第2話 「 タクシー 」

「ちょっとびっくりしちゃってね」

 そういきなり切り出したのは会社員のGさん(四十七歳)。彼は今年の春先、職場近くからタクシーを拾った。「最初乗った時『あ、ちょっと失敗したなー』と思ったんだよ。何でって、とにかくその陰気さ。車内になんとなーく漂う、得も言われぬ負の空気感。分かるよね」そう言ってGさんは筆者に同意を催促した。

「無口なのはまだいい。でもね、タクシーの中って狭いでしょ。やっぱりじめっとした空気感は勘弁して欲しいよね。こちとら仕事上がりなんだから」

 それでもGさんは片道20分ぐらいの我慢だと思って、シートに身を預けた。もちろん一日の仕事で疲れてはいたが、ホテルに戻ってもビール飲んで寝るだけと分かっていたので、何気なくその陰気な感じ漂う運転手に声を掛けたと云う。

「するとね、空気感はともかく運転手も話に乗ってきたんだよ。そのうち自分の事も喋り出してね。まだタクシー経験がそれほどじゃないことや、時折変な客に絡まれて困ること、それに同僚が実際事件に巻き込まれてしまったこととかね。聞いててこっちも興が湧いてきて飽きなかったね」

 変だなとGさんが思い始めたのは、そろそろ逗留中のホテルが近づいた時だった。「その運転手が言うんだよ。『今からちょっと珍しいもの見に行きませんか』って。『珍しいものって、何?』こっちが訊くと、『海に行くんです』って応えるんだ。それで重ねて訊くと『夜光虫が綺麗なんですよ』って」

 そこでGさんは冷めかけのコーヒーを口に含んだ。「今から考えればそれもまた運命だったのかなって思うよね。まさかさ、平日の仕事帰りにタクシーの運ちゃんとドライブするなんて普通あり得ないっしょ。でもまあ、向こうがその分の料金は要らないって言うし、こっちも気晴らしにはなるかなって程度だよね。気が付いたらもう海沿いを走ってた」

 そこで筆者はGさんに質問した。「浜辺での運転手(Mさん:42歳・市内のタクシー会社勤務*後に判明)の様子におかしなところはありませんでしたか?」

「無かったと思うよ。もうお互い中年まっしぐらの年代だからね。仕事を忘れたら、妙に気があったって感じでね。最初のじめーっとした印象もだいぶ気にならなくなった。それでヤツが言った、夜光虫の穴場も見せてもらったわけさ。確かにそれは綺麗だった。ヤツが不意に見に来たくなる気持ちも分かるほど、幻想的でまるでこの世のものじゃないくらい不思議な動きをするんだ。辺りは真っ暗だったら余計にそう思えたんだろうな。しばらくはお互い思い思いの声を掛け合いながらそれを眺めてたんだ」

 その日は雨のあとともあって、少し冷え込んでいた。Gさんは「おい、そろそろ戻ろうか」と運転手に声を掛けた。すると相手は「寒かったら先に戻ってて下さい。僕はあともう少し見てから戻ります。せっかく来たし」と応えた。Gさんは仕方なくタクシーが停まっている浜辺近くの駐車場まで一人で戻った。一度運転手の方を振り返ったが、もう暗くてその姿は見えなかったと云う。

 結局運転手Mさんはそのまま戻って来ず、Gさんは仕方なくタクシー会社を通じて事の緊急を警察にも伝えた。

「正直迷惑千万だったけど、不思議と腹は立たなかったよね。それは今も同じ。どうしてなのかなあ」

 語り終えてGさんは一人事のように付け足した。しかしその表情は決して暗いものではなかった。むしろ何か懐かしいものを思い出しているような。筆者はその顔を見ながら、夜の海に姿を消した運転手の気持ちを想像するしかない。

「青いチケットみたいなもの、見ましたか?」

 最後に質問した時、Gさんは笑って答えた。

「見てないね。後でタクシー会社の人から聞いたくらい。だから未だに何をどう解釈していいか分からないのさ」

 そして席を立った。 

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