28 棕矢◆留守番/祖父□劍 孤児院へ・古書室
XX14年 1月
年が明けた、二週目の日曜だった。
昼過ぎ、お
「
「あ、はい」
……あれ?
どうやら、この子を連れていくらしい。だから、色々と不思議で行き先を訊いたんだ。
お祖父様は、少し思案してから理由を説明してくれた。
「もう一人の
「うん」
「その時の理由と同じだよ」
「じゃ…えっと、つまり、劍君にも引き取り手が見付かったって事ですか?!」
「いや」
「え?」
「孤児院に引き取って貰うんだ」
「孤児院…?」
「ああ。もう連絡や契約は出来ている。大丈夫。親切な院長さんが居る
「…は、はい」
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
俺は腑に落ちないまま、漠然と見送る。
「きゃ! お兄様ぁ!」
その時、台所の方から恭の声がした。
「どうしたー?」
「ちょっと来てぇ」
閉まる
「恭? どうした?」
「あ! お兄様…ごめんなさい」
恭の足元にはガラス瓶が一つ割れて、中の茶葉が殆ど零れてしまっていた。
この茶葉は元々お祖母様が好きな紅茶のブレンドで、最近よく淹れていたんだ。
「お祖母様に、持って行こうと思ったの…」
「怪我してないか?」
「うん…」
「良かった」
「ご……さぃ」
「ん?」
「ご、ごめんなさい…」
「うん。良いよ。大丈夫」
俺は、涙目で俯く恭の頭を撫でてやる。でも「うん…」と、暗い声の返事だった。
昔みたいに撫でてやれば機嫌が直る、なんて歳じゃないからな。
俺は、もう一度「大丈夫だよ」と言って片付けを促した。
「手、切らないようにな」
「うん」
その間に、瓶に辛うじて残った茶葉と近くにあった他のハーブを即席で組み合わせる。
「はい。これで淹れて、お祖母様に持って行ってあげて」
「…わ! ありがとうございます!」
やっぱり恭は、その笑顔が一番だよ。
「さて」
恭が盆を手に、ゆっくりと階段を上ってゆくのを見届けた俺は大きく息を吸った。
お祖父様が帰って来るまでに、色々と片付けよう。
□ ■ □ ■ □
私は眠らせたままの
年明けから二週間も経てば、辺りは落ち着いて穏やかだ。
劍の身体が冷えないように、毛布をしっかり巻き付け一番近い駅へと向かう。
道中「はあ」と息を吐く度に、吐息は白くなって舞い、空に消えてゆく。
……少し、疲れたな。
この子を抱えて長時間移動するのは、やはり、きつそうだ。
駅まで、まだ少し距離がある。少し休もうか…
大木の方向にはよく出向くが、真逆の方向に広がる街には特別な買い出しの時くらいしか行かない。だから慣れない上に、今日は雪もそこそこ積もっているせいもあって「これは思ったより大変だぞ」と思った。
「あれ? え…っと? うーん?」
不意に、
……聞き覚えのある声? だな。
「ああ! やっぱり!」
「え?」
一台の車が近くの路肩に停まっていた。運転手が降りてくる。
「
運転手が、子供みたいに手を頭上で大きく振りながら駆けてくる。
「ん? …おお! どうも、こんにちは」
白い息を吐きながら駆け寄ってきたのは、店の客の一人だった。
彼は最近、店によく来てくれる子だった。年齢よりあどけなく明るい顔立ちと、飾らない態度で彼はすぐに他の常連客達とも打ち解けていたから、私も顔をちゃんと覚えている。
「どうしたんですか? こんな所で立ち止まってたら凍えちゃいますよ」
彼は困った顔で優しく言い、立ち尽していた私に手を差し伸べた。
それから、私の腕に抱かれた劍を見付けると「ちょっと、車に入ってくださいよ」と先程の車を指差して、ニカっと笑った。
悩んだ末「じゃあ…すまないが、少しだけ御言葉に甘えようかな」と私は答えたのだった。同時に「彼は、良い子だな」と思った。
わざわざ孤児院の前まで送ってくれた青年は「またお店、行きますからね!」と軽く手を上げ、去って行った。
本当に助かった。おかげで
改めて降り立った場所から院を眺める。
大きくて太い柱が、入口のガラス扉をしっかりと囲み支えている。昔のここを知らない人が見たら、病院か何かと間違えそうな、ちょっと陰気な雰囲気の門構えだった。
しかし、それは玄関だけだった。見上げて建物全体を見ると、やはり昔の面影が残っていて微かに残る記憶の図書館を思い出させる部分も見受けられた。
「でも、やっぱり少し雰囲気、変わったな」
何となく抱き
「御免ください。先程、連絡した者ですが」
これまた病院の待合みたいな、白が基調の
「はーい。こちらへどうぞ」
受付の小窓から、一人の若い女性が紙とペンを差し出した。
「
「ああ、ありがとう」
私は抱いていた劍を待合の長椅子の上に寝かせ、ペンを受け取り言われた通りに記入する。
「え…?」
……え?
顔を上げると、受付の女性が目をぱちくりさせ固まっていた。
「ど、どうかなされましたか?」
「い、いや…え?」
……「いや、え」って。
私が首を捻ったところに、男性の職員が「どうした?」という顔で近付いてきた。
そしてなぜか、彼の動きも一瞬止まり、私と私の今書いた文字を何度も視線が行き来する。そして…
「と、遠いところ、お越し頂き光栄です! お待ちしておりました」と勢いよく頭を下げられた。
「い、いえ、こちらこそ。恐縮です」
ありふれた言葉を交わした後、男性が近くに居た職員にてきぱきと指示を出す。
と、あっと言う間に劍は乳母車に乗せられ、私の持ってきた荷物は職員に運ばれ、私は地下室に案内された。仕事柄なのか、皆手際が良かった。
*
「改めて、院長のDと申します」
地下へと続く階段の先に、初老くらいと思しき女性が立っていた。彼女は、電話の時と同じ丸みのある優しい声音で告げると、ゆっくりとお辞儀をした。
地下室は大きいストーブが一つあるだけだったが案外温かく、柔らかいセピア色の照明のせいか、少し私の店の雰囲気と似ている。
「どうぞお掛けください」
Dさんに促され、一番近くの椅子に腰を下ろす。そこへ丁度、先程の男性職員が茶を運んできた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
「失礼致します」
彼は執事のような一礼をして、階段を上って行った。
「では、お手数ですが…電話でも伺いましたが、もう一度お話を聞かせて頂けますでしょうか?」
「ええ、勿論です」
「はい」
*
「では。
彼女は壁際の
「はい。よろしくお願いします。すみません、急に無茶なお願いをしてしまって…」
「いいえ。そんな事ないですよ。私達は大丈夫ですから」
「…はい」
彼女の言葉に、思わず私は笑みを零した。
それから私と彼女は、いくつかの書類に互いの承認の
「あの…」と、卓上の書類を片付けているDさんに声を掛ける。
私には、まだ果たしていない目的があるからだ。
「はい?」
「もし宜しければ、
Dさんが、きょとんとする。そして、笑顔になると「ええ、勿論です!」と頷いた。
……私の〝もうひとつの目的〟
〝あの本〟を古書室に隠し、
だから私は先に、
それに今、私が持っている〝原本〟の中身は、術を掛けた者しか解けない結界の応用で厳重に
Dさんが立ち上がり「鍵は事務室にありますので」と言いながら階段を先に上る様、私に促す。私が階段を上り始めると、彼女も後ろから付いてくる。
それから事務室に入るとすぐに戻ってきた。
「ご案内致します」
彼女が言った。私達は並んで廊下を歩く。
少しすると、ふとDさんがこちらを見遣る。再び前に向き直ると目を細め、遠くの方を見ながら静かに話し出した。
「ご存じかとは思いますが、ここが孤児院になる前、この建物は大きな図書館だったんですよ」
「ええ、そうでしたね」
「はい。その頃、こちらにいらっしゃった事はありますか?」
「うーん…。来たと言えば来ましたが、中にまでは…」
「そうだったんですね」
「ええ」
「私は一度だけ、中に入った事があるんですよ」
「ほう」
「あの時は、娘がやけに読書家で。家にある本を読み尽くした、とか何とか。つまらなそうにぼやいていたので、一緒に来たんです」
「読書家とは、お子さん、今時珍しいですね」
「ふふ。主人が本好きで」
「そうでしたか」
「はい」
…ふと、
「ここです」
ぼんやりしていると、Dさんが立ち止まった。
横を見ると、所々ささくれた木製の引戸が在った。
塗装が剥がれ落ち、表面の色が
学校みたいだな…と思った。
木製の長い廊下と古い木製の引戸…どことなく、懐かしい景色だった。
Dさんが鍵を開け、引戸を引いた。
私は彼女が頷くのを見て…一歩、足を踏み入れた。
ふわっ
本と古い紙の独特な、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
Dさんが「私は、ここで待っています。どうぞ、ごゆっくりと」と、また優しい丸い声で言い、笑い掛けた。
室内には、
壮観だった。異世界に迷い込んでしまったのではないかと思った。出入口の小さな引戸一枚を境に自分が一気に小人になって、本棚と古書の密林を探検する…。そんな感覚。安心する古い紙の香りに包まれながら、私は少し進んだ本棚の陰で鞄から〝あの禁忌の本〟を取り出した。
「…よし」
私は本を手に、再び密林をゆっくりと進む。たまに小さく床板が軋む。
各棚の横面に記された種類項目の小さな案内板と、棚の端に見える本の題名や著者名をぼんやりと眺めていく。本は、ちゃんと表記通りの種類や著者別に纏めて置いてあるらしく、まめな事に大きさもそこそこ揃えられている。
しかし、ここは本屋ではない。店に整然と並べられた真新しい光沢のある感じでは一切無い。たくさんの個性的な古書達は、実に色んな形や色をしている。表紙の厚さや質感、古さも、この部屋にどれ一つと同じ物は無いだろう。
「図書館だったんだもんなあ…」
確かに、ここまで整頓されているのも納得がいく。
……さて。
立ち止まって、手に持っていた赤い本を見詰める。そして周りの棚の案内板をざっと見回す。割と近くに在った『自然・地層・鉱物』の字が目に飛び込んできた。
……これも工匠の運命なのだろうか? なんて、くすっと笑みが零れた。
『鉱物』の棚の前に立ち、一度目を閉じて深呼吸する。…目を開ける。
眼前に並んでいたのは、色んな図鑑や自然に関した写真集、地層の仕組みを説明した専門書。なぜか海外の研究論文も二つだけ混ざっていた。
暫く、じっと本達を見詰める。一体どこに〝これ〟を隠すのが最善なのか、慎重に。慎重に…考える。
孤児院という事は、きっと
私は近くにあった
が、もう私も老いぼれだ。梯子に数歩足を掛けた時点でバランスをとるのが難しい。「歳には敵わないな」と苦笑いで、大人しく諦めた。
……そうだなあ。
何だか惜しい気もするが諦めて、もう少し専門書が多い棚を探そう。私はまた歩き出した。
結局、探し歩きながら何とか見付けた専門書の棚。ここに隠す事に決めた。
この辺りの棚は、ほぼ難しい学問書や、資料で埋め尽くされていたからだ。中には、保護の為のビニールで包まれた表紙も無い何かの統計書類等も多々あり、外観では殆ど触れられた形跡が無いように見えたのだ。
「ここなら…」
また〝あの本〟を見詰める。目を閉じる。色々な感情が渦巻いていた。
私は〝それ〟と同じくらいの大きさ、厚みの本を探し、やっと見付けた僅かな隙間に
「これで…もう」
私は最後に、もう一度だけ〝あの本〟を見る。そして、相当待たせてしまったDさんのもとに急いで戻った。
*
無人になった本棚の一角。
カタカタ
赤く分厚い本が、ひとりでに小刻みに揺れる…
まるで意思を持ち、笑っているみたいに。
カタカタカタカタ
カタカタカタカタカタ…
赤い本は、次第に淡い光を放ち…やがて鎮まった。
誰も居ない…静かな古書室。
***
夕刻。この季節では、もう外は暗い。Dさんと数人の事務員が
「道中気を付けて、お帰りくださいませ」
「……ああ」
「…? どうされ…」
歯切れの悪い私の返事にDさんが不安そうに訊ねる。
「もう一度、
「…ええ! ぜひ」
Dさんは、にっこりした。彼女は本当によく笑う。
劍は今、別室で寝かされているらしく、行き先は地下ではなかった。
案内された部屋に入り壁際に置かれた
私は気付かれないよう、そっと念を込めた。
これで…この子は、私が院を出て行った頃に目が覚める。
「劍…少しの辛抱だ。時が来たら、ちゃんと
……さようなら。どうか幸せに。
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