第一章 終幕

共ニ歩ム

チチチ、ちゅんちゅん


 窓から日の光が差し、小鳥の鳴き声が聞こえる。次第に起き始める街からは、少しずつ喧騒が聞こえ始めた。路面を走る電車のチンチンというベルの音、ガラガラと回る馬車の輪の音が否が応でも起床を促す。


 もぞもぞと亡者のように寝床から出た彼女は支度を始める。あまり眠れずに目の下に隈を作った顔に生気は無く、着替える手は覚束おぼつかない。


 昨日、あの出来事の後にどうやって家に帰ったのかの記憶が無い。いつ寝巻に着替えたのかも、食事はどうしたのかも全く分からない。盛大に腹が鳴る以上は、食事はとっていないように思う。


 鞄の中に教科書を入れる。今日の授業は何だったか。考えようにも頭が働かず、どれもこれも詰めようとして鞄が膨らんでいく。


「ダメダメ!」

ぱぁん!


 ぼぅっとしていた意識を引き戻すために、両の手で頬を打つ。景気のいい音が部屋に響き、痛みが無理やりに頭を覚醒させた。


「って、遅刻っ!!」


 時計を見て更に意識がハッキリする。既に全力疾走しないと間に合わない時間だ。引っ手繰たくるように鞄を持ち、家の扉を破るが如くの勢いで飛び出した。


「っとと、鍵、かぎ」


 駆けだそうとした足を止め、カチャリと施錠。鍵を引き抜くと同時に、全力で駆けだした。出会った大家にいつもの挨拶を放り投げ、彼女は街へと飛び出す。


 道行く人々を左右に躱し、曲がり坂を上り切る。馬車馬も二度見る速さで街路を行き、本来はダメだが緊急事態故に車道を横断した。路地を通り抜け、良くない事と分かりながら塀を乗り越える。


 羽織が向かい風を受けてはためき、手にした革鞄が前に後ろにブンブン振られた。大地を蹴る足は独楽こまが回転するが如くの動き、額からは玉の汗がしたたり飛ぶ。


 向かう先は我が学び舎。されどそこには、友の姿は無い。それを誰よりも理解し、ゆえに前を向かなくては。走りながら彼女は考える、既に友は亡くとも自分の心の中で共に歩んでくれているのだ、と。


「ふっ、ふっ、ふっ」


 多少、息があがるも足は止められない、遅刻するなどもってのほかである。角を曲がり、女学院の門が見えた。なんとかかんとか、間に合いそうだ。


「な、なんとか、間に、合った、あぁ……うおぇ」


 両手を膝に突き、ぜいぜいと肩で息をする。教室までは多少距離があるが、どうにかなりそうである。が、嘔吐寸前の状態ではたどり着けそうにない。


「あらあら、随分と元気ねぇ」


 頭上から声がかかる。どこかで聞いた事のあるような声だ。


「髪の毛が汗でべったり」


 一年前に同じような事があった気がする。

 声の主は、ゴールテープを切った選手に目線を合わせるためにすっと屈んだ。


 ヨーコの目に映ったのは。


「ユ、ユウ」

「えい」

コロン

「もがっ」


 何かを口の中に放り込まれた事で言葉が止まる。そして。


「ぬがっ!スッとするぅっ!鼻に抜けるっっっ!!!」


 ヨーコは鼻を押さえて悶えた。


「あっはっは、本当に面白いわね、ヨーコは」


 腹を抱えて彼女は笑う。ヨーコは信じられない物を見る目でそれを見ていた。その視線に気づき、彼女は怪訝な顔をする。


「なにその顔?なにか言いたそうね?」

「い、いや、いやいや!なんで!?え?なん、なんで!?いやなん、なんで!?」

「落ち着く落ち着く、どうどう」


 大混乱するヨーコの事をユウコが鎮める。少しだけ冷静さを取り戻した彼女は、一度深呼吸をしてから己が友に問いかけた。


「え、えっと、眠くて少し休ませてもらう、って……」

「ええ、そうよ?それが何か?」


 問いに対してユウコは、何を当然な事をと平然と答える。


「だって、その、死んじゃう感じだと思って…………」

「え?」


 致命傷を負った者が眠いと言う。それは映画キネマでもよく見る、死の描写だ。あの状況でそれを言ったならば、ヨーコの考えも理解出来ようものである。だがしかし。


「ぶはっ。あははっはっははっ。なに?貴女、そんな風に聞いてたの?くくく、そんな訳無いじゃない」

「え、ええぇ~~~」


 耐えきる事などできない笑いが、ユウコを襲って大爆笑。対してヨーコは納得いかない顔で、笑いで呼吸困難になりそうな友人を見ていた。少しして笑いが納まったユウコは、なおも口元に笑いを滲ませながらヨーコに向き合った。


「空腹の時に沢山食べたら眠くなる。貴女も経験あるんじゃない?」

「うん、あるにはあるけど…………」

「それと、お、な、じ。すっからかんの所に無理やり力をねじ込まれたから、途轍もなく眠くなっただけよ」

「いやでも最後に、親友か、って聞いたのは?」

「ん~?そんな事言ったかしら?意識が朦朧としてたからよく覚えてないわ」

「うそぉ……。なにそれ」


 安堵と肩透かしの両方を食らって、完全に脱力したヨーコ。その頭の空中線アンテナもふにゃふにゃと力無く垂れ下がる。だが次第に、親友が無事だった事に対する喜びが彼女の中で大きくなっていく。


「ユウコっ」

がしっ!

「ちょ、なに!?」


 飛びつくようにヨーコが抱き着く。突然の事にユウコは驚きの声を上げた。


「本当に良かったぁ」

ぎゅうっ

「あらあら、随分甘えん坊ね」


 仕方のない親友だ、とばかりにユウコは笑う。


「本当に」

ぎゅぎゅう

「もう、その辺にしておきなさいな」


 強く抱きしめられ、ユウコは笑みを浮かべつつもヨーコを制する。


「ほんとうに」

ぎぎぎゅううう……

「ちょ、いた、いたた」


 思い切りの抱擁。絞められたユウコが苦痛に身もだえした。


「ほんっとに」

みしみしみし

「あがが、し、しぬっ、や、やめな、さい……っ」


 身体の骨を折らんばかりに、万力の如くヨーコはユウコを締め上げていく。完全にりに来ている親友の胸を、殆ど力の入っていない拳で弱々しく叩く。


ぱっ

「がふぅっ」


 突然の解放。ヨーコは軽く万歳をするように、顔の横で両手を広げて見せた。ユウコは圧し折られかけた両の二の腕を、自身の身体を抱くようにしてさすっている。


 おどけた表情のヨーコと不服そうな顔のユウコ。両者は互いを見つめ合い、そして。


「ぷっ」

「くっ」


 同時に噴き出した。


 ひとしきり笑って、二人はいつもの通りに向かい合う。


「おかえり、ユウコ」

「ただいま、ヨーコ」


 互いに笑みを浮かべる。季節終わりの桜の花が風に攫われて、さぁっと二人の間を通り抜けた。ヨーコとユウコはその花びらを穏やかな表情で見送る。


 が。


「あっ!?」

「わっ!?なによ、いきなり」

「遅刻!!!」

「は?」


 大焦りで迫る親友に、ユウコは怪訝な顔で応対する。親友の様子を見て、ヨーコは首を傾げた。


「一時間、間違えていない?」

「え、あ!本当だ!!」


 門近くの時計を見て、驚きの声を上げる。そして再び彼女は脱力した。


「良かったけど良くない~、でもユウコが無事だったから良かったと思いたい~」

「一年前から成長が無いわねぇ。さ、髪を整えてあげるから長椅子ベンチへ行きましょ」


 先を行くユウコにヨーコが続く。すぐに追いついて、ヨーコの隣をユウコが歩く。互いが互いの顔を見て、ふっと小さく笑った。


 今日もいつも通りの日常が始まる。

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