第8話 「 名前 」

「ハルカと云う名の女でした。飲み屋で知り合ったんですが、偶然地元が近くだって分かって話が盛り上がったんです」

「へえ。地元、どちらですが?」

「S県の野布市です」

「ああ」

「向こうはその隣り町で。それから時々顔を合わせるようになって、まあそのうちどちらからともなく」

「なるほど」

「僕としては一応結婚のことを考えていたんです。多分向こうもそれを望んでると思ってましたから」

「でも、相手はそんなあなたを置いて消えた…」

「まあ…そんなところです」

「そしてこれが?」

「はい。彼女が置いていった本の中に挟まってました」

 多分、いや、まぎれもなくそれは青いチケットだ。私には分かる。

「何か、思い当たることってありますか?」

「いえ、特には。だから僕、あなたに会ってみようと思ったんです。彼女を探し出すきっかけになるかも知れないと思って」

「そう」

「モリカワさん(筆者:私)はこの事件をどう思ってるんですか?」

「え、私が、ですが?」

「はい」

「そうですね。今のところはまだ何とも。ただ、一つ言えることはその原因(はじまり)と云えるものはどこででも起こり得ると云うことです」

「それはつまり?」

「人が世を儚む」

「…」

「今はただそれだけしか」

「なるほど」


「帰ってくる人もいるんですよね?」

「そうですね。そう云う人もいます」

「どうなんですか。本人たちには何か自覚と云うか、症状と云ったものはあるんですか?」

「私の知る限りではありませんね。記憶を失くしていたり、常識感覚が少し飛んでたりはしますけど、本人には特に変わったところはありません。普通に日常に戻っていますよ」

「う~ん、まるで何かリセットされたかのような?」

「なくもないですけど、それより彼らは端的に帰ってくるのを選んだと思います。良いか悪いかは別として」

「選んだ?良いか悪いかは別として?」

「はい、そうです」


「ハルカは帰ってくるでしょうか?」

「そうだと良いですね」

「私は彼女に何かしてあげられなかったんでしょうか?いつもそのことを考えます」

「何か?」

「だって彼女は生きることに絶望しちゃったんでしょう?」

「ああ。それは少し違うと思います。私の譬えがいけませんでしたね。確かにそう云う側面もなしではありませんが、むしろ諦念と云う表現が合っているかも知れません」

「諦念…諦め、ですか?」

「はい。彼らは瞬間この世界に対して非常に客観的になってしまうんだと思います。それは中途半端な態度では到達できない境地です。つまり一生懸命生きたからこその感覚」

「つまりハルカは…」

「あなたに対しても思いがあったからこそだと思いますよ」


 私は久し振りに男の人が涙を流すのを見た。どうやら彼には別居中の妻子があり、ハルカさんとは不倫状態にあったらしい。彼はひとしきり泣くと、私に一度頭を下げ、そのまま喫茶店を出ていった。外では小雨が降り始めていて、私はそのメランコリックな風景に少々のでき過ぎた感を否めなかったが、これもまた一つの「青の形」だと思うことにした。それでなくとも最近の私には、この喫茶店から見える風景はすべて何処かからの借り物に見えてしまいがちだから。

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