第10話 僕はヒーローになれない
あの時、義経は何て言っていたのだろう。
向日葵を追いかけながら、そのことばかり気にしていた。
屋上から立ち去る時、彼女の声は聞こえなかったが、確かにこう言っていたような気がした。
クウによろしく———。
義経の唇の形は、確かにそう言っていた。
「…………だから、何なんだよ。クウって」
不気味だった。
『クウちゃんに宜しく』
先日、バスの中で会ったゴスロリのお姉さんもそんなことを言っていた。
あの人だけではなく、身近な義経も同じことを言った。
「勘違いだと……思いたいけど……」
「アハハハハハハ……! 本当にこいつずっと笑ってんなぁ!」
そんなことを思っていると遠くから声が聞こえた。
荼毘の声だ。
その後に男の笑い声も聞こえる。
追いついた。
昔からこの街に住んでいたので、高校生の行動範囲や行動パターンは大体わかる。その高校生が昔馴染みなら尚更だ。
僕等の街には大きな湖に面した公園があり、自然豊かで広い敷地のランニングコースのあるその公園は、散歩を日課にする高齢者や、金のない中高生の集まる場所として認識されている。
ただの下校でもせっかくなら遊んで帰りたい。友達が一緒にいるのなら尚更。
そういう感情を持った中高生は素直に帰らずに大抵この場所に一度寄る。
声が聞こえた方へ僕は走る。
ダンダンダンと朽ちた木の板でできた通路を踏み鳴らしていく。
この公園には湖に訪れる野鳥を観察するための観察小屋がある。それはぬかるんだ沼地の上に作られ、人が沼に足をとられないように、その上に木組みの橋を作り、湖の上にはみ出した観察小屋まで続いていく。
その観察小屋を使う野鳥の会の人は大抵朝、多くの人が起きる前に使っており、優雅になるとほぼ誰も来ない。
そうなると人目をはばかることをやたらとしたがる、荼毘たちのような連中のたまり場になる。
「ハハハッ! こんなことされても笑うなんて頭おかしいんじゃねぇのか⁉」
やっぱり荼毘は小屋にいた。
そこにニコニコと笑っている向日葵もいた。
裸だった。
その姿を見た瞬間に、僕はものすごい失望感に襲われた。
「えへ、えへ、えへへ……ッ!」
四つん這いで、媚びを売るように向日葵は笑っていた。
まるで犬が主人に下を出して餌を求めるかのように。
流石に完全な裸ではなく白い下着を身に着けていたが、それ以外の服と呼べるものは身にまとっていない。
服とは呼べない赤いリードのついた首輪なら、その首にハマっていたが。
「あ? なにこいつ?」
リードの先を持っているのはボーズ頭の長身の男。
「荼毘の高校の制服きてっけど。友達? 一緒に犬の〝調教〟に参加すんの?」
ギャハハハとそのボーズ頭は嗤う。
「……ッ⁉ 三蔵どうしてここに⁉」
僕を見ると向日葵は顔を青くし、自らの身体を抱いた。
「お、何やってんの? 今更恥ずかしがってんじゃねぇよ」
ボーズ頭が向日葵の手を掴んで、その体から手を引きはがす。
「犬なんだから、人様の前で恥ずかしがってんじゃねえよ。オラ!」
そして乱暴に床に投げ飛ばすと、向日葵は尻を突き出した姿勢で倒れ、「ギャン」と鳴いた。更にボーズ頭はその尻を足蹴にし、
「お前は犬なんだから! キャンキャン鳴いてろよ!」
「…………ウゥ、キャ……きゃん」
顔を真っ赤にして涙目になりながらも向日葵は鳴く。
だが、ボーズ頭は満足せずにぐりぐりと彼女の尻を乱暴に踏みにじり、「声が小さい! もっとはっきりと大きな声で返事をするようにって先生から習わなかったのか⁉」と怒鳴りつける。
「キャン! キャン……‼ キャン……‼」
向日葵の赤く染まった頬には涙が伝っていた。
申し訳ない気持ちになった。
彼女はこの姿だけは僕には見られたくなかった牢に。
「……何をしているんだ?」
「何って、聞こえなかった? 調教だけど? 頭がクソ悪い犬に人間社会を教えてやってんの」
「人が人に〝調教〟なんてやっていいと思っているのか?」
「人が人にじゃねぇよ。人が犬に……だよ。こいつ頭悪すぎて学校の成績も下の方だし、話すことも一々ずれてるからさ。みんなから嫌われてんだよ。そのくせ体はいいから、犬としてなら人間社会で生きていけるだろ? だから、こうやって大人の世界で生きて行けるようにしてんの。俺らってやっさし~!」
そして、ギャハハハと笑いが起きる。
荼毘が笑う。
氷雨も、卑屈に口元を歪めていた。
「もういい、警察に通報します」
僕が携帯を取り出すと、ボーズ頭の目がギラリと光り、向日葵が「やめっ」と声を漏らした。
「通報? やれるもんならやってみろ。全部話すぞ」
「……どういう意味ですか?」
ボーズが下卑た笑いを浮かべ、向日葵の首ひもを引っ張った。
「こいつが主演している動画。いくつもネットにアップしてんだよ」
また、ギャハハハと笑い声が起きた。
僕は、頭が破裂しそうになった。
〝主演している動画〟。今、裸で犬のように首輪をはめられている少女が〝主演している動画〟この状況でその意味が分からないわけがない。
「あ~あ~、言っちゃおうかなぁ……ネットで何十万も再生されてるあの調教動画。顔は隠しているけどこいつだって。ぜ~んぶ言いふらしちゃおっかなぁ? あの裸で走り回っているいじめの動画も。あ、いじめって言っちゃった! ギャハハハッ!」
「…………もういい!」
これ以上は聞くに堪えられないと思い、スマホの画面をタップし始める。
「警察に言ってみろ! ちゃんとこっちにはこんな動画も録ってるんだ!」
ボーズ頭が自分のスマホの画面を僕に見せつけてきた。
夜の街の動画。
ピンク色の照明に彩られた怪しいラブホテル街の風景。
『ど、どうも……こんにちは……デス。私の名前は縁尾向日葵と言いますデス……!』
登場人物は、たった一人———全裸の向日葵だけだ。
動画に写っている彼女は、完全な生まれたままの姿だった。両腕を上げさせられ、頭の後ろで組み、下品に股を広げさせられている。
完全にさせられていた。
映っているのは向日葵一人だけだが、カメラの後ろで『ハハハハ、〝ますデス〟ってなんだよ!』と言っているボーズ頭の声が収録されている。
『こ、これから向日葵は知らないおじさんに抱かれて、抱かれて……抱かれてきマ~ス♪ みんなも向日葵を街で見かけたら、遠慮なく抱いてくださいネ~♪』
向日葵は笑顔だった。
目に涙をためた笑顔をカメラに向けていた。
『向日葵は完全完璧ビッチでエッチな女の子なんデス……~♪ 私とヤッても全部合意だから気にしないで下サ~イ……♪ く~だ……サ~イ……』
『おい、セリフが違うだろ! 最後は歌って占めるってちゃんと言っただろ! 歌えよ!』
『…………でも』
『歌え』
『……遠慮しないで、く~だサ~イ……♪ ズッコバッコズッコバッコし~ましょ♪ 遠慮はしないでズッコン、バッコ、』
僕は奴のスマホに向かって飛びついた。
そのあまりにもひどい歌と踊りの動画を、これ以上見るのは耐えられなくなった。
「おっと」
彼のスマホを奪い取って、地面に叩きつけてやろうとしたが、憎々しくボーズ頭はひらりと身を躱す。
ガツン……ッ!
頭に衝撃を受けた。
後頭部を殴られた。
振り返ると下卑た笑いを浮かべたピアスをした男が肘で僕の頭を殴っていた。
「へへへ……おい、みんなけれ!」
みんな、けれ……?
今、気が付いた。
この小屋にはたくさんの男がいた。
ボーズ頭の他にも、制服を着崩した、髪を染めた男たちが何人も。そいつらが寄ってたかって向日葵を辱めていたのだ。
ドカ、ドカ、ドカ……ッ!
そんなことを考えながら、僕は蹴られる。踏みつけられる。
ただの土くれのように。
なにもできずにそんなに体格の良くない、細い男たちに踏みつけにされる。
東京に行って、実は僕は体を鍛えていた。
視界に入った人間だけは助けられるように。
そして、実際何か起きたら例え相手が何人いようと勝てるように、ずっと体を鍛えていた。
だけど、現実は違う。
僕を足蹴にしている彼らは明らかに僕よりも貧相な体格をしていた。
それでも、僕は動くことができない。
四方八方から跳んでくる蹴りの衝撃に、痛みに耐えられず、この朽ちた木板の床を這いつくばっていくことしかできない。痛みを押さえて立ち上がろうとしても、それを遮るほどの強い衝撃がすぐに襲ってきて、そこに意識を向けるとまた全く違う方向から衝撃をもたらされる。
一対多がこんなに絶望的なものだとは思わなかった。
まったく対応できない。
まるで三百六十度、全方位からの銃撃に晒されているような。そんな絶対的な差があった。
戦いは本当に数だ。
無双なんてできない。
どんな雑魚でも集まって一つのことをすれば、どんな一人の強者にでも勝つことができるのだ。
どうしてその集団の力を、こんな穢れたことにしか使えないのか……。
「……やめ、ろ。これ以上……は……!」
震える手をボーズ頭に伸ばした。
「……? おいやめろ。なんか言ってるぞそいつ」
ボーズ頭が指示をすると、ピタリと他の奴らが蹴るのを辞めた。
「……め、ろ」
口の中が切れて、頬が腫れ、上手く言葉が出ない。
フガフガとした情けない言葉さえ漏れてしまう。
それがおかしかったのか、プッとボーズ頭が噴き出す。
そして、つられるように周りに奴らもギャハハハと笑いだす。
「こ、るぇ……いじょ、は……」
「ハハハハハ……! みんなちょっと待って⁉ コイツ何か言ってる! 静かにしようよみんな!」
ボーズ頭は心の底から楽しんでいるようで甲高い声でふざけたことをのたまう。
その声を聴くだけで頭に血が上って、言おうとしたことを忘れそうになるが……これだけは伝えなくてはいけない。
「やめ……ろ、これ以上は……!」
「ああ、いいぜ。やめてやるよ。お前も俺達と同じになったらな」
ボーズ頭は顎で震えている向日葵を指す。
「あいつを
「————ッ!」
向日葵が震える。
本当にゲスな奴らだ。
同罪にして口を塞ぐ。そんな条件飲めるわけはない。
「やめろ……これ以上……向日葵を苦しめるな……!」
「あ~、別に苦しめているつもりはねぇよ。あいつが好きで俺たちと一緒にいるんだ。なぁ、向日葵ちゃん!」
呼びかけられて、向日葵はびくりと震えて耳を塞いだ。
「友達たくさん作るんだつって俺達に近づいて。ずっと友達になってくださいっていって言ってよォ。だから俺たちなりに〝遊んで〟やってんの! それでもどっかいかないのは向日葵ちゃんが俺達のことを好きだからなんだよなぁ! 向日葵ちゃん!」
「————ッ!」
目と耳をギュッとつむり、向日葵は体を縮こまらせた。
どうして、こうなったんだ……?
氷雨を見る。
彼女は僕の目を避けるように地面を見つめていた。
———どうしてこうなったんだ。
致命的な何かがあったわけじゃなかったんだろう。
ただ、気が付かないうちにどんどん沼に足が沈んでいったんだろう。
向日葵は、ただ僕たち幼馴染でずっと仲良くいたいだけだったんだ。
そのために努力をしたんだ。
その結果が———これなんだ。
どうして……こうなってしまったんだ……。
ただ単純に気が合って、仲が良い友達だったはずなのに……。
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