第六話 笑顔の裏に隠されたもの



 宴の席を抜け出した雫音は、薄暗がりの縁側を一人で歩いていた。そして、その足を止める。数メートル先に、捜していた人物を見つけたからだ。


 何となく話しかけづらい雰囲気を感じて、踵を返すか迷いながらも、雫音は再び足を前へと動かして、その者の側へと近づいていく。


「……どうしたの? 何かあった?」


 微かな足音で、雫音が向かってきていることには、とっくに気づいていたらしい。

 千蔭は小雨が降っている暗い空を見上げたまま、尋ねる。


「いえ、あの……」

「何? ……主役が一人で抜け出してきちゃ駄目でしょ」


 千蔭からは、敵意にも似た感情を向けられることばかりだったので、てっきりまた、冷たい言葉を浴びせられるかと思っていたのだが――雫音の予想に反して、千蔭の声音は穏やかだ。


「私、お礼が言いたくて」

「お礼?」

「さっき、お酒を勧められた時、助けていただいたので……」

「あぁ、そのこと。別に、アンタは与人様の客人ってことになってるからね。酒に耐性もなさそうだし、そのせいで具合でも悪くなったりしたら、与人様が気に病みそうだからさ」


 千蔭はそこで漸く、雨雲に向けていた目を雫音に移した。千蔭の深紅の瞳に、生気の感じられない、感情の読めない顔をした雫音が反射している。


「もう遅いし、先に部屋に戻って休んでもいいよ。与人様には俺から伝えておくしさ」


 千蔭はニコリと口角を上げて、そう言った。

 ――いつもの、貼り付けたような、完璧な笑顔で。


「……千蔭さんは、私のことが、お嫌いですか?」


 気づけば雫音は、そう尋ねていた。


 笑っているはずなのに、その目の奥は、いつだって冷え切っているように感じる。本心を隠すかのように貼り付けられた笑顔の意味を、雫音はずっと知りたいと思っていた。


 数秒か、数十秒か。

 暫しの沈黙の末、千蔭はその顔から一瞬で笑みを消し去った。


「うん、嫌いだよ。俺は自分の命を軽んじる奴が、大嫌いなんだよね」

「……そう、ですか」


 雫音はその答えを聞いても、特段何も感じなかった。

 心のどこかで、そうだろうなと、思っていたから。


 ――雨を降らせるしか能がない、周りに不幸しかもたらさない自分が、誰かに好かれるだなんて、はなから思っていない。


 やはり嫌われていたのだと、納得しただけだった。


 雫音は嫌われることに、嫌悪の目を向けられることに、慣れていた。

 感情を殺すことにとらわれる余り、悲しいとか、怒りとか。そういう類の感情を、感じづらくなっていたのだ。


「……それじゃあ、俺は行くから」

「はい。……あ、さっきは助けていただいて、ありがとうございました」


 まだお礼を伝えていなかったと気づいた雫音は、小さく頭を下げた。


 そして、次に顔を上げた時。

 千蔭の姿はすでに見えなくなっていた。


 雫音は、空を見上げた。墨を落としたような真っ黒な空には雨雲が立ち込め、止む気配もなく、しとしとと雨が降り続いている。


「私、これから……どうすればいいのかな」


 ――いつまでも此処にいるわけにはいかない。それは分かっている。

 けれど、何も分からない世界で、死ぬことも叶わず、誰からも必要とされることのない自分が、何をしたらいいのか。何処に行けばいいのか……。


 雫音は、与人が捜しにきてくれるまで暫くの間、雨空を見上げながら、迷い子になったような心地で、その場に立ち竦んでいた。


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