に、「大丈夫だから」と笑ってみせた。


「じゃ、俺はこれで。…そうだ、持ち帰られた奴いるだろ?何人いたか覚えてる?」


「あー…五人?…小久って帰ってる?」


「わかんない…後で葉月に連絡して聞いてみる。とりあえず五人は確定です」


「“出会いの場の意味を履き違えるな”って性行為の授業した次の日にこれだもんな…先生やるせないわ…」


しれっと洗濯カゴを抱えて持ち上げた先生は、「洗濯だしとくな」「持ち帰られた奴らは説教してから健診だから朝迎えに行って乱入してでも起こしてくれー」と呑気な声で部屋を後にした。名前の通り嵐みたいに来て帰っていった先生に、朋哉は「ばいばーい」と手を振って扉に鍵を掛けた。もう誰も入れない。もう休む。と地底から引きずり出したみたいな低音を響かせて、そのままベッドに飛び込む背中に、「おやすみ朋哉」と声をかける。


「…篤生。今日はもう風呂いいだろ。歯ブラシだけして…いっしょのベッドで寝よ」


「あ!ずるい!俺も〜」


「お前は入んねえよ。隣のベッドなんだから我慢しろ」


「ちぇ〜」


スリッパを引っ掛けて、洗面所へ向かう。扉の近くにあるキャビネットに置きっぱなしだったスマホを手に取り、歯ブラシを咥えて通知欄を開いた。


『明日楽しみ。制服でデートする?それとも寮に戻ってから私服に着替える?』


せわしなく動かしていた手を止めて、キーボードを操作する。『明日は会えない』『明日はやることができた』『明日実は…』何度も書いては消して、結局なんて言えば良いのかわからずに『俺も楽しみ。明日合流してから決める?』『風邪ひかないようにしてね!愛してる、りゅう〜』と普段の俺らしい無難な言葉で返した。無機質な“愛してる”という文字を撫でて、スマホを伏せる。


足りないのに。龍也に愛してると伝えるには、この世にある言葉じゃ表現できない。俺はきっと龍也の為なら父も裏切れるし、龍也の家を敵にだって回せる。龍也と生きる為なら、辺境伯家嫡男の地位も、オメガ史上初の生徒会長という名誉も、俺が今まで築いてきた信頼だって捨ててもいい。…でもそれは、“俺は”の話。


龍也にとって、俺はどれくらいの存在なのだろう。この気持ちは一方通行なんじゃないかってたまに思う。だって俺らの出会いは…俺が突然発情したからだった。俺は“発情するなんてありえないから”、もうこんなの龍也は運命の相手以外の何物でもないと確信したけれど、龍也はきっと違う。


俺と出会ったことで婚約者から婚約破棄を宣言され、父からはそのオメガと番になるのなら嫡男の地位は退けと言われ、義兄には早くその地位を譲れと嫌がらせを激化された。出会って半年、俺は龍也が未だにわからない。それは彼が出会った頃よりいっそう疑り深くなり、全てをさらけ出そうとはしてくれなくなったから。…そんな状況を作り出したのは、彼の周りを敵だらけにしたのは、間違いなく他の誰でもない俺だ。


…取り留めのないことを考えてしまうのは、怖いからなのだろうか。それとも、明日を乗り越えればきっと何かが変わると期待して高揚しているのだろうか。


「……っ、」


「っ!あーあーほら、早く歯ブラシ終わらして寝ようぜ。気持ち悪くない?ふわふわするだけか?」


洗面台に手をついたままよろめいて蹲りそうになった俺に、肩を抱いてなんとか立ち上がらせてくれる紘により掛かる。水を注いだコップを差し出され、手が震えているのか物が二重に見えているのかわからないままそれに口をつけた。


「どした?フェロモン出てる?」


「いや、逆…。さっきまで何考えてたのか知らないけど、小野と講堂に戻ってきてからさっきまでは興奮状態が収まらなかったのか…それとも単に疲れてたのかそれなりにフェロモン出てたのに、今いっきにそれが無くなった」


「何も出なくなった時の方が怖いって先生が言ってたやつだ…。篤生のそれは何なんだろうね?急にフェロモン止まって意識とびそうになるの」


「それを明日調べてもらうんだろ。…まだ確定じゃないんだし、急いであんな薬飲ませなくてもいいのにな」


どこかテレビの向こうの話を聞き流しているような浮遊感に包まれながら、なんとかうがいをして歯ブラシを置く。そのまま紘に抱き上げられ、その背中にしがみついた。


「寝るぞ。朋哉電気消して」


「おっけ〜。おやすみ篤生。紘も」


「おー。篤生、降ろすぞ」


「ごめん、ひろ…」


「あーはいはい。そんな顔すんなよ。ぎゅーして寝てやるから早く目閉じろ」


「……俺もそっちで寝たい」


「…たまにはいいか。朋哉、ふたりで篤生挟んで寝ようぜ」


「やった!今そっち行く〜」


背後から抱きしめるように横になっていた紘とは反対側に朋哉が寝転がり、やっぱり少し狭くなって寝返りもうてなくなったきしんだ音を出すベッドに三人で身を寄せる。


雨雲が過ぎ去って月明かりの照らす窓際のベッドで目を瞑ると、睡魔に引っ張られるようにして体の力が抜けた。


「いい夢見ろよ二人とも」と紘の優しい声が耳元で聞こえる。






不安が途切れなかったその日の夜は、久しぶりに龍也と出会った冬の日の夢を見た。






続く

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