夫の貯金を使い果たしたいのですが

秋乃晃

慰謝料はいらない。

 何故なら一文無しなのはわかっているから。

 ないどころかマイナスになることまで、わかっている。


「はぁ……」


 座る前によく確認して、手でぱっぱっと払うなどしたが、それでもワンピースに汚れがついていないかが気になってしまう。うん、大丈夫そう。


「ケツ痛かったねえ」


 ヘラヘラと笑いながら自分のお尻をさすっているアロハシャツの男は、私のこれからのパートナー……なんだかまだ、現実味がない。現実味はないが、私もお尻が痛い。痛いってことは、ここは夢の中ではなくて。


「これがかの有名なねえ!」


 登山鉄道ピーク・トラムに揺られて登ったビクトリアピーク。そこから見下ろす香港の夜景は、人工的だけども幻想的でもあって。でも、どこか。香港有数の観光スポットに対して、芸能人でも有名人でもないただの一般人な私なんかがこう言うのは申し訳ないのだけども、


「なんだか期待外れだわん」

「え?」

「そんな顔をしていたから、ついつい」

「そうね。そんな感じ」


 お互いの顔を見合わせて笑った。思えばあの人に本心を伝えられたこと、なかったな。まあ、どうでもいいか。私とあの人とは、もう無関係なのだから。


 金輪際会わないし、あの人だって私の顔も見たくないだろう。


 と、思うのだが、香港に出発する旅客機に乗る前まで『やり直そう』だの『話し合いの場を設けたい』だのとメッセージを送ってきていた。電話はとっくに着信拒否にしてある。


「ねえ、九くん」

「なあに陽葵ひまり

「今回はありがとう」


 この百万ドルの夜景作り物の美しさをバックに、私は改めて九くんにお礼を言った。九くんはまっすぐと通った鼻筋生まれつきの美しさを掻きながら「ありがとうったって、オレはただだけなんだけどなあ」と、私から目線を逸らす。


「陽葵と一緒なら、これからも楽しいことがたくさんある……そんな気がする」


 九くんが私をぎゅっと抱きしめてくれた。私は一度どん底に落ちたのだから、次こそ這い上がるだけなのだわ。そんな気がするのではなく、絶対に楽しくなる。


「今後ともよろしくね」


 私は背伸びして、九くんに口付けした。ビクトリアピークを下山したら、私たちはコーズウェイベイからマカオへ行く。スリリングなギャンブルの国なら、九くんはより輝けるから。


 

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