それは、最悪の日だったのに
眼鏡のれんず
それは、最悪の日だったのに
きょうは、2回目のスヌーズで目が覚めた。
ほんの5分の寝坊は、髪の毛を結う時間を奪い、眉毛を作ることも、ルージュをひくことも、忘れてしまった。
早歩きをすれば、ヒールで転びそうになるし、上着を忘れて肌寒い。
それでも、なんとか仕事を片づけて、クタクタの気分のまま帰宅するためにホームにいれば、キャピキャピのJKの群れが私にぶつかってきて、安物の眼鏡がどこかへ飛んだ。
「…うそだろ…」
茫然と、私は呟く。
ホームは真っ直ぐに歩けない程度に人がたくさん。
裸眼が小数点三桁の私には、海辺に石を投げ入れたかの如くに、見つける事は不可能だ。
しゃがみこんで探したいが、ラッシュとまでいかない時間でも、普通に迷惑な輩だろう。
どうするべきか。駅員にでも相談するか。
駅員がどれからもわからないが。
すりガラスを通すかのごとくに不明瞭な視界。この時ほど、自分の視力を恨んだことはない。
まったく、なんて日だ。
「あら……大丈夫?」
唐突に。聞いたことのない声が私の耳に。
え、と声のする方向を見れば、OLのような人がいる、ような気がする。自信はないが。
「眼鏡、落としたの、あなたでしょう?」
綺麗で落ち着いた物言い。教師かそれとも保険の人か。
「ええ、そうなんです」
「これ、あなたの?」
答えれば、手の上に何かがのせられた。それは赤いフレームの私の眼鏡だ。
だが触れれば、何故かバラバラに手の上で転がる。
つまり、壊れているのか。踏まれたのか。なんてこったい。
「マジか」
ため息交じりに私は本音を呟くと、親切なその人がいると思われる方向を向く。
何せ、本当に見えないのだ。私の視力では。
「ありがとうございます」
「時間ある?」
は?
親切なその人は、ゆっくりと私に尋ねた。そのノーとは言わせない迫力に、私はコクコクと頷く。
やばい。保険の勧誘だったら、既婚者のフリをしよう。
「駅ビルに10時までやってる眼鏡ショップがあるから」
私の腕に何かがするりと絡まった。
どうやら、その人が腕を絡ませてきたらしい。
細い腕に、微かに花の匂い。
「あ、あの、1人で歩けます」
「無理よ」その人はぴしゃりと言った。「結構な人ごみよ。それに知ってる?盲人の行動援護って、こうやって腕を組んでするのよ。危険がないようにね」
「そうなんですか」
私が答えると、その人は「行くわよ」と言ってわたしを導く。
知らない人と腕を組んで歩くなんて、本当に今日は何て日なのだ。
壊れた眼鏡を握りしめながら、私は導かれて歩いている。
ふわりと、時々、甘いにおいがするのは、この人のつけている香水か何かだろうか。
気づけば駅ビル3階にある眼鏡ショップについた。
壊れた眼鏡をみせて説明をすると、レンズを再利用して別のフレームにはめ込みましょうと提案してくれる。
利用出来るというフレームを幾つも並べてもらい、なんとなく赤いフレームを選ぼうとするが、それよりも先に親切なその人が「これが、良く似合う」と私の手に眼鏡のフレームを押し当てた。
ぼんやりでしか分からないが、空色のフレームだ。
「私とお揃いになるわ」
少し嬉しそうな声。眼鏡をかけているかどうかなんて、まったくわからない。
でも断る理由もないので、そのフレームにする。値段もちょうどいい。
しばらくお待ちくださいと言い残し、店員は奥の攻防へときえてしまった。
すぐできるといいな、と思いつつ、私は何故かまだいる親切な人へ、頭を下げる。
「申し訳ありません。おかげでたすかりました」
「別に、いいのよ。気にしないで」
その人の香りが強く香る。近づいてきたのだと分かった。
一瞬だけ。だいぶ近いところで、一瞬だけピントが合う。
ちゅ。と。
唇が甘やかに吸われた。柔らかな感触に、一瞬何が起きたのかわからない。
だって、一体、何が。
「道案内代ね」
耳に疑問の答えが吹き込まれる。
いや、ちょっと、まって。それって。
「おまたせしました」
眼鏡ショップの店員が戻って来る。そして、一通り説明を終えた後、私に新しい眼鏡をかけてくれた。
「フレームの歪みや、キツイ、などは、ございませんか」
鏡を私の前に置きながら、店員は尋ねる。
そんなことより、私が真っ先に見たのは、私の隣にいるその人だった。
が。
当たり前のように、隣には誰もいなかった。
狐に化かされたのだろうか、それとも、私の勝手な妄想だったのか。
「お連れ様は、先にお帰りになられたんですね」
店員が、その人は現実であったことを伝えてくれる。つまり、その人は現実だったのだ。
料金を支払おうとして、店員はにこやかに告げる。
「お連れ様が、先に支払われていきましたよ」
と。
それから、私は毎日捜している。
私と同じ空色のフレームの眼鏡をかけた、甘い香りのする、私の唇と心を奪った、親切なその人を。
2021.4.15
それは、最悪の日だったのに 眼鏡のれんず @ren_cow77
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