世界の車窓から殺し屋日記4 チェコ・オーストリア編

久里 琳

初日 月曜日

第1話 ヴルタヴァ川と旧市街


 世界を随分狭く感じるようになったのは機械文明の発達が主要因であるのは勿論だが、それは地球上に平和が保たれていてこそ可能であったと今更ながらに思い知らされた。世界を揺るがしている紛争のために日本とプラハとを結ぶ最短ルートを採用できず、思いがけない長旅を余儀なくされたのだ。

 奇しくもプラハは、聖俗問わず大権力に翻弄された歴史をつ街である。自身の小さな受難と街の巨大な歴史的災厄とを重ね合わせる不遜を思うと苦笑が零れ、長旅の疲れも不快も彼方へえ去った。長く憧憬して已まなかった地に降り立ったと云うのにささやかな不如意をかこっているようでは勿体ない。


 待ち合わせていたエージェントとロビーで合流する。ダヌシュカさんという彼女の名を、ロシア人の名に近い響きと感じたのは、おそらく故ないことではない。チェコ人はスラヴ系であり、同じスラヴ系のロシアとは言葉に親和性があるのと同様、人名に通じるところがあっても可怪おかしくないだろう。その事情は例えば、ウクライナやスロヴァキアにも通ずるのかも知れない。


 ダヌシュカさんの隙のない出で立ちは如何にも能吏と云う第一印象で、気分は観光から一瞬で仕事へ引き戻された。非合法且つ非倫理的な仕事へ。

 私は刑務所内専門の殺し屋だ。この特殊な分野に於いて私の右に出る者はなく、世界中から依頼が引きも切らない。私自身は廃業を願っているにも拘わらずだ。職業に貴賤無しとは云われるが、何事にも例外はある。私が胸を張って家族や友人に生業を明かす日は決して来ないだろう。


 ダヌシュカさんの運転で空港からプラハ市街へ。しばらく進むと右手に聳えるプラハ城が出迎えてくれる。城の中に建つ聖ヴィート大聖堂の尖塔を眺めながらさらに進むと、やがてヴルタヴァ川がったり流れるのが眼下に見えてきた。川のうえには遊覧ボートが二隻。城の目前で大きく曲がる川には橋が幾つも架かっている。橋を渡れば、その先は愈々いよいよプラハ市街地だ。

 残酷な使命を帯びた旅だと云うのに今回ばかりは心が躍るのを止められない。街に入ると仕事モードから再び聖地巡礼の高揚感に浸ってしまう。そう。此処はフランツ・カフカの生地なのである。街路の一つ一つに彼の息吹が残っている気がする。

 いま車が走るのは旧市街、即ち在りし日のユダヤ人居住区だ。かつて数万人を数えたプラハのユダヤ人も、今は殆ど姿を消した。ナチスドイツによる占領と、つづく社会主義政権の統治の間に。


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