第6話 斗真の失踪
「いらっしゃいませ~」
華やかな声が響く。ここで働いて十日。住み込みで、二日で一万二千円もらっている。
あの日僕はここの大人に拾われた。ふらふら裸足で歩く僕を、家出少年と泊めてくれたオーナー。キャバクラの経営者で市内に三店舗構えていると言った。
死にたい僕を、「そんな目をしている奴をたくさん見た」と住む場所と働く場所をくれた。「何をするにも金が要るだろう。まずは働いてみろ」そう言われた。
体調がすぐれないことも、殴られた痕の顔にも何も言わず、色々察してくれている。僕は、皿洗いやトイレを掃除したりする雑用係。喘息の薬は、市販の咳止めで同じ成分が入っていることを知り、代用している。常にマスクを着用し顔がバレないように過ごしている。
「クロ! ここ掃除して!」
声が飛ぶ。
「はい」
返事をして掃除道具を持ち駆け付ける。クロはオーナーが付けた名前。人生お先真っ黒け、のクロ。笑いながら、「お前、クロな」と言われた。
スタッフ宿泊用の四畳の小部屋を一つ貸してくれている。パイプベッドに小さなデスクとミニ冷蔵庫。僕には十分だ。ベッドの中で、隆介先輩の優しい腕の温もりを思い出し自分で自分を抱きしめる。店舗のシャワーを、営業時間外なら使用していいと許可が出ている。
ここのオーナーから言われたこと「何をするにも金が要る」を考える。僕の願いは、僕自身が誰にも見つからずに消えること。そうか。その死に場所に行くための旅費を貯めればいいのか。ちょっと目標が見つかった。
でも、お金を受け取ると、キャバクラのお姉さんが「お金貸して」と八割くらい持って行ってしまう。残った数千円では食事や薬を買って終わる。僕は、いつになったらここから抜けられるのだろう。
先輩、受験勉強は進んでいるかな。大学合格するかな。イケメンドクターになって、ここに居る綺麗なお姉さんみたいな彼女を連れて、人生謳歌するのかな。時間がたつほど隆介先輩の事ばかり考えていた。毎日、心の先輩に報告する。「今日も、死ねませんでした」「今日もお金が無くなりました」僕の心の中の優しい先輩は「明日頑張ればいいよ」と頭を撫でてくれる。「じゃぁ、そうします」と応えて眠る。
十二日目。今日はお金貰える日だ。取られないようにしよう。もう、贅沢を言わず、一万円を握って電車に乗ろう。そう決めていた。だって、このままじゃ、僕はここから動けなくなってしまう。顔の青タンも消えた。電車に乗っても目立たないはずだ。オーナーにお礼を言おう。そう、決めていた。
「おーい、クロ。そこ終えたら事務室に顔、出せよ」
「はい」
床のモップがけを急いで終わらせる。お世話になったお礼に、丁寧に磨き上げた。
不思議な場所だった。ここに来て、死ぬことを目標に据えたら、ストンと気持ちが落ち着いた。そのおかげか、発作も起こさずにすんだ。誰も僕の経緯を聞かない。顔の青タンも、問われない。ここに居る僕を、ただ受け入れてくれた、不思議な場所。欲に忠実で、無関心のようで、温かい人の集まる場だった。見たこともない世界だったな、と振り返る。
コンコン、とドアをノックして入室する。いつもなら、すぐにお金をくれるオーナー。
「まぁ、ちょい座れ」
応接用のソファーを勧められる。お礼もしたかったから、勧められるままに座る。
「コーヒー飲むか?」
勧められるが、コーヒーは苦手だ。ちょっと返事に困っていると、ガチャリとドアが開き誰か入ってくる。キャバクラのお姉さん、今日は早いな、と思った。
「斗真!!」
名を呼ばれて、全身がビクリと反応した。心臓が、バクバク鳴り響く。手が、腕が震える。毎日思い出していた、柔らかい低い声。嫌われたくなくて、会いたくない人。捨てられるくらいなら、僕が消え去ろうと思っていたのに。本当は腕の中に優しく包み込んで欲しい相手。どうしよう。頭が真っ白になる。見つかるなんて思っていなかった。怖くて、身体が動かない。先輩のほうを、向くことが出来ない。怒られる。また、嫌われる。そう思うと、悲しくて、無言で涙がこぼれ落ちる。
良く知っている匂いがした。近くに来るのが空気で分かる。僕を包み込む固い腕。厚い胸板。心臓の音。頭で感じる、熱い呼吸。はっとする。先輩が僕を抱きしめたまま、泣いている。
「無事でよかった。斗真、やっと見つけた」
絞り出すような声が、涙と共に落ちてくる。先輩は、やっぱり優しい先輩だ。二人で、声上げて泣いた。
「さて、そろそろ落ち着いたか?」
オーナーが声をかける。
「この度は、斗真を保護してくださり心から感謝申し上げます。ありがとうございました。後日両親と共にご挨拶に伺います」
今は午後三時だし小掠先生たちは診療時間だ。
「いや、クロをすぐに返すとは言ってねぇよ」
オーナーの声に、驚いた。先輩は、ちょっと怖い顔でオーナーと睨み合っている。
「お金ですか?」
部屋の空気が変わっている。
「ふざけんな。金なんて要らねーよ。それより、クロを本当にお前に渡していいか信用できないだけだ」
ソファーに座り、一人コーヒーを飲むオーナー。
「電話じゃ聞いたが、もう一回確認するぞ。クロの傷、お前がやったんじゃないんだな。じゃ、クロはどこから逃げてきたんだろうなぁ」
先輩が、下を向く。
「俺のところからです」
「そうか。嫌な場所に、また帰すのか?」
きっと、オーナーは誤解している。どうしよう。ジワリと汗がにじむ。
「クロなぁ、死ぬことばっかり考えてるぞ。そういう、人生の最期を決めた奴の目をしてる。お前のところで、そういう気持ちになってるなら、同じことが起きるだろうが」
先輩を正面から見つめて、オーナーが話す。高級スーツ、四十代の貫禄たっぷりの容姿が言葉に迫力を持たせている。
「なんで、クロを警察に届けなかったと思う? もしかしたら、捜索願出してる家族から、必死の思いで逃げてきたかもしれねーだろうが。ほいほい渡して、死にましたーってニュースで見たくないね。例えば、両親医者です、良い家庭ですってヤツらが狂ってるなんて、よくある話だよな」
先輩は、じっとオーナーを見ている。
「斗真の怪我については、全く責任がない訳ではありません。多少、俺にも不注意がありました。後悔してもしきれない。でも、誓って俺は、俺たち家族は斗真を傷つけたり苦しめたりしていない」
「あの、待ってください。違います。先輩は、何も悪くないんです。ケガも、これは、僕の家族が、実の弟が、やりました。そこから助けてくれたのが先輩です」
「おい、クロ。じゃ、なんでそこから逃げたんだよ?」
先輩も、僕を見ている。言わないと、いけないだろう。下を向いて、話す。
「ぼ、僕が、汚いから。僕、弟に、お、襲われました。綺麗な優しい先輩の傍にいるのに、ふさわしくない。でも、先輩は優しいから、僕を捨てられない。先輩に出来る、僕の恩返しなんです。先輩の前から消え去ること。僕なりに、先輩に出来ることを考えたんです」
驚いた顔で僕を見ている先輩。
「あ~、そういうことね」
オーナーがコーヒーを飲む。
「斗真。俺、斗真がいなきゃ生きていけない。斗真が俺のために消えようとしたのは、斗真の思いだけだよね。俺の思いも聞いてくれるかな?」
先輩に手を握られる。握られた手を見つめて、温かいなぁと思う。
「斗真と一緒に人生を歩みたい。斗真に寄り添っていて欲しい。いなくなって今日まで、生きた心地がしなかった。不安で眠れなかった。俺は斗真を甘やかしたいし、愛し合いたい。自分を汚いと思うことはないんだ。斗真の弟は、家族は、少しおかしいんだ。おかしいものを正常に戻すことは難しい。ならば、そんな人たちに振り回されることはない。斗真の場所は、俺の傍だ。お願いだから、勝手に消えないで」
先輩の気持ちに、熱いものが溢れる。
「だけど、あれからキスもしなくなって、僕の事、きっと嫌いになったからって……」
ぎゅっと抱きしめられて、唇に触れるだけのキス。先輩が耳元で囁く。
「そんな風に思わせて、ごめんね。性的な事は嫌な事を思い出すかと思ったんだ」
「お~」
いくつかの声に、ここはキャバクラの事務室だったと顔が真っ赤になる。
「おい、クロ。お前、恋愛下手かよ。こっちが恥ずかしくなるわ。まぁ、事情は分かった。そういうことか。そりゃ、苦しいよな。死にたくもなるよな。彼氏、クロを守ってやれよ」
「お~い、茶、二つ出して」
オーナーが声をかけると、事務室の奥から、お金を巻き上げていたお姉さんと男性スタッフが数名顔を出す。すぐに温かいお茶をお姉さんが持ってくる。
「クロ。はい、お金。あたしさぁ、お金欲しくて巻き上げたわけじゃないからね。あんたがお金持ったらきっと失踪すると思って、預かっていたのよ。意地悪したわけじゃないの。ここね、時々クロみたいに傷ついた人が来るのよ。世の中、皆敵じゃないわ。出会った以上、あたしはクロに生きて欲しいよ。クロは彼氏の声を聞いたらいいよ。思い詰める時こそ、大好きな人の声を聞いたら、きっと間違えないよ。幸せにね」
封筒に入ったお金をテーブルに置かれる。
「ね、彼氏。クロを救ってあげて。約束して。聞いていて、辛くなっちゃったよ。この子、いい子よ。人の邪魔にならないように細心の注意払って動くの。それって、自分を押し殺して生きてきたからよ。そういう環境に居た子だって分かる。ここでのバイト、頑張っていたよ。こんな可愛い子だもの、大事にしてあげてね」
そっけないお姉さんからの言葉と思えず、ポカンと見入ってしまう。こんな風に見てくれていたのか。思いがけない言葉に胸が熱くなる。
「ありがとうございます。温かい場所に拾われて、斗真を助けてくれて心から感謝します」
先輩が立ち上がり頭を下げる。慌てて僕も同じようにする。
「あはは。クロ、成人したらお客として二人でおいで~。彼氏との話、聞かせてよ。彼氏、お金落としていってね」
パチンと可愛くウィンクをするお姉さん。ふと事務室奥の更衣室を見ると、ドアからお姉さんたちが見ている。僕に気が付くと、ニッコリ手を振ってくれる。僕は、運が良かったんだ。そういえば、ここのお姉さんたちはどんなお客にも悪口や愚痴を言わない。お客の愚痴も悪い態度も笑顔で受け流す。人を拒否しないから人が集まるんだろうな、とぼんやり分かった。
「じゃ、クロ、いや、斗真を返すよ」
正面で、オーナーがにやりと笑っている。
「クロ。お前、苦労したな。苦労した分、良い事もあるさ。人生捨てたもんじゃない。やり直しはできる。だが、死んだら生き返れない。また消えたくなったら、ここに顔出せ。雇ってやるよ」
笑っても怖い顔のオーナー。怖そうなスタッフのお兄さんたち。派手なお姉さん。ここは、今まで知ることもなかった人たちの集まりだ。けれど、こうゆう店がなんで繁盛するのか分かった気がした。
皆さんに、深く頭を下げて、心からの感謝を伝えた。別れ際には、涙が出た。
先輩とタクシーで帰った。店を出る時から、先輩が僕の手を握って離さない。繋いだ手からは、いつもの優しさじゃなくて、先輩の必死さが伝わってきていた。ごめんなさい、手から伝わるように、手がほどけないように握り返した。
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