西へ 第一節
財布を開いて絶望した。
これから旅行に出かけようというのに、財布の中には千円札が三枚と、百円玉が二枚、十円玉が一枚に一円玉が四枚しか入っていなかったから。
駅のATMでお金を引き出そうとしたけれど、私の口座残高は七八〇円という空しさを訴えかけて
きた。
当たり前だ。
バイトを辞めてもう二か月が経つのだから、口座にお金が残っているハズもない。
「タバコのストック、買っておいて良かったぁ」
二カートンか三カートンほど買い置きしておこうと考えた三日前の私を褒めてあげたい。
おかげさまで、私は向こう数週間の命を無事に繋ぐことができます。本当にありがとう。
自分で自分を褒めたたえながら、どうしたものかと考える。
「あ」
考えている内に、無意識に改札を通っていた。
大学に通っていた時、通学目的で作ったmanacaだけれど、定期券としての機能は既に失われて久しい。
けれど、改札機はピッと音を立てて、manacaが無事に処理された事を示してくれた。
見るとmanacaには二万円と四一七九円がチャージされていた。
いつどこでそれだけの大金をチャージしたのか、まったく覚えがない。
もしかして、他人のmanacaを間違えて使ってしまったのではないかと一瞬だけ焦ったけれど、名義はちゃんと私の名前だ。
「本当に身に覚えがない……」
つい口に出して言ってしまうほど、manacaにチャージされた金額に身に覚えがなかった。
けれど、私名義のmanacaにかなりの大金がチャージされているのは事実だ。
他人が私のものにわざわざチャージすることも、間違えてチャージすることも、ほぼないと考えて良いだろう。
なら、このチャージされた二万と四一七九円は間違いなく私がチャージした私のものだ。
すっかり忘れてはいるけれど、いつかの私が何らかの理由でこれだけの大金をチャージしたのだ。
せっかくなのだから、使わなければ勿体ない。
「タバコもそうだけど、神だ……」
またもや自分を褒めたたえながら、改札上の電光掲示板を見上げる。
位置関係的に、ほぼ真上を見上げるような体制になって、首が痛い。
改札を通る前に電光掲示板を見ておかなかった自分に、心の中で小さくブーイングを入れておく。
次に来る電車は豊橋行きだったけれど、トイレに行って飲み物を買う時間が欲しいから、それを踏まえると岐阜行きか大垣行きに乗ることになりそうだ。
「まぁ、飲み物買ってから決めれば良っか」
ひとまずトイレに行き、お花を摘む。
手を洗って鏡を見ると、つまらなさそうな自分の顔が見えた。
気持ち的には、いま楽しいと思っている。
旅行というものは不思議だ。
移動時間も準備の時間も、すべてが特別に感じられて、楽しく思えるから。
だから、私もいま楽しいと思っている。
少なくとも私は、いま自分が楽しいと思っていると認識している。
けれど、鏡に映る私の顔はとても楽しそうには見えなかった。
「…………まぁいいや」
他人から見たら私はこう見えるのだろう。
楽しそうにしているようには見えない、そう感じるのだろう。
けれど、私はいま、ちゃんと楽しいと思えている。十分じゃないか。
私は改札を通って直ぐの位置に戻り、kioskでフルーツティーを買うと、改めて電光掲示板を見上げて行き先を考えた。
次に来る電車は中津川行きだったけれど、中津川には観光スポットらしい場所もないし、行きたい場所もない。
ぶらぶらと何の変哲もない街を歩くのも良いかもしれないけれど、どうせならもっとピンとくる場所に行きたいものだ。
確かに、中津川行きは乗り換えて先へ行くこともできる。
けれど、その先と言っても長野県方面に進むだけだ。
長野は前に行ったことがあるし、その時の思い出はあまり良い思い出とは言えない。
だから、長野に行こうとも思えない。
「じゃあ豊橋行きか米原行きだ」
少しだけ調べてみると、豊橋行き方面には気になる場所があまりなかった。
言い方が悪いかもしれないけれど、劣化版の名古屋でしかないからだろう。
そうなると、選択肢は自然と絞られてしまう。
私は五分ほど列車がやってくるのを待ち、米原行きへと乗り込んだ。
流れる街並みを眺めるのは、楽しかった。
普段私が暮らしている街並みとは異なる街並み。
けれど平凡な街並みを眺めるのが、私は好きなのかもしれない。
だから、流れる街並みを見て純粋に楽しいと思えたのかもしれない。
どうして、自分が暮らしている街並みとは異なる平凡な街並みを眺めるのが好きなのだろうか。
どうしてだろう。
分からないけれど、もしかしたら自分の知らない街でも自分と同じ人間が、その人だけの生活を、自分は味わうことのできない人生を送っているのかもしれないと想像して、それが好きなのかもしれない。
まぁ、イマイチよく分からないから別にいいや。
理由なんてどうでも。
好きなものは好きなのだから仕方ない。
理由なんていらないや。
流れる景色が都会から田舎っぽい都会へ。
田舎っぽい都会から都会っぽい田舎へと移ろっていく。
そうして、電車が大垣駅にたどり着いたところで、私は電車を降りた。
米原行きに乗ったのに途中で降りた理由は、米原駅の周辺やその先の駅で行ってみたいと思える場所がなかったから。
…………嘘だ。
本当は、怖かったから大垣駅で降りた。
なんとなく。本当になんとなくの感覚なのだけれど、大垣駅が私には境界線だった。
日常と特別との、その境界。
前に読んだ漫画か小説で、一度人を殺してしまえば、自分の日常に人を殺すという選択肢が入り込んでしまうと言っていた。それに近い話なのだ。
一度特別と触れ合ってしまえば、私の人生の日常に特別が日常の顔をして入り込んでくる。
それは決して、一度入り込んでしまえば二度と締め出すことができない。
自分自身、何を言っているのか分からない。
ただ、これは言葉として理解するモノではなく、感覚として理解するモノなのだ。
解らない人には解らない。
けれど、解る人には分かって欲しい。
名古屋市内なら、どれだけ電車に乗ってもこの感覚を味わうことは無かった。
けれど、名古屋市の外に飛び出して、愛知県の外に飛び出すと、私が暮らしている街から離れるにつれて、流れる平凡な街並みが私の生きる街ではなく名前も知らない誰かが生きる街なのだと認識するにつれて、私は私の日常から離れてしまっていってるのではないかと、果たしてそれは問題ないことなのかと、そんな漠然とした恐怖が胸の奥底から湧き上がってきた。
以前、元同級生と長野県に行った時はこうじゃなかった。
車窓を流れる景色を眺めて、旅行をしているという感覚を味わって楽しんでいた。
あの時以外も、はるか昔に家族旅行に行った時だって、小中高の修学旅行に行った時だって、そんな恐怖を感じた事はなかった。
今回が初めての一人旅行というワケではない。
もう既に何度か一人旅をしたことがある。
その時も、こんな恐怖を味わった事はなかった。
では、今回の一人旅と今までの様々な旅行で何が違うのだろうか。
正直、そんなモノは分からない。
どんなキッカケがあって、私の中で特別であった特別が、日常に混ざり込むような特別になってしまったのだろうか。
考えても、考えても、分からない。
むしろ、考えるほど分からなくなっていく。
自分の感情が、自分の感情なのに…………。
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