第2話 どこにでもある、当たり前の日常

 ああ、本当に死にたい……。


「うあああああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん‼ うわああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~‼」


 七月初めの月曜日、朝七時出発の便。

 羽田はねだ空港発、隈元くまもと行き。

 窓の外には一面の雲海が広がる。一面の青空の中の一点の太陽がまぶしく光り、白に当たって顔を焼く。

 羽のついたただの鉄の塊が、百人以上の人間を乗せて空を飛ぶ。一昔前ならとても考えられない、冷静に考えたらファンタジーこの上ない当たり前の日常。

 もはや日常の延長線上にある空の旅。

 人間の到達できないと思われていた、もはやアトラクションのいきに達している空の旅。

 そんな気持ちのいい空の旅……を思う存分、僕は享受できていたのだろう。

 一人だったら。


「うるせぇ……」

「親は何やってんだよ」


 後ろの席に座っている大学生二人組のボヤキが聴こえてくる。

 隣の席のおっさんは不愉快そうに大きな咳ばらいをし、前の席のおばさんは苛立ちをぶつけるかの如くシートを勢いよく倒してきた。肘掛に頬杖をついて、若干前のめりになっている僕の鼻先に、危うくぶつかりそうになり、ただでさえイライラしているのにもっとイライラしそうになった。


 イライライライラ。


 機内にはそんな効果音が響いてきそうな雰囲気が漂っていた。

 なぜか? 

 見りゃあわかる。

 満席である。


「あああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~‼ あああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~~~‼」


 満席の機内に響く、男の子の泣き声。

 その子は一つ後ろの席の丁度真ん中の席。通路に挟まれた三人掛けの席のど真ん中にいた。隣には母親らしき真っ赤な口紅をした二十代中盤ぐらいの女性がツンとした表情で、子供に一切構うことなく座っている。逆側には明らかに還暦を過ぎている白髪頭のスーツの男がトントントントン、これ見よがしに肘掛の上を人差し指で叩き続けていた。


「ああああああああああ~~~~~~~~‼」


 大人に構ってもらえない男の子は泣き続ける。

 五歳ぐらいだろうか。恐らく初めて飛行機に乗るのだろう。具体的な言葉こそ言わずにただ「あーあー」と鳴き続けるだけだが、空の上という本能的に恐怖を感じる位置と気圧による独特の不快感に幼い心は悲鳴を上げているのだろう。

 初めての恐怖にただ泣くしかできない子供心……なんてものをすっかり忘れてしまった大人たちはただただ少年に対して、いやむしろその母親に対して怒りをぶつける。

 まるで他人かの如く振舞っている隣の女性だが、彼女が母親であることは明らかで合わせたような同じ赤色のトレーナーを着ている。女性はスカートも赤色だし男の子のズボンも暗い色合いで茶色にも見えるが錆色でやっぱり赤のカテゴリに所属する色だ。

 外見だけは本当に仲の良い親子に見えるが、泣き続ける我が子に対して母親は何もせずにただ目を閉じて機内の常備されているイヤホンを耳にはめて何かしらの航空会社提供のチャンネルに耳を傾けている。

 男の子は、ひたすら泣き続ける。


「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ「ウルセェぞ‼」


 怒号のようなビリビリする音。

 母親とは逆サイドの白髪の男性がついに顔を真っ赤にして男の子を叱りつけていた。


「ピーピーピーピー、うるせぇんだよ‼ いつまで泣いてんだ‼ 周りの迷惑を考えられねぇのか⁉」

「…………ッ」


 男の子は泣き止んだ。

 泣き止んではいるが見知らぬ男性にいきなり𠮟りつけられるという予想外の状況に放り込まれたことによる、ただの思考停止の硬直だ。

 しばらくすればまたすぐに泣きだすだろう。


「まったくこっちは残業明けの出張で休みなく働いているって言うのに、こんな満員で暑苦しい飛行機でイライラしてんだ‼ ちっとは黙ってろ‼ クソガキが‼ 親はどんな教育してるんだ‼ 子供のころからそんなんだと先が思いやられるな‼」


 五歳にも満たない子供をひたすら罵倒し続ける還暦を過ぎているおじさん。

 あまりにも大人げない光景であるし、顔を真っ赤にして怒りをぶつけてるその姿は叱られているのが自分じゃないとわかっていても身がすくむ。それほどの男性の剣幕はすさまじい。十年も生きていない子供にぶつける怒りでは明らか何ない、というかその怒りの源流げんりゅうは明らかにあそこの男の子だけからもたらされたものではない。


「もうこっちは六十を超えているっていうのに、残業で徹夜させられたんだぞ‼ 確かに昔いろいろやらかしたせいで金がなくて働く羽目になっているのは俺のせいかもしれねぇけど‼ そもそも会社の若い奴らがみんなやめなければあいつらに仕事押し付けられて残業まではしなくて良かったんだ‼ それなのに近頃の若い奴らときたら……‼」


 段々と自分の制御ができなくなったようで、あきれ果てるほどの個人的な恨みを全く無関係な五歳の子供にぶつけ始めた。


「全く……近頃の若いものの情けなさときたら! 本当に不愉快だ……‼」


 あなたがね。

 機内にいた全員がそう思った事だろう。だが誰も何も言わない。何言われるかわからないし、何より関わり合いになりたくない。

 純粋に怖い。大人ですら怖い。

 現に男の子の母親も泣き声に対しては無関心を装っていたが、男性の怒鳴り声に対しては体を震わせて男の子と全く同じポーズを取っていた。その姿はまさしく親子そのものだ。が、自分よりはるかに年上の女性が五歳児と全く同じように叱られてすくんでいる様子は見るに忍びない。


「おい、おいあんた‼ あんた母親だろう! おい……! 何にも言えないのか⁉ 何とか言ったらどうなんだ⁉」


 本当に親子だ。母親の方も思考停止をして何も言い返すことができずに、ただ男性に叱られるがままになっている。

 男性は罵倒を続ける。


「ごめんなさいとか言ったらどうなんだ! そんなんだからあんたの子はこんな軟弱に、」

「ごめんなさい、ちょっと……いいですか?」


 代わりに言ってあげましたよ。


 僕が。


「あ? 誰だお前は?」


 機内の注目を一斉に浴びる。

 僕は自分の席を立って当事者の彼らの元に近づいた。僕の座っている席側に男の子の母親の席、という配置だったので必然的に母親に寄り添う形で立つことになる。

 少し背を曲げて母親の前の座席に手をつき、覗き込むような姿勢で男性に顔を近づける。


「誰……名乗るほどのものではないですが、後野三蔵うしろのさんぞうと言います。あのおじさん、すこし声を押さえてもらっていいですか? その確かにこの子の声はうるさかったけれどもそこまで怒ることはないと思います」


 愛想笑いを浮かべながら、男の子の手の上に自分の手を乗せる。彼を安心させるためだ。その気持ちは伝わったようで、男の子の顔の筋肉が少し緩み、ポカンとした表情ではあるが、温かい視線を向けてくれる。


「ケッ‼ 他人が横から割り込んできて何を言っているんだか! こういう周りに迷惑をかけるような奴はちゃんと言って聞かせないとわからないんだよ!」


 あんたも他人だろうが。


「近頃の若いものは叱られると言うことを知らん! 昭和と違って今は誰も子供を叱らんからな! だから俺が叱ってやってるんだ! この子のために、正しい大人になるために叱ってやってるんだ! ガキはすっこんでろ!」

「え~っと……この男の子が迷惑だから叱っているんですか?」

「そうだ」

「人に迷惑をかけられたら、他人でも叱っていいんですか?」

「当たり前だ」

「じゃあ、僕はあなたを叱ってもいいんですかね?」

「あ?」

「あなたが声を荒げたことで、この機内にいる〝僕等皆ぼくらみんな〟迷惑だな~って思ったんですけれども、あなたを叱っていいんですかね?」

「……ぁ」


 男性は一気に冷静になったようだ。

 周りを見渡し、僕以外の乗客も彼を見つめていることに気が付いた。

 そして、みな一様に迷惑そうな表情をしていることも、気が付いたようで男性は言葉を飲み、恥ずかしそうに俯いた。だが、それは一瞬だけのことで大人としてプライドがあることを思い出したように「フン」と鼻を鳴らして「ガキが!」と吐き捨てると周りの視線から逃げるように顔を逆側にそらして乱暴に頬杖をついた。


「えぇ……と、やっぱり高校生に叱られるのは嫌だろうからやめておきますね」


 一件落着……ってやつかな?

 僕は一応困ったような表情を浮かべて、身を引いて、男のを見ると勇気づけるようにウィンクをした。

 男のはパアッと顔を明るくしたが、何も言葉が思いつかないようでただ口をパクパクと開いて閉じてを繰り返していた。


「ありがとうございます……!」


 代わりに母親の方が、男性に聞こえるほどの声で礼を言った。男性がピクリと動いて空気がピリッとしたが、これ以上の騒ぎは嫌だったのだろう。何も言わなかった。


「いえいえ、お子さんを大切にしてあげてください。これからも」


 母親は頭を下げた。

 男の子の掌を握りしめたまま———泣いている間も男の手を下から握りしめていた。僕がその逆側、上から手を置いた時も離すことなく強く握った手は僕が見ている限り飛行機を出た後も離れることはなかった。

 人にはそれぞれの、やり方というものがある。

 あの母親の人は、あの母親の人なりに自分の子供を愛しているのだ。

 なら、そんな愛情深い人を放っておくことは〝僕〟という、後野三蔵としてはできっこないことなのだ。

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