一章 Nid=Argent・Renard

06 祖父□祈りの日

……消えた。


『〝あの娘〟が…神隠しに遭った』


私達は、一日中泣いていた。毎日毎日…只々、泣く事しか出来なかった。

涙がれてしまうほどに…。


「お兄ちゃん、ちゃんと恭の事、見ていて頂戴ね」

棕矢そうやなら大丈夫だろう。もう、この子も十歳だ」


あの時……私達はどうして、あの子達を置いて留守にしてしまったのだろう。


少年と少女。

彼等は私達の孫だった。両親を早くに亡くした二人。

それは、その兄が十歳、妹が五歳の時の事。

季節は立夏の頃。早月さつきの始め頃であった。


そして、それは〝あの日〟の事。



だから。私達は……〝あの日〟を忘れられる筈も無い。




   □ ■ □ ■ □




霧雨、小雨が訪れ、霧に包まれる時。

石畳の道や、煉瓦れんが造りの建物。ほんの僅かにそびえるビル街やタワー…

それ等全てが、雨や霧で包まれた時。

淡く淡く霞む時。


『雨や霧の日は、ルナのお狐さまが街にいらっしゃる時なのです。わたし達を、見守ってくださるのです』


この街では、どの家でも古くから伝えられている言葉。



しかし、もうひとつ。


『〝晴れた空から雫が落ちて来る時〟は、お狐さまが苦しんでいらっしゃる時です。そして…時には、お狐さまが〝醜く凄惨な神〟と化してしまうのです』

……〝此処ルナ〟は〝此処ルナ〟で無くなってしまう。


『その時、わたし達は〝お狐さま〟に〝全て〟を捧げなくてはなりません』



なぜ、ここ迄〝この口碑はなし〟にこだわるのか…。

それは、くだんの〝掟〟に在るのです。


……故、わたし達は後世に伝え続けなければなりません。






『あの大きな木にはね、この街の神様が住んでいらっしゃるのですよ』


『それから…これは〝わたし達、工匠〟だけの秘め事…』


〝お狐さま〟は、〝この街の表裏〟を支えているのです。


『此方側の世界に雨が降れば、お狐さまはすぐ近くで、わたし達を見ていらっしゃる。逆に、晴れている日には、そのとき雨降る地のお傍にいらっしゃる』



そして。

天気雨…〝狐の嫁入り〟の日には…『〝全て〟を捧げるのです』




   □ ■ □ ■ □




XX11年 5月 


その日の朝は、やけに薄暗かった。

私はベッドから起き上がると、寝室のカーテンを開ける。


窓の外は…雨だった。


しとしとという表現が実によく似合う、淡い雨の朝。

そんな風景に私は安堵しつつも、なぜか漠然とした胸騒ぎを覚えていた。


   *


一階に下りると「お祖父様じいさま!」と言う声と共に、きょうが飛び付いて来た。私は「お早う」と彼女を抱き寄せると、そのふわふわとした栗色の髪に優しく手を置いた。

カウンターの奥から顔を覗かせた妻が、くすくすと笑いながら「お早うございます」と言い、それに続いて現れた棕矢そうやも「お早うございます。お祖父様」と言う。


ああ。こんなにも穏やかな朝なのだ。何も起こる筈が無い。

私は心の中で呟くと、カウンターの端の椅子に腰掛けた。


暫くすると香ばしい匂いと、甘味を凝縮したような優しい匂いが、仄かに鼻をくすぐった。

そして、カウンターの上には、こんがりと焼き上げられたバゲット。ミルク多めのカフェ・オ・レが並べられた。シンプルだが、温かな湯気を立てている朝食は、見ただけで心が温まる。

「恭。はい、これ」

棕矢が隣に掛けた恭に、ガラスの椀と、小柄なマグカップを手渡していた。中身は小さく切った果実と、温めたミルクみたいだ。皆の前に食事が揃った。

「さあ、冷めない内にいただきましょう」とカウンターから出てきた妻が促す。

妻は私と反対側の席に座った。私達で棕矢と恭を挟む形になる。

「恭、ミルク熱いからフーフーしてから飲むんだよ」

「はーい」

棕矢が、自ら妹の世話を焼いている。この頃は特に、配膳やら片付けやらも、よく手伝ってくれているのだ。何だか微笑ましい。そんな私の気持ちを察したのか、妻は私にめくばせすると「良いお兄ちゃんになりましたね」と微笑んだのだった。

四人で並んで食べる朝食。

私の中にくすぶっていた不安は、いつしか消えていた。




   □ ■ □ ■ □




〝あの日〟には、必ず結界を張りなさい。必ず、です。


『もし、あの日が〝天気雨〟になってしまったら…』


『お狐さまが邪神と化してしまうから…』


その時の〝お狐さま〟は、容赦無いのです。



そして。

……あの幾度も繰り返されてきた、悪夢のような出来事。


それが、どうかこれ以上起こらぬように。


そう…故に。

『結界の張り方は、貴方に教えた通り。』


絶対に忘れぬ様。


『そして、後世にしっかりと伝えなさい』




   □ ■ □ ■ □





私は出掛けに、みせに結界を張った。

館の四方に代々在るとされる鉱物の原石をもとに、そこから建物全体を包み込むようにして満遍まんべんなく。

私達工匠は、〝この日〟に必ず結界を張るのだ、と。

何代にも渡って、その独特な方法も、技術も…口頭のみで教えられてきた。


……何も起こらないで欲しい、と。いつの時代も只々、そう願い。


「お兄ちゃん、ちゃんと恭の事、見ていて頂戴ね」

棕矢そうやなら大丈夫だろう。もう、この子も十歳だ」

私がそう言うと、笑顔で「はい、お祖父様じいさま」と頷く棕矢。

そのすぐ隣で兄の手をしっかりと握り締めていた恭も「お祖父様、お祖母様ばあさま。お気を付けて、行ってらっしゃい!」と言った。


   *


今日はルナに在る、唯一の〝大木〟に御祈りを捧げる日だ。

年に一度…立夏の頃に、御祈りをして、街や人々の安寧を願う。ここには、そんな〝暗黙の一日〟があるのだ。

けれど、今。祈りの日に集まる人間は、少なくなってしまった。


…それには、大きな〝理由〟がある。


故に、きっと今回も街の者はあまり来ないであろう…。

「今年は、何も無いと良いですね」と横で不安そうに目を伏せる妻。

私はそんな彼女に向かって「お前が不安そうな顔をすると〝お狐さま〟も心配なさるぞ」と微笑んで見せたのだった。


しかし。

この時、私は…朝感じていたものと同じ、胸騒ぎを覚えていた。






御神木である大木の前に着くと、やはり人はまばらだった。

しかし、その中にも見知った面々を見付けたので「ああ、貴方達も来ていましたか」と声を掛けた。そこには三人の若い男。

「これは、どうも。…今年もこの調子だと、皆さん来ないでしょうね」


ある男は、その優美且つ精悍せいかんな口元に爽やかな笑みを作り、所作美しくお辞儀をした。

またある男は、綺麗に散髪された髪を掻き上げながら「そうですね」と宙に視線を向ける。

そのまたある男は、いつ見ても異様なほどに伸びた真っ白な前髪の隙間からこちらを少しだけ見遣ると、それに頷いた。

ああ。この三人については後、各自A氏、B氏、C氏と記すとしよう。


「そちらは結界、張って来ましたか?」

「はい、勿論」

そうすぐ答えたのはA氏であった。他の二人も、当然と言った風だ。


この若手三人とは、同職故に深い付き合いだ。我々は、鉱物を用いた宝飾品作りを手掛けているのである。室内装飾や壁への宝飾、時には歴史的建造物の補修をも受け持つ。今や、この手の工匠は激減した。いや…むしろ残ったのは、もう、ほぼ「私達四人だけ」と言っても過言では無くなってしまったんだ…。

そう。彼等は同じ職業であった故人達の息子なのだ。


そんな宝飾の工匠を継ぐ私達には、仕来りという名の義務があった。


『毎年、必ず〝お狐さま〟に御祈りを捧げる事』

それが我々に課せられ、託された〝掟〟だった。


どうして、宝飾品を生成する者の掟か…?

それは昔から、お狐さまへの奉納品を作るのが宝飾の工匠であったから、と聞いている。

この、NidArgentアルジャンRenardルナールでしか産出されない貴重な鉱物もしかり。

いにしえから人々や神々を支えて来た、あらゆる〝宝飾〟と〝工匠たくみ〟は、この街の誇りでもあるのだ。





祈りの時間は、約一時間半。代々、教わってきた儀式と共に、お狐さまに奉納品を捧げる。毎年多少の差はあるものの、奉納品にちりばめられているのは、大半がルナでしか産出されない鉱物である。


「貴方」

突然、妻に呼ばれた。妻は青ざめ、空を見上げている…。

「貴方…が!」

しとしとと降り続く雨。しかし、少し離れた所。

雲の切れ間から青空が現れ、徐々に明るくなってきていた。

儀式の進行を任されていた私は、その時〝それ〟に気が付いた。


「まさか!」


今年も…!


辺りを見回すと、皆一様に、確実に近付いてくる〝晴れながらも雨降る空〟を見上げていた。あの三人も苦しそうな表情かおをしている。私は〝掟〟であるこの儀式の進行を止める事も出来ず、ただ「どうか、今年は誰も居なくならないでくれ!」と心で願う事しか出来なかった。


〝今の状態〟では、無茶な願いなのに…。でも、お狐さまに願う。そうする他無かった。



『〝晴れた空から雫が落ちて来る時〟は、お狐さまが苦しんでいらっしゃる時です。そして…時には、お狐さまが〝醜く凄惨な神〟と化してしまうのです』


『もし、あの日が〝天気雨〟になってしまったら…お狐さまが邪神と化してしまうから…』


『その時の〝お狐さま〟は、容赦無いのです』

そして。

『……あの幾度も繰り返されてきた、悪夢の様な出来事』


『それが、どうかこれ以上起こらぬように』



悪夢の様な出来事。


この街では……祈りの日が〝天気雨〟になってしまったら。

この街の少女がひとり消える。

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